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2022.12.28
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先生に学ぶ 3 金元弼。 

 

難路程を乗り越える

 

先生の心情

 

 

皆さんは原理をわかるごとくに、先生の路程で起こったことを、はっきりとわからなければいけません。なぜならば、先生の路程というものは、その原理の道をそのまま通っている路程であるからです。先生は、原理をそこなった道は行かれません。ある時がくれば、先生の路程に対する試験があるかもしれませんよ。原理とまったく同じですよ。原理試験を受けるのと、まったく同じです。なぜなら先生の路程というものは、アダム家庭を中心とする復帰摂理、イエス様を中心とする復帰摂理と同じように、個人から世界までのすべての路程の典型的な復帰路程なのです。これがもっとも大事な路程なのです。

ですから、いくらアダム家庭を中心とする復帰摂理の意味がよくわかっていたとしても、先生の路程のことがわからないでは困るのです。

先生が、あそこでここで、こういうことをした、それくらいしかわからないのでも困ります。先生がそこで苦労した、という苦労自体が問題ではありません。苦労が「何を意味するか」です。どのように苦労を勝利したか、ということが問題です。どういう心をもって、その苦労をしていったかが問題になるのです。私たちは、いつも決心をしていろいろな事をやるけれども、思いどおりにならないと躓いてしまいます。ですから、先生はどういうときに、どういう心持ちで、どういうふうにして、あんなに勝利することができたのだろうか、それを皆様にお話ししたいのです。

先生はいつも、ご自身の苦労よりも、先生をこのように遣わして六千年の復帰摂理を完成せしめようとなさる神様のことを考えたのです。自分自身の生命はいくらなくなってもかまわない。けれども、私が生命をなくすことによって、私を通じて六千年の復帰摂理を完成せしめようとする神の願いが、摂理が、延長されたらどうするだろう、と考えられたのです。

自分は死んではいけない。死ぬまで苦しむことはいいけれども、命が切られるようなことがあってはいけない。先生は、このように考えられたのです。「私は死にたくない」というその心が、普通の人とは全然違うのです。

イエス様が十字架の前で、「なるべくなら死の杯を、十字架を免れさせてください」と祈られた、ぞの心と同じようなものです。自分の使命をここで果たさなければ、誰かがその使命を負って苦しむだろう。彼を苦しませるよりは、かえって私が苦しむ方がましだと先生は考えたのです。

自分のためにではなく、人のために決意したのです。そこが自己中心ではないのです。その精神が、先生の路程には、ずうっと漲っているのです。一貫しているのです。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

例・先生の心情を見習う。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。問題児ばかりいる、あるチームがあるとしましょう。そしてそれを率いているリーダーが、「自分には、ここはどうにもできない。あそこのチームはメンバーが良いので、あそこを私はやりたいなあ」と思っているとしましょう。しかしもし、先生の精神を受けいれるとするならば、そのリーダーは、どんな考えをするようになるでしょうか。

私が「ここは難しい」と言ってここを離れたならば、

私の代わりに、誰かがこのチームを率いていかなければならない。私は今までここでやってきたので、少しは事情がわかるけれども、私が離れた場合、次の人はまったく事情もわからない中で、最初の頃に私が苦しんだのと同じ道を、また反復していかなければならない。だから、その人を苦しませるよりは、かえって私が苦しみを勝利していかなければならないだろう。その人を苦しませないために、私はもっと苦しんであげよう。先生の心がわかると、こういう心持ちになれるのです。

また他にも、考えなければならないことがあります。

問題のあるチームにいて、いろいろと苦労しながら指導した、その内容は、自分だけがしたものではないということです。チームを引きあげるために、この自分を通じて、いろいろと教育し苦しまれた、神様がいらっしゃるということを忘れてはいけません。

また、自分は完全なリーダーではないのです。だから自分がよく指導できず、そのためにメンバーが傷つけられたこともあるのです。メンバーが自分の話をきかないので自分も傷ついたこともあるでしょうが、同時に、メンバーも傷ついたことがたくさんあるのです。そういうことを考えると、私がもうちょっと神の心で皆を指導するならば、このチームを通じてなされる神の摂理は短縮されるだろう、となるのです。

 

 

新しくリーダーになった人へ

 

アダムが失敗したあと、アダムの代わりのノアを立たせるために1600年かかりました。それは、Aというチームリーダーがうまく指導できなかったために新しいチームリーダーを立たせるためには、それくらいのものが必要であるということなのです。皆さんは、人が変われば、すぐに変わったと思いますが、形状的には変わったとしても、内的にはまだまだ変わっていないのです。

新しくリーダーとして行くと、前の人がやっていたことをやりたくなくて、全部取り除き、新しく自分の方法でやろうとしますが、それはよくありません。蘇生のない長成がどこにありますか、長成のない完成がどこにありますか。最初の人がよくできてもできていなくても、その人がある基盤をつくったからこそ、自分は、その次の基台から始まることができるのです。ですから、後に来た人が最初の人よりも、もっと上の立場に立たないかぎりは、引き継ぎは終わっていないと考えなければいけません。

つまり、新しい人が引き継ぎをするためには、そのチームを率いることのできる基台をつくらなければいけません。最初のリーダーはどのようにメンバーを導いたのか、それをわからなければなりません。また、メンバー一人ひとりがどういう人であるか、すべてをわからなければいけません。そして、そのメンバーとの心情的関わり合いを、最初の人よりも良い関係にしなければなりません。そしてまた、最初の人がメンバーを指導した、それより以上の熱心さ・心情をもたなければいけません。それによってはじめて引き継ぎが始まるのです。

最初によくできなかった者があるならば、そのあとに行く者は、できなかった蕩減をしなければいけません。

よくできなかった所に行くと、たくさん苦しまなければならない理由は、そこにあるのです。最初の人と次の人は、人物は違うけれども、その神のみ旨を中心としてみれば、同じ人なのです。だから最初の人がよくできたもの、できなかったもの、それが全部、次の人に引き継がれるのです。前の人の責任は、前の人の責任であって、私には責任がない、ということはありません。皆さんは、それをはっきりとわからなければいけません。

 

リーダーの責任

 

先生と心情一体化していく御夫人が、いかに難しいかを考えてみてください。女性が男性にただついていくことさえ難しいことです。世の中でそれぐらい難しいことはありません。そしてその主体者が個人的、世界的というふうになればなるほど、その相対者も難しくなるのです。ですから御夫人の、先生との生活が、どれぐらい難しいかが理解できます。

ナショナル・リーダーの奥さんも同じです。いくら旦那さんが足りない人であっても、その立場に立っている人に対して文旬を言ったら、神は喜ぴません。それは他のメンバーの場合と立場が違うのです。恐しいことになります。ですから、そういう責任をもつ人は、たとえ殴りたくなるような心があっても、それができないのです。

メンバーたちはできても、責任に立っている人はできなを考えますか。自分というもの。自分がどれくらいよくないかということを知るのです。

先生がアメリカに来て反対されたとき、先生はそれをどう考えられたでしょうか。先生は人に対しで~反対したりしたことがありません。その先生は、「私が二十年前に、三十年前に、一九四六年の頃に、早く来ていさえすればこんなことはなかった。 私が遅れてきたので`こういうめにあうんだ」と、かえってこの反対を、「なぜ早く来てくれなかったんですか」というふうにとらえたのです。

先生は、国がひじょうに悪いときには、もっともっと熱心に自分は心を尽くさなければいけないと考えられるのです。すると神様は先生をどのように考えるかといいますと、「いやいや、お前はよくやったよ。私が悪いんだよ。私が悪いのであって、お前はよくやったよ」。かえって神様は先生の言うことをすぺて信じて、先生を立たせていくのです。そうして神様は先生の中に、いつも離れないで一緒におられるのです。実体の神様とは、そういうことなのです。堕落しない完成したアダムという人間は、そういう形の者なのです。ですから私たちも真の子供となるためには、先生のような心をもっていなければなりません。・

「自分のメンバーは悪い」と自分のメンバーの悪口を言うリーダーはよくないし、「自分のリーダーは悪い」と言うメンバーもよくありません。夫婦の関係も同じです。自分の奥さんの悪いことを人に言うし、また自分の旦那さんの悪いことを人に言うぐらい、悪い人はいません。それはよくないことです。「悪い」と言うのは、「自分が悪いです」と言うのと同じです。「私は、神様の前で、真の親の前で、こんなに悪い者です」と言うことと同じなのです。

いくらアベルに足りない点があっても、自分のアベルに対して不平・不満を言うとすれば、復帰の道はありません。不平・不満を乗り越えるためには、どうしたらいいのでしょうか。アベルが悪いということは、自分自身がアベルの前に、神の前に、カインの立場として、そんなに悪いということを知らせるものです。そう考えなければいけません。そういうことによって感謝の心でアベルをもっと助けていくならば、その人はアベルのアベルになりえるのです。






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最終更新日  2022.12.29 11:33:42
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