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テーマ:日本の古典文学は面白い(91)
カテゴリ:日本の古典
人間が生きているうちに経験できることは
ほんのわずかだと思う。 だからどんな人でも 経験や知識のあることはわかるけど それ以外のことに関しては何も知らないし するのも初めて ということは多い。 人間は神ではない のだ よく・・のくせに みたいな暴言をはく人が多いけど ・・だからこそ何も知らない場合も多い 1つのことを専門にやってきた人は それ以外のことは知らないのが当然 たかだか数十年の人生で 何もかも達人になる なんてありえない 他の人が自分の専門分野のことをやってると ・・・ って思えるけど 逆の立場になれば当然 ・・・ って思われるわけだ どんなことでも真剣にとりくめば 知らないことがいかに多いかわかってくるわけで ほんの一部を知っただけですべてを知ったように思う奴は最低 というわけで徒然草第167段の原文 一道に携はる人、あらぬ道の筵に臨みて、 「あはれ、我が道ならましかば、 かくよそに見侍らじものを」 と言ひ、心にも思へる事、 常のことなれど、よに悪く覚ゆるなり。 知らぬ道の羨ましく覚えば、 「あな羨まし。などか習はざりけん」と言ひてありなん。 我が智を取り出でて人に争ふは、 角ある物の、角を傾け、 牙ある物の、牙を咬み出だす類なり。 人としては、善に伐らず、物と争はざるを徳とす。 他に勝ることのあるは、大きなる失なり。 品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、 先祖の誉にても、人に勝れりと思へる人は、 たとひ言葉に出でてこそ言はねども、 内心にそこばくの咎あり。 慎みて、これを忘るべし。 痴にも見え、人にも言ひ消たれ、 禍をも招くは、たゞ、この慢心なり。 一道にもまことに長じぬる人は、 自ら、明らかにその非を知る故に、 志常に満たずして、終に、物に伐る事なし。 大筋においては納得できるけれど おかしな所もある >我が智を取り出でて人に争ふは、 角ある物の、角を傾け、 牙ある物の、牙を咬み出だす類なり。 それを否定してしまったら 議論というものができないし 学問も成立しなくなってしまう。 議論というのは知能のスポーツであり 動物的な格闘とは区別されるべき ただ議論において反論は その意見や考え方に対してなされるべきであり 意見を主張する人間の人格だとか 生き方とかを攻撃しだすともはやそれは喧嘩である 知力が低く議論に勝てそうにないとき そういう方向に向かう輩が多い 話は変わるが 現在日本と韓国の間で 竹島の領有をめぐって紛争がおきかけている 平和的に解決するならば 国際司法裁判所に判断をゆだねればいい だが韓国はそれを拒否している 負けるのがわかっているからだ そのような場所に軍隊を送り占領し 近くを航行する漁船を銃撃して多くの日本人を殺してきた 議論で勝てないものだから 日本の国旗を燃やしたりしてとても見苦しい そういうことに対して国内からの批判がないのもおかしい ほとんど洗脳に近い教育を行っている証拠である こんな国が隣にあるというのは脅威以外のなにものでもない その気になれば短時間でカタはつくだろうけど 邪膜彩 (id:yurina0023) 15年前 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.01.31 09:37:49
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