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カテゴリ:祈り
あなたが祈っているとき、「誰が祈っているのですか」と質問することは愚問中の愚問でしょう。「自分にきまっているじゃないか」、みんなそう答えるに違いありません。
実は、この問いへの答えはそう簡単ではないのです。「自分にきまっているじゃないか」というときの自分とは、「自我」のことです。自分で意識できる自分が自我ですが、祈りは自分の自我が祈っているとふつうは考えます。 しかし、祈りの実態を見てみると、意識できる自我よりも奥にあるもの(本当の自分、真我)が祈っていると考えられるのです。わかりやすく言えば、自我とは顕在意識の自分であり、その奥に潜在意識が広がっていますが、真我とは顕在意識と潜在意識のさらに奥にあるもの、いわば超意識・超無意識の自分と言ってもいいでしょう。 だれが祈っているか考えるとき、ふつうは「顕在意識の自分」が祈っていると考えます。しかし、祈りの経験に即して表現すれば、「祈っているのは自我ではない」と言えるのです。 実際、深い祈りの状態では、祈っている人が「我を忘れた状態」、つまり無我、無心の状態になるのがほとんどです。そこに達していない祈りには、自我の欲望や願望が絡みついていると考えて、まず間違いありません。だから「自我は祈れない」と推測できるわけです。 「祈っているのに、少しも実現したためしがない」と嘆く人は、自我レベル祈りだからかもしれません。 もちろん、自我の祈りがまったく無効というわけではありません。しかし、遺伝子のスイッチのオン/オフは、もっと奥の真我レベルで反応するようなのです。 ◇ つまり、私たちは奥にある本当の自分(真我)に働きかければ、眠っている潜在的な力を発揮できるのです。たぶん、本当の自分との結び付きによって遺伝子がオンになるに違いありません。生活の中で祈りを有効なるものにさせるには、意識を真我につなぐ必要があるということです。 インドの哲学では本当の自分(真我)のことを「アートマン」と言っています。これは自分でも気づかない潜在意識の奥にある超意識のことで、個人の根本原理のことです。このアートマンに対応するのが「ブラフマン」で、こちらは宇宙の根本原理です。アートマンとブラフマンが世界を理解する究極の真理とされています。 このことが意味するのは、私たちの意識の本体はアートマン(真我)があるということです。だとしたら、祈るときに「自我の自分が祈っている」と意識できるような祈り方では、本当に祈ってはいないということです。 【人は何のために「祈る」のか】村上和雄著/祥伝社黄金文庫 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 18, 2015 09:50:20 AM
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