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May 20, 2019
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本抄は、「断簡」つまり、切れた手紙の一部で、短いので前文を、まず書きましょう。

米穀も又又かくの如し、同じ米穀なれども謗法の者をやしなうは・仏種をたつ命をついで弥弥強盛の敵人となる、又命をたすけて終に法華経を引き入るべき故か、又法華の行者をやしなうは慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし、一切衆生を利益するなればなり、故に仏舎利変じて米と成るとは是なるべし、かかる今時分人をこれまでつかはし給う事うれしさ申すばかりなし、釈迦仏・地涌の菩薩・御身に入りかはらせ給うか。
其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ、仏種は縁に従つて起る是の故に一乗を説くなるべし、又治部房・下野房等来り候はば・いそぎいそぎつかはすべく候、松野殿にも見参候はば・くはしくかたらせ給へ。(御書p.1467

有名な「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」は、このお手紙にあるのですよーー。
前回も述べたように、このお手紙の宛先が南条時光であるとしたら、とてもリアルですよね。熱原法難の不穏な状況のなかで、しかも大聖人は身体的な困難もあり、身延からは出られないわけです。
「頼むから、信仰を貫いて欲しい、さらに熱原など富士の信徒を守って欲しい」という切迫した雰囲気が感じとられます。「又治部房・下野房等来り候はば・いそぎいそぎつかはすべく候」の一条にも、緊迫感があります。

今回は、その次下の「仏種は縁に従つて起る是の故に一乗を説くなるべし」というところを巡って、考えてみたいと思います。

なんか、過去の栄光を忘れられないおっさんたちが、「大阪万博」なるものを計画しているようですが、大阪では、1970年の「万国博覧会」の後も、BIE認定の 「国際博覧会」が開かれているのです。「万博」には及びませんでしたが、同じくBIE認定の 「国際博覧会」である愛知万博より入場者数がおおかった「花博」が。

1990年、大阪・鶴見緑地で開かれた「花博」、「国際花と緑の博覧会」。その跡地は、大きな公園となってるのですが、今回の万博を主導したエラい人たちは、不思議にも、この公園を無視したり、また民間に売り渡そうとしたりしていて、「人々が交流する都市型万博(跡地も含めて)」ということを、心の底から信じていないようですね。

結局、騒ぐのが好きなんですよね。

さて、その「花博」での出来事なんですが、一つのパビリオンで開かれたシンポジウムで、ある日本人作家で、しかも大阪では「文化人」として評価されていた人物が、こんな話をしたんです。

「思想的には、日本思想が世界でもっとも高度である。なぜならば、日本には、山川草木悉皆成仏、一切衆生悉皆成仏、生物、無生物を問わず、すべてが仏であるという平等主義の中古天台がある」

これに対して、当時から、今での、世界最高峰の仏教学者であり、登壇していたLambert Schmithausen博士(ドイツ・ハンブルグ大学)から、異議がありました。
「すべてが仏だとしたら、原子爆弾も仏ですか?公害の廃棄物も仏ですか?」
単純に、善悪を二分することもさけるべきでしょう。
とともに、全部が仏だ、それでいいじゃないか、と単純に考えること、さらに、それをもって、「日本が一番」と単純に決めつけることは、もっとも避けねばなりません。

つまり、避けるべきは、「善悪を区別すること」でもなく、「善悪を一如と考えること」でもない。
避けるべきは、「単純に結論をだすこと」なわけです。

このシュミットハウゼン博士の見解は、とても明快で、しかも鋭い。
逆に言うと、その作家、およびその作家が奇しくも「世界一」とした、「日本的物の考え方」は、明らかに、「単純」で、浅薄なものであるかもしれません。

すべてのものが平等であるという意味で、「一切衆生悉皆成仏」と「一切衆生悉有仏性」は、似ているようで、実は、とてつもない違いがあるわけです。

日本の中古天台は、「一切衆生悉皆成仏」だから、仏道修行など要らない、また苦しんでいる人は、そのまま仏だから、ほっといてもいい、とまで行くのです。

しかし、「一切衆生悉有仏性」は、そうではありません。「仏性」はある、しかし、現実的にそれは開いていない、と考えるのです。
もちろん、原爆の仏性を開かせるのが、原子力の平和利用だ、原発だ、というのも、「単純な反応」です。そこは、悩まねばならないところです。

困難にある人は、仏性がない、救いがたい、自業自得の人だでは、「一切衆生悉有仏性」ではありません。同じ人間なのです。
ただし、苦しんでいても仏だから、ほっとけー、というのは、おかしい。
その「仏性」が開花していない。ならば、その仏性が開花するような社会、周囲を作る責任は私たちにあるわけです。

「仏性」は、「仏種」と同じです。人それぞれ、仏になる種がある、それを芽吹かせ、開花させるための、環境を、私たちは作らねばならない。

その環境や社会は、「縁」(ārambha)と呼ばれるものです。その縁に触れて、仏種は開花する。

大聖人は、そのような縁を作るために人生を捧げました。
このお手紙が宛てられた弟子にも、それを期待されたのです。

 






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Last updated  May 20, 2019 04:41:28 AM
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