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カテゴリ:友岡さんのセミナー
各各師子王の心を取り出して、いかに人をどすとも、をづる事なかれ。師子王は百獣にをぢず、師子の子又かくのごとし。彼等は野干のほうるなり、日蓮が一門は師子の吼るなり。(御書p .1190)
とてもとても有名な御文です。まず、本文に入る前に、些細なことですが、ちょっと書いておきます。 「野干」です。 この「野干」、昔はキツネやヤマイヌと訳されていましたが、今は、ジャッカルとする例が多くなってきました。 さてさて、たまたま、大学で、「サンスクリット文法」を習っていたとき、最初に「おとぎ話」の一節を習ったんです。 最初の最初は、あの「世界で最も広く伝わった民話」、「バラモンの妻とマングース」でした。 バラモンの妻が外出しているときに、コブラが家に入ってきて寝ている赤ちゃんを狙おうとしている。そこで、飼っていたマングースが、赤ちゃんを守ろうとコブラとたたかい、コブラを倒す。 マングースは、サンスクリットで、नकुल, nakula といいます。 その最初のころの授業習ったいくつかのおとぎ話のなかに、マングース以上に出てきたのが、शृगाल śṛgāla、जम्षुक jambuka ジャッカル、でした。 まあ、ともかく、そのとき、「jambuka は、『野干』」と記憶され、さらに、予習していったので、’V.S.Apte Sanskrit-English Dicrionary’ ‘Oxford Monier-Williams Sanskrit-English Dicrionary’に載っていた、jackalも、すでに記憶されていたのでした。 『大和本草』などでいうように野干は狐と別物で、英語でジャッカル、梵名スリガーラ(すなわち悉伽羅)またジャムブカ、アラビア名シャガール、ヘブライ名シュアル、これらより射干また野干と転訳したのであろう。『博物新編』にはなどでは豪狗と作り、モレンドルフ説では漢名豺(さい)はこの獣を指すという。このものはたいそう悪賢いとの話がインドやアラビアなどの書に多く見え、聖書に狐が奸智の深いことを言われるのも、じつは野干を指すのであろうという。したがって支那日本で行われる狐の諸譚のなかに野干の伝説を混入したことが多い すごいですよね。熊楠。 さてさて、問題の「野干=jackal」ですが、インドの説話において、どちらかというと、「トリック・スター」的な役割で出てきます。「トリック・スター」っていうのは、民俗学、民族学、文化人類学の概念で、秩序を破り、そして混乱をもたらし、時には、新しい時代を開くような役割を演じる存在です。もちろん、混乱のなかで、失敗する例もあります。 たとえば、あるジャッカルがふらりふらりと散歩をして、町のなかをうろついているうちに、染め物屋さんの、染料の瓶に落ちてしまい、青色に染まってしまう。
こういう話が、古代インドの教訓説話集「ヒトバーデーシャ」の第三章に出てきます。 この「ヒトバーデーシャ」などの説話集は、「説話」というものの性格もあるのでしょうが、どちらかというと、こっけいな姿のジャッカルが描かれます。 しかし、たとえば、仏教でも、後期の、イスラムのインド侵攻後に成立してきた仏教、すなわち「密教」などでは、ヒンズー教の影響で、人を呪い殺すようなおどろおどろしい、呪法が現れます。その時、「死体を食べる神」、茶枳尼天の眷族として、野干が扱われるようになったりします。 大聖人の御書中の「野干」は、そのようなおどろおどろしい雰囲気はまだありません。 例えば、この時に、本来は、芸術の技を研くために信仰する「弁才天」が、金もうけを祈る「弁財天」になって行ってしまったりもしました。 なんか、とても紆余曲折話になってしまいましたが、「野干」というのは、ジャッカルで、インドではおとぎ話によく出てくる、わりと身近な存在。後世の、日本の茶枳尼天信仰みたいなところでは、キツネ(日本には、ジャッカルはいないので)として、わりとおどろおどろしいイメージで語られることになりますが、 大聖人のころは、まだそうではありません。 あくまで、師子(=獅子、ライオン)との対比で語られる存在なのです。 では、その対比とは。 その2を請うご期待。といっても、また紆余曲折話かも。
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Last updated
September 10, 2019 03:22:57 AM
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