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カテゴリ:新型コロナウイルス
カミュ 「四月十六日の朝、医師ベルナール・リウーは、診察室から出かけようとして、階段口の真ん中で一匹の死んだ鼠につまずいた」(宮崎嶺雄・訳) ノーベル賞作家、フランスのアルベール・カミュの「ペスト」は、こんな風に始まる。 一匹だけではない。医師の行く先々で、鼠の死骸だらけである。彼は市役所に通報する。「毎朝、明け方に、死んだ鼠を拾集するよう鼠害対策課に命令が発せられた。拾集が終わると、課の車二台がその鼠を塵埃焼却場へ運んで焼き捨てることになっていた」 わが国では一八九九(明治32)年から一九一一(明治44)年にかけて、断続してペストが流行した。ペスト菌の発見者、北里柴三郎博士が菌を媒介する鼠の駆除を唱えた。 東京市は死骸を交番に持参すると、一匹につき五銭で買い上げた。それらはカミュの小説のように、焼却場に集められたらしい。 北里博士は、一方で猫の飼育を奨励した。明治四十一年、北里の師のコッホ博士が来日し、猫の有用なることを大々的に宣伝した。 にわかに猫ブームが起き、猫の百科事典ともいうべき研究書『猫』石田孫太郎著)が発刊された。わが国最初の猫辞典である。 この本に「猫とペスト病」の一章があり、以上の事柄を述べたあと、明治四十二年に調査された東京市内の猫の数の一覧表が載っている。 それによると、最も多いのは日本橋区で、二万五千戸のうち飼育数は二千三十六匹である。十戸に一匹の割合である。商店街が多く、商品を鼠やられぬ用心のためらしい。 さて当時は十五区の東京市の総戸数は、三十六万一四二八戸、猫の総数は二万五五六八匹、飼猫の比例は十四戸に対して猫一匹である。 この調査票の出典が明示されていないのは残念だが、貴重な猫調査であろう。原本は稀覯本だが、復刻版が出ている(昭和55年)。 カミュの『ペスト』の話だった。 疫病が蔓延し、死亡者が連日何十人も出た。そうしてついに市の門が閉ざされた。ペスト地区と指定され、外の地区と共通ができなくなった。手紙のやりとりも禁じられた。市民たちは目に見えぬ敵と闘わざるを得なくなった。 医師リウーは「天災のさなかで教えられた」として、こう記す。「人間の中には軽蔑すべきものよりも讃美すべきもののほうが多くあるということ」。カミュは一九六〇年四十六歳で交通事故死した。
【出久根達郎の「世界文学名作者伝」▷116】公明新聞2020.4.5 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 22, 2020 12:32:39 PM
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