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カテゴリ:文化
発掘進む仏教誕生の古墳群 山田 勝久
寛容と慈悲、非暴力の源流―― 文明の興亡知り、未来の光源へ
生誕地聖域計画をもとに整備 インドやネパールでは、近年、釈迦ゆかりの遺跡が発掘され、新しく博物館も建てられている。 筆者は今春、釈迦生誕の地・ルンビニとその周辺の古跡を調査してきたので、その歴史と現在の姿を紹介する。 ルンビニはネパールのタライ平原の小さな村にあった。釈迦の生母・摩耶は東方に位置するコーリャ族の出身で、シャーキャ(釈迦)族の浄飯王のもとに嫁いだが、解任した実家で出産することになった。そしてシャーキャ族の住むカピラ城からの、その帰途、ルンビニの村で産気づき釈迦を生んだ。出産前に沐浴し、産湯を使ったと伝えられるプスカリニ池が今も残っている。 紀元前249年、マウリヤ朝のアショーカ王はこの地に石柱を立てたが、3世紀初めにイスラム教徒によって破壊され、文字は削り取られてっしまった。1896年、インド考古局のヒューラーらの発掘調査隊は、ブラーフミー文字で刻まれた詔勅文を発見し、この地が釈迦の生誕地と認定された。弁財は「ルンビニ釈尊生誕地聖域計画」のもと、着々と整備が進められ、世界遺産に登録されたこともあり、多くの信者や観光客でごった返していた。
釈尊ゆかりのカピラ城探る 釈迦が王子として暮らしたカピラ城の場所については、ルンビニから南西約20キロにあるインドのピプラハワーとネパールのバーンガンガ川の東岸にあるティラウラコットの二説がある。 ピプラハワーはストゥーパ(仏塔)を中心とした広大な僧院遺跡である。レンガを積み重ねた高さ約7㍍、基部直系約40㍍のマウリヤ朝の遺構である。雄大な墳墓の池水には蓮の花が美しく咲き薫っていた。南西1キロにはガンワリヤ遺跡がある。 1898年、イギリスの駐在官・ペッぺは、この地の墳墓を発掘し、「釈迦の遺骨を納める」と記されたブラーフミー文字の銘文入りの舎利壺を見つけた。その後、インドの考古学者・シュリヴァスタヴァが2個の滑石性の舎利容器を発見し、これまで8個の舎利壺が発見されている。 一方、南北530㍍、東西420㍍にわたって、幅約3㍍の累壁に囲まれるティラウラコットの遺跡は、発見時は深い密林に覆われていた。1899年、インドの考古学者・ムケルジーは、この地から釈迦在世の時代を示す北方黒色磨研土器を発掘。また、舗装道路や東西南北の門壁も発見した。銘文こそ出土していないが、ティラウラコットこそカピラ城ではないかと私は考えている。 釈迦がけっ去りあ出家を志し、自ら剃髪し、王族の衣服から粗末な衣に着替えたケッサリアの地も調査した。ケッサリアはルンビニから南東に200キロ余り、ビハール州のガンダク川の東岸にある。初めは小さな仏塔が建てられたが、仏塔が信仰の対象になったこともあり、6世紀ごろ、その高さは46㍍、直径110㍍、にも及んだ。しかし、仏教の衰退とイスラム教徒の破壊などによっていつしか忘れられ、樹木が繁茂する丘陵になってしまった。 イギリスの考古学者・カニンガムは、この墳墓を発掘し、27体の仏像を発見した。仏塔は6段になっている。現在、3分の1しか発掘されていないが、現地住人は「保護のための柵もなければ、管理人もいない。ここは忘れられた聖地です。しかし、将来は必ず世界遺産になります」と黙々と発掘を続けていた。
祇園精舎寄進の須達長者邸 祇園精舎を寄進した須達長者は、舎衛国、シュラーヴァスティーにあった。釈迦の慈悲あふれる魂の旋律にふれ、仏弟子になった須達長者は妻子眷属みな仏教に帰依させ、生涯、純粋に仏道に精進した。ガンダーラ出土の「祇園布施図」には、須達の釈迦を敬慕する姿が描かれている。 私はこれまで、楼蘭の仏塔や亀茲国のアアイ石窟、南新彊のキバン千仏洞など、26カ国で65回にわたって仏教遺跡の踏査を重ねてきた。過日は、釈迦の説いた教えが、どのようなルートを経由してガンダーラから中央アジア、そして敦煌に伝来したのかを考察し、中国、日本、それぞれで論文を発表した。 仏教の光彩は、今を生きる私たちに、滋味あふれる人生の指針となるだろう。また、過去の歴史を学ぶことで、文明の興亡の要因を知り、未来への平和の光源もくみ取ることができる。 (神戸常盤大学客員教授)
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Last updated
April 26, 2020 01:29:23 AM
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