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May 26, 2020
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カテゴリ:文化

ルネ・ユイグの功績

東京富士美術館 館長  五木田 聡

 

ルーブルの私法を守り抜き精神の復興のために闘う

戦後日本の復興を象徴する出来事のなかで、忘れられない展覧会がある。1964年の東京オリンピックから10年後の1974年春、日本国民を熱狂させた「モナ・リザ展」である。階上の東京国立博物館には長蛇の列ができ、会期中約150万人が世界一有名な絵画に酔いしれた。そのとき、フランスを代表する来賓の一人として≪モナ・リザ≫を携えて来日した人物がルネ・ユイグ(190697)である。

1937年、31歳の若さでルーブル美術館の絵画部長に就任したユイグは、同館の旧態依然とした展示方法の改革に着手、鑑賞者の目線で展示室の改善を図り、美術館の近代化を推し進めた。それまで美術館の展示室といえば、壁は天井まですべて絵画で埋め尽くすという風であったのが、人目の高さで横一列に絵を並べていくという「一段掛け」を定着させた。これは今日、国際標準とされる絵画の展示方法である。同館のグランドギャラリーの壁面が単調にならないように、ところどころにニッチ(壁龕(へきがん))を作り、そこに古代彫刻を配置して、展示室の雰囲気づくりにも配慮した。また、それまで顧みられなかった修復・保存の業務のシステム化や資料室の創設など、表には見えないが博物館業務の大切な縁の下の仕事にも着目し、学芸員のバックヤード業務を可視化、組織化した。しかし、順調にルーブル美術館の業務改革に取り組んでいた矢先、ナチスの軍靴の音が近づいてきた。ドイツ軍のフランス侵攻に際して、レジスタンス運動の闘士でもあったユイグは、自らの生命をかけてルーブル美術館の美術品を守り抜こうとした。ユイグはルーブルの作品の地方への疎開を提案。≪モナ・リザ≫を含む約4000点の絵画を守るため、作品をトラックに積んで疎開先へ移送する行動に出る。絵画の保管先に選ばれたのは、パリから南方へ400キロ以上も離れた南仏の山中にあるモンタル城であった。そこで日夜、敵国軍の兵士に銃を突きつけられながらも抵抗を続け、ついにはルーブルへの無事帰還を果たしたのである。すべての絵画は一点たりとも欠けることなく、しかも無傷であった。

戦後は、1950年からコレージュ・ド・フランスにおける「造形芸術心理学」の教授に就いた。1960年にはルーブル美術館を退任し、講義に専念。雄弁な語り口で芸術の魅力を綴る20世紀屈指の美術評価の語り手となった。美術史家、美術評論家として古典美術から現代美術まで幅広く研究し、多くの茶策を発表。日本語訳が出版されたものに、『見えるものとの対話』『イメージの力』『かたちと力』などがある。

美術批評を通じて、人間はその前性を発揮してより高い精神に飛翔し、より良い社会建設に貢献しなければならない、と説いたユイグ。彼の「芸術に捧げた人生」は晩年、東京富士美術館の創立者である池田大作SGI(創価学会インターナショナル)会長の平和運動の哲学に接近し、協奏曲を奏でたのであった。ユイグはこう語る。「池田氏と私の友情は、〝精神の復興〟のための共同戦線なのです」と。その友情は対談集『闇は暁を求めて』に結実している。

(ごきた・あきら)

 

 

【文化】公明新聞2019.10.23






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Last updated  May 26, 2020 03:31:12 AM
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