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July 7, 2021
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生命尊厳の仏法思想が差別と偏見を越える鍵

 

国内でコロナウイルスの感染が確認されてから、約7か月。社会に立ちはだかるもう一つの敵が「差別」や「偏見」だ。医療従事者の家族が登園・登校を断られたり、県外ナンバーの車が投石を受けたりといった出来事も報じられた。感染症、検査、隔離、差別―世間をにぎわす単語に触れ、ハンセン病の歴史を想起した。その教訓から学べることがあるはずだ。40年以上にわたり、ハンセン病の臨床医として、日本をなじめ海外でも患者を支援してきた医師を訪ねた。(記事=成川航大、橋本良太)

 

ハンセン病の教訓

「日本では国のハンセン病対策が偏見・差別を助長してきた歴史があります」。長尾榮治さん(76)=香川県高松市、県総合長、方面副オクターブ長=は、こう前置きして語り始めた。

ハンセン病は「らい菌」により皮膚や末梢神経が侵される慢性の伝染病だ。感覚以上等の症状に加え、顔や手足のまひや変形といった後遺症が知られている。

1907年(明治40年)の「癩予防ニ関スル件」(後に「らい予防法」が成立)により、患者は療養所に強制隔離された。各地では「無らい県運動」が推進され、競うように、感染の恐れがない患者までも収容の対象となった。

戦後、「プロミン」などの治療薬の開発で〝治る病気〟となってからも、96年(平成8年)の同法廃止まで隔離政策は続いた。

長尾さんが香川県高松市にあるハンセン病の国立療養所「大島青松園」に赴任したのは、その隔離の歴史のなか、75年のことである。「青松園勤務を志願した際、医局の上司や先輩からは、大変珍しがられました。「かかわる病気や患者さんも限られる。〝世捨て人〟というような言葉まで、私の耳に届いた」

そんな声にもかかわらず、長尾さんを青松園に導いたもの。それは「正しい知識を、私自身が触れ合ってきた患者さんの姿」だった。

 

「人権」という人類の財産

 

実は学生時代、創価学会で班長(当時)だった父に連れられ、青松園に暮らす同志の元へ通っていた。

「皆さん、誰もが優しいおじさん、おばさんでした。父は病の有無や外見の違いを超え、人間対人間として、相手と接していた。幸運にも、それが私の〝当たり前〟であったわけです。

長尾さんが赴任した1975年当時、入所者の数は約550人。大半は〝元患者〟だった。だが、〝外の世界〟から園に向けられる差別は根強かった。

「社会復帰を支援し、園から送り出した夫妻がいました。後に、お訪ねすると、住まいは家賃の高いマンションなんです。理由を尋ねると『ここは安いアパートよりも人に会わなくて済むから』と。胸が締め付けられました」

数年後、十分な健康管理ができていないまま、妻は手遅れとなった乳がんでなくなり、夫は再び療養所に戻った。

「病気としてのハンセン病は治っているのに、後遺症を引き金に差別を生み、患者を社会の端へ、園へと戻してくる。故郷を捨てさせられ、自立のための職業技術を得る機会も与えられなかった。『園内でしか生きていけない人生』といえる状況が作り出されてしまった。彼らを社会から隔絶する壁や溝を壊すことなどできるのかと、私は悩みました。

長尾さんが、一筋の光明を見出した出来事があった。78107日、青松園に暮らす当時60歳ぐらいの壮年部員と共に、学会の第1回「離党本部総会」に参加しました。

「長い間、園で暮らし、家族や故郷とも絶縁した方でした。高齢で社会復帰の見通しは低い。創価学会で、人との縁を広げてほしい—医者としてというより、同志として、私が頼み込んで汽車に乗ってもらいました。両脚は義足。顔にも後遺症がある。察して余りある勇気が必要であったと思います」

会場であった東京・信濃町の創価文化会館(当時)に着くと、女性の会合役員が、笑みをたたえて歩み寄ってきた。「お手伝いしましょうか」。壮年の義足に気付き、靴を脱ぐのを介助してくれた。長尾さんは振り返る。

「役員には、私たちがどういう背景で参加するかなど事前に伝えてはいません。壮年が嫌な思いをすることはないかと一抹の不安を抱いていましたが、杞憂でした。かつて、父や青松園の学会員さんがそうであったように、学会の連帯に、壁はありませんでした」

園の内と外という壁をなくしたい。長尾さんはその後、82年に沖縄県宮古島の「宮古南静園」、90年には本島の「沖縄愛楽園」に赴任する。

南静園では、入所者の外部病院での受信を可能にしたり、園の療養所で一般患者の外来診療を受け入れたり、入所者と近隣住民がゲートボールで親交を深めるなど、地域に開かれた療養所の運営を目指した。

ある入所者が語った言葉が、今も胸に焼き付いている。「長尾さん。僕はこれまで〝病気がうつる〟〝近寄るな〟と、差別され続けてきた。でも、ここで、園の外の人たちと触れ合いを持つことができ、自分は名誉を回復した」と。

入所者の幸福とは何か。長尾さんは問い続けてきた。「多くの観点がありますが、その一つは〝かつて病気を経験して後遺症がある、ありのままの自分と付き合ってほしい〟〝人としての私の存在を認めてほしい〟ということ。『受容』『共生』ではないでしょうか。彼らは声を上げ、戦いを続けています」

新型コロナウイルスは、ハンセン病のような国策は推進されてはいない。だが偏見と差別という点では教訓は生かしうる。

「新型コロナウイルスは科学的解明が途上であることで〝未知〟です。〝分からない〟ことで、〝自分が感染するかもしれない〟との不安が増大する。そこから、病気や感染者、やがては、第三者へのネガティブな感情が起こってしまう。だからこそ、私たちは、ゆるがせにしてはいけない価値観を確立することが大切です。それはお互いの人権を尊重することです。ハンセン病患者の歩みは、いかなる不安が社会を覆っても、人権だけは守らなければならないことを教えてくれています」

人権を守るという答えを現実のものとするために、何が必要か—。長尾さんは国内だけでなく、タイやミャンマー、台湾など、海外でもハンセン病医療に従事。教育機関での講演や各地のシンポジウムなど、啓発活動にも取り組んできた。

「どの国でも参戦病患者の受ける差別のありようは、人種・民族の違を超えて、変りはありませんでした。人類の負の面の共通性を感じました。逆に仏法は『地涌の菩薩』という、人類が共有する根本のアイデンティティーを説いていることに感銘を受けます」

「根源の悪」を克服するためには、「根本の善」を一人の人間の胸中に確立するしかない。池田先生は「地涌」とは「民族や人種、国籍や性別など一切の差異を超え、生命の大地の奥深くに広がる大いなる創造的生命」に気づくことだとし、私たちには「(いかなる人も)今この地上に生きる仲間として、自他供の無限の可能性を開き、幸福と平和という価値を創造する底力がある」と訴える。

コロナ禍で、先の見えない日々が続いている。友の幸福を祈り、励ましの声を届ける行動の中に、自他供の喜びは創造される。私たちの感染症の不安や恐怖に打ち勝てるか—試されているのは、自分の心である。

 

 

【危機の時代を生きる】聖教新聞2020.8.1






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Last updated  July 7, 2021 04:44:41 AM
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