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July 29, 2021
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カテゴリ:スピーチ

人道的競争を重ね連帯の世紀へ

 

時代背景と公園の意義

1994517日、池田先生は19年ぶり、2度目となるモスクワ大学での講演を行った。それは冷戦終結後、ソ連が崩壊し、ロシアを含む15の独立国が誕生してから間もない頃だった。当時、社会主義体制の柱であったマルクス・レーニン主義が否定され、ロシアの人々は、それに代わる精神的なよりどころを求めていた。

ポスト・イデオロギー時代の混沌とした社会状況の中、先生は講演で、焦点を「体制」から「人間」へと移すべきだと強調した。

大乗仏教の視点から、①外からではなく人間の内面から作る規範性②万物の共生を促す普遍性③蘇生を可能にする内発性—の3点を通し、優れた人格をはぐくむ宗教の使命に言及。人間が「自らの主」へと人格形成していくための指標を示した。

そして、「地球的連帯の世紀」に向かう世界に当たって、人格形成の競争、すなわち「世界市民」輩出競争こそ、一段と重要になってくることを訴えた。

講演終了後、同大学のバーニン哲学部長は「講演は、仏法哲学の立場から謳われた人間賛歌といえるでしょう。しかも、この参加は異なる文化圏の人々に知性、そして心と共鳴するものです」「私たちロシアの哲学者も『人間主義』をともに探求していきたい」と講評。世紀末のカオスの真っただ中にあるロシアに、人間主義を希求する声を一段と呼び起こした。

 

 

尊敬する諸先生方、並びに親愛なる学生の皆様。きょうは、十九年前と同じ、この懐かしい文化宮殿におきまして、再び、講演の機会をいただきました。私の最大の栄誉と思っております。

サド―ヴニチィ総長をはじめ、関係者の方々に、心から御礼申し上げます。こうして、若き学生の皆さまと語り合うことができ、私は、何よりも、うれしく思っております。

本年1月、モスクワ市民と、アメリカのクリントン大統領との対話の折、貴大学の学生がさわやかに発言する姿が、日本でも放映されました。

外国語学部の女子学生は、流暢な英語で、「わが国には、大いなる精神の力が秘められております。近い将来、あらゆる意味で、世界の文化的な中心になっていくと信じています」と語っておりました。青春の見事な情熱が光る、まことにすがすがしい光景でありました。

貴大学の偉大な創立者ロモノーゾフは、逝去の直前に、高らかに謳い上げております。

 

麗しき広大なる わが大地に

悲運が襲う その時代にこそ

私の歩み残した この道に続きゆく

英知の青年を 息子たちを ロシアは生むだろう

(斎藤えく子訳)

 

建学以来、二百四十星霜—。貴大学は、この創立者の魂の叫びに、厳然と答えておられます。なんと崇高なる、教育のロマンでありましょうか。

「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(御書231㌻)とは仏典に説かれた一節であります。皆さま方、青年こそ、貴国、そして世界の「無限の希望」であることを、私は、深く強く、確信してやみません。

さて、思えば、一九七四年、貴大学から招聘いただき、初めて帰国への旅につこうとしたとき、私は多くの人から、詰問されました。「仏法者のあなたが、宗教敵視のイデオロギーの国へ、なぜ行くのか」と。この声に、私は一言、「我々と同じ人間がいるから行くのです」と答えました。

以来二十年の歳月が流れ、ポスト・イデオロギーの社会にあって、いやまして、スポット・ライトを浴びているのは、「人間」及び「人間の生き方」ではないでしょうか。

例えば、現代ロシアの文豪ソルジェニーツィン氏の次のような提言は、その一つの証左でありましょう。「人間が立派であれば、どんな国家体制もよいものになるだろうし、人間が悪意に満ちて互いに裏切るような間柄であれば、最も進歩してきた民主主義体制でも耐えられないものになってしまう。もし人間そのものに正義と誠実が欠けていれば、どんな国家体制になっても、必ずやそれが表面化するだろう」(『甦れ、わがロシアよ—私なりの改革への提言』木村浩訳、日本放送出版協会)と。

全ては「人間」に始まり、「人間」に帰着するのであります。とはいえ、トルストイが、「不可解なもの、それは人間である」(『人生の知恵―トルストイの言葉』小沼文彦訳編、彌生書房)と慨嘆したごとく、古来、「人間」について、おびただしい考察がなされてきました。にもかかわらず、その謎が解明されたとは、とうてい、言えません。なかんずく、「心」という問題、また「幸福」に関しては、科学や経済の尺度だけでは、決して計り知れない課題であります。

更に、多くの精神的遺産があっても、現実社会で行かされているかというと、世紀末の暗雲の垂れこめている昨今、はなはだ、心もとないものであります。そのしたなかで、なおかつ「人間」に主点を当てるとなれば、よほど鮮烈な光源をもって臨まねばならないでありましょう。

私なりに、その問題を踏まえ、「人間—大いなるコスモス」と題して、若干の考察を試みさていただきたいと思います。(拍手)

「自らの命に生きよ」―私の恩師である、戸田城聖創価学会第二代会長は、青年に、こう呼びかけました。あの第二次世界大戦中、二年に及ぶ東国にも屈することなく、平和への信念を貫いた恩師は、あらゆる価値観が崩壊し、転倒した戦後の荒野にあって、「生命」という原点に立ち返り、汝自身の「人間革命」から出発していくことを訴えたのであります。

それはまた、釈尊が残した、「自己こそ自分の主。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自分をよくととのえたならば、得難き主を得る」(

『ブッダの心理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波文庫)というメッセージの再生でもありました。

いささか飛躍いたしますが、私は、貴国の文学者メレシコフスキーが掲げる「人間は自らの主たれ」という命題を想起するのであります。これは、彼の手になる『ピョートル大帝伝』の冒頭、三たび繰り返される有名な言葉であります。

たいていの強引な改革を、どう評価するかは、西欧鳩スラブは殿、間断なき競合の経緯に見られるように、ロシア近代史を揺さぶり続けた、最大の難問であることは、申すまでもありません。一部の人々にとって、大帝が、「反キリスト」を思わせる姿を見せていることもまた、周知の事実であります。

私は、貴国の精神史の壮大なる水脈を一貫して流れ続けているのが、「人間はいかにして、自らの主たりうるか」という永遠の問いかけではなかったか、と思う一人であります。

是こそ、近代ロシアで、人類史上かつてなかったほど、熱烈に人々の占拠し、焼き尽くした主題であったとは、いえないでしょうか。一面からいえば、ピョートル大帝自身が、その問いに、生涯をかけて、答えを出そうと模索した巨人であったと思います。

プーシキンが、「おお 運命の威力ある支配者よ」(『青銅の騎士』木村彰訳、『プーシキン全集』2所収、河出書房新書)と呼び、ゲルツェンが、「ロシヤにおける最初の解放される個性」(『ロシヤにおける革命思想の発達について』金子達彦訳、岩波文庫)と評したように、彼は、単なる改革者ではなかった。自らの運命と、ロシアの運命とを、あたかもアトラス(ギリシャ神話の「天を支える巨人」)のごとく、双肩に担い続けたのであります。それはロシアに限りません。西欧の近代文明の、有無を言わせぬ後世にどう対処するかは、他の文明にも、共通の課題でありました。

それは、さしあたっては軍事技術や経済面での改革が優先されつつ、やがて文化面へと及び、自らの文明の主体性が脅かされ、自我の浮遊化をもたらしてしまうのであります。

日本においても、近代の代表的文学者である夏目漱石は、「嚢の中に詰められて出ることの出来ない人」(「私の個人主義」、『夏目漱石全集』10所収、筑摩書房)に譬えておりました。

それから一世紀を経て、日本人は、当時と比較にならない変化を遂げてまいりました。しかし、今の青年たちが、幸福かどうか、果たして現状に満足しているかどうかは、疑問といわざるを得ないのであります。

 

ロシアに脈動する力強き人間主義思想

社会的な問題がない状態が、果たして幸せかといえば、それも幻想であります。そうした幸せは、流動的なものだからであります。現代日本の多くの青年は、いわゆる国家的目標はもたず、集団などに対する帰属意識も、希薄なようであります。

確かに、かつてない事由がありますが、その一方で、明確な目標もなく、なにかモヤモヤした心のカオスを抱えている青年は、決して少なくないのであります。常に煩悶の連続であるのが、人間の業といえるかもしれません。また、刹那主義や享楽主義の青年もおります。

最近の高校生の国際的な比較調査でも、将来に希望を持てず、「今さえ楽しければ、それでよい」とする傾向が、日本では特に強いという結果が出ておりました。

一時的な経済の繁栄とは裏腹に、精神文化が著しく停滞してしまったことは、否めない現実であります。

それとは反対に、新しい世界の平和秩序を志向しながら、自分なりの使命感、国家観を持とうとしている青年もおります。

また、「人生いかに生くべきか」という問題に、真っ正面から取り組んでいる青年もおります。

その意味で、「善の方向」「建設の方向」「創造の方向」を見いだすべく、「哲学」また「宗教」への新たな希求がはじめっていると私は見たいのであります。

こうした歴史の趨勢の中で、人間はいかにして「汝自身の主」たりうるか—。

このテーマへの確かな回答を探求する時、私が思い起こすのは、貴大学で教鞭をとった大哲学者ペルジャーエフの名著『わが生涯』での、誠実なる回想であります。

いわく、「私は私の人格の孤絶化を、自身内部に閉じ籠ることを、自己主張を、求めたのではなかった。私は宇宙のなかに開きでることを、宇宙の内実に充満されることを、一切との交わりをもつことを、求めたのである。私は小宇宙(ミクロコスモス)たらんと欲した」(『わが生涯 哲学的自叙伝の試み』志波一富・重原達郎訳、『ペルジャーエフ著作集』8所収、白水社)と。

ここには、人間が自らの「主」となることによって、手にできる生の充足感、また、宇宙を呼吸しゆく生命空間の無限の拡大感など、いうなれば、大いなるコスモス感覚が、まぎれもなく、浮き彫りにされております。

その輝きは、世紀末の闇を照射しゆく光源として、大乗仏教とも深い次元で通じ合っているように、私には思えてならないのであります。

大乗仏教の知見では、信仰による生命変革、人間形成の特徴を、「開く」「具足・円満」「蘇生」という三つの角度から論じております。ここでは、こうした仏教的観点を「規範性」「普遍性」「内発性」の三項目に敷衍しながら、ロシアの力強き人間主義の脈動に注目してみたいと思うのであります。

第一に「開く」とは、依って生きるところの根本規範を、人間自身の内面から開いていく、という意味であります。仏教では、すべての人々に、『仏性』という仏の性分、すなわち、理想的人間形成の種子、可能性が平等に具わっている、と洞察しております。

この『仏性』は、金剛にして不壊、清浄にして無垢なる本質を有し、開示された『仏性』は、まさに「自らの主」として、人生の幸福を決定づける基軸となっていくのであります。

しかし、日常的には、『仏性』は、様々な邪見、偏見、謬見(あやまった見方)などの、煩悩の奥深くに埋没してしまっております。ゆえに、幾層もの分厚い外皮を破って、潜在している『仏性』への突破口を開き、全面的に開花させていかねばなりません。

「開く」とは規範の開示であります。仏とは、どこか遠くの神秘的な存在であると捉え、我が生命に「仏性」があるがあることが信じられない人々のために、『法華経』では、数々の譬喩が用いられております。

その一つには—ある貧しい人が、裕福な友人の家へ遊びに行った。歓談しているうちに、彼は寝込んでしまう。友人は彼のためを思い、着衣の裏に高価な宝珠を、そっと縫い込んであげた。翌朝、それを知らずして友人宅を去った彼は、自分が宝珠を持っていることに、少しも気づかず、貧乏暮らしの苦労を続ける。何年か後、友人は、相変わらず、みすぼらしい彼を見て驚き、縫い込まれた宝珠の所在を教えてあげると、貧人は大いに歓喜した—とあります。この宝珠とは、知ると知らざるとにかかわらず、すべての人が平等に有している『仏性』のことであります。

このように、仏性とは、生きるうえでの根本規範であり、かつて古代ギリシャの数学者アルキメデスが「私に立つ場所を与えるなら、地球をも動かしてみせる」と語った、堅固な足場、つまり〝アルキメデスの支点〟にあたるのであります。こうした根本規範に目覚めた人間ほど、強いものはないでありましょう。

ここで、私の大好きなトルストイの大作『アンナ・カレーニナ』を連想すれば、作者の自画像といわれるレーヴィンが、「われとは何か、なんのために生きているのか」(中村白葉訳、『トルストイ全集』8所収、河出書房新社)等々、いわば「規範」への求道を続けるなかで、一農夫の言葉から新境地を開いていく、有名なシーン(場面)があります。

「ある人間は、ただ自分の欲だけで暮らしていて、ミチュハーなんざその口で、ただうぬが腹をこやすことばかりしてるですが、フォカーヌイチときたら、正直まっとうな年よりですからな。あのひとは、魂のために生きているのです。神様をおぼえていますだよ」(同前)と。

この無名の農夫の言葉は、電撃のように、彼の心を貫きます。

魂と魂の触発という点では、世界の文学史上でも屈指の、印象鮮やかなシーンであります。まさしく、「魂のために」と形容される規範を獲得することによって、眼前に、思いもかけぬ生命世界が、むずみずしくも絢爛と、開示されていくのであります。こうした〝暗〟から〝明〟、〝闇〟から〝光〟への回心のドラマは、トルストイの世界に、しばしば登場いたします。それは、初期の『コサック』などに、荒々しい原初の姿を帯びて描かれ、『戦争と平和』のピエールや、このレーヴィンの施策へと運動しております。その、苦悩と試練の果てに、忽然と開けゆく人間的な大感情は、むしろ未完成なるがゆえに、」かえって重厚な余韻を漂わせつつ、青年の琴線に響くのではないでしょうか。

仏教に対するトルストイの造詣は、よく知られておりますが、彼の天才がつむぎ出す「生のダイナミズム」は、なかんずく法華経で説かれている躍動感あふれる生命観と、強く共鳴し合っております。

それはまた、生命の本然的な凱歌にほかならないと、私は申し上げておきたいのであります。

いずれにせよ、「人間は考える葦」(パスカル)であります。

自分自身の確固たる人生観、社会観、右中間を築き上げるところに、人間としての証があるといってよいでありましょう。

自分自身で目的を創り、自らよしとして、悔いなき人生を生ききった人こそ、幸福なのであります。

第二に「具足・円満」とは、開示された規範は、決して部分観や差別観であってはならない。つまり、人間同士はもとより、自然や宇宙をも平等に余すところなく具足する、全体間、包摂的世界観でなければならない、ということであります。

従って「具足・円満」とは、生命が、世界から宇宙へと「普遍性」を獲得し、拡大しゆく姿であるといってよいでありましょう。

これは、科学や理性でいう普遍性とは、次元を異にしております。なぜなら、そういう普遍性は、現実と切り離された抽象的次元で、自己完結しており、いわば、非人称的で画一的な世界だからであります。その次元では、確かに強力な力を発揮し、事実、科学技術文明は、加速度的に、世界を席巻してまいりました。しかし、かつてない大量死(メガ・デス)の悲劇を経験した今世紀の人類は、科学や理性の働きを手放しで楽観できるわけでは決してありません。

 

分断を乗り越える万物一体の生命感覚

私の申し上げたい「普遍性」とは、人間・自然・宇宙が共存し、小宇宙(ミクロ・コスモス)と大宇宙(マクロ・コスモス)が、一戸の生命体として融合しゆく「共生」の秩序感覚、コスモス感覚であります。

「共生」を、仏教では「縁起」といいます。「()りて起こる」とあるように、人間界であれ、自然界であれ、単独で生起する現象は、何もない。万物は互いに関係し合い、依存し合いながら、一つのコスモスを形成し、流転していく、と感ずるのであります。

ゆえに、そこでは、万物一体の生命感覚の広大な広がりのなかに、理性をどう正しく位置づけていくかが、大きな課題となってまいります。

その点から見ても、トルストイが描写する、レーヴィンの感受性は、まことにユニークであります。夏の暑い日、森の中の草の上に、仰向けに寝転んで、一片の雲もない大空を眺めながら、彼は一人考えます。

「無限の空間についての知識はりっぱにもちながら、はっきりした青い円天井を目にすることも、疑いなく正しいのだ」(前掲『アンナ・カレーニナ』)と。

宇宙を「無限の空間」と認識する知性の眼とともに、「青い円天井」と見る感性の方も、また正しいとするこの独白は、古色蒼然たる〝天動説〟への逆行などでは、全くありません。それは、研ぎ澄まされた、鋭敏の精神によって可能な、先験的な近代批判の結晶であります。しかも、以来百数十年を経た、現代科学の知見は、必ずしも、宇宙を「無限の空間」とする見方に、軍配を上げることは限らないのであります。レーヴィンのこうした「普遍性」の感触は、従って、合理主義の壟断する、荒涼たる世界ではない。喜びや癒し、愛や検診、哀れみや共感など、人間性の温もりを伝えながら、生々躍動している。宇宙生命の鼓動そのものであると思うのであります。

特筆すべきは、トルストイの放射する「普遍性」が、当時も今も国際紛争の一凶である、民族問題の閉鎖性に、実に的確な問い直しを、促していることであります。

セルビア戦争への参加を義挙として燃え上がった自己犠牲への民族的熱狂に水を差すように、レーヴィンは言います。

「しかし単に犠牲になるだけでなく、トルコ人を殺すんじゃありませんか」

「民衆が犠牲になり、また犠牲になるのをいとわない気持ちでいるのは、ただ自分の魂のためであって、殺人のためではありませんからね」(同前)と。

こうした生き生きとした「普遍性」の光彩なくして、ヒューマニズムやグローバリズムの地平には、いつまで経っても到達できないでありましょう。

とともに、人生の生き方にあっても、崩れざる絶対的幸福とは、他社のために尽くしながら、「小我」から「大我」へ、自我を拡大しゆくなかにこそ築かれるものであると、私は思う一人であります。

 

強い人ほど〝謙虚〟 確信の人ほど〝寛容〟

第三に「蘇生」とは、物事を固定化せず、「今日より明日へ」と蘇りゆく創造的生命のダイナミズムを保ち続けることであります。

ギリシャの哲人ヘラクレイトスいわく、「万物は流転する」と。

仏教でも、物事は、一時として同じ状態にとどまらず、いかに堅固に見える鉱石も、いつかは摩滅し、損壊していく運命を免れないと説きます。まして人間社会は、すべてが、変化変化の連続であります。

故に、現状に安住しようとする惰性の殻を打ち破り、その内なる変化の律動を、敏感に聞き取っていくことが、万物を蘇生させていく要諦となります。

私どもの信奉する仏法では「自身法性の大地を生死生死と()ぐり行くなり」(御書724㌻)と説いております。永遠の生命を貫く本源的な蘇生の力が、人間自身に内在することを、明快に示しているのであります。

まさしく、「蘇生」とは、「内発性」の異名であります。

この「内発性」ということは、ともすればドグマ(教条主義)に呪縛されがちな宗教にとって、何にもまして心せねばならない肝要中の肝要といってよいでありましょう。

この点、トルストイの分身樽レーヴィンは、〝申請の現れ〟を、自分のうちに感じながら、こう自問しております。「ほかのユダヤ教徒や、マホメット教徒や、儒教徒や、仏教徒—彼らは、(中略)この最善の幸福を、奪われているのだろうか?」(前掲『アンナ・カレーニナ』)と。

レーヴィンが実感している「善の法則」は、まぎれもなく、内発的な啓示であります。その幸福は、キリスト教徒に限られているのか、異教徒はどうなるのか?彼は、こうした懐疑を「危険」な問いかけであるという。

しかし、宗教がドグマや共振に陥らないために、内面を見つめ直し、日々新たな自分を作り上げていこうとする内発的な力であるからであります。それは古来、人格的な価値の枢軸をなす「謙虚さ」、そして「寛容さ」を生み出す母体でありました。

また、その「内発性」をおろそかにしたがゆえに、宗教史には、独善や傲慢が横行し、「宗教のため」に人間が傷つけ合うという転倒が繰り返されてきたのであります。

さきほどもうしあげた「規範性」には、依って立つ足場に対する確信が、当然、ともなうでありましょう。しかし、レーヴィンのように、その「規範」の正しさを常に問いかける内省の眼があってこそ、「規範」は化石化せず、生き生きと創造の営みを続けられるのであります。

逆に言えば、謙虚さや寛容さといった内発的な人格的価値に結実しない「規範性」と、どこか虚偽やごまかしがあると、言わざるを得ません。

「規範性」と「内発性」は、両々相まってこそ、優れて人格的な力となっていくわけです。

ゆえに強い人ほど謙虚であり、確信の人ほど寛容なのであります。

そうした人格形成を支え、「自らの主たれ」と励ましていくのが、真実の宗教の使命ではないでしょうか。だからこそ、仏典では、「心こそ大切なれ」という簡潔な言葉で、「内発性」を勧めております。

また、釈尊の生涯最大の目的を「人の振る舞い」として、人格の錬磨、完成こそ、修業の眼目と位置づけているのであります。

改めて論ずるまでもありませんが、「地球的連帯の世紀」へ向け、宗教、民族、国家などの壁を超えた「平和への対話」と「文化・教育の交流」が、ますます要請されております。

とともに、無原則な離合集散ではなく、それぞれが、こうした人格形成の競い合い、いうなれば「世界市民」の輩出の競争をしゆくことが、より創造的であろうと、私は思うのであります。いずれの社会にあっても、よい意味での競い合いこそが、進歩の法則だからであります。

「創価教育」の原点である牧口常三郎初代会長は、日本の軍国主義と戦い、七十三歳で獄死いたしましたが、既に今世紀の初頭、〝人類は、もはや「軍事的競争」でもなく、「政治的競争」でも、「経済的競争」でもなく、「政治的競争」でもなく、「人道的競争」の時代を志向すべきである〟と提唱しておりました。その人道的競争にあって、わが敬愛するモスクワ大学の学生の皆さまが、二十一世紀のトップ・ランナーとして、颯爽と躍り出るであろうとことを、私は期待してやまないのであります。(大拍手)

以上、仏教の知見をベースに、トルストイの名作に厳重しながら、人間が「自らの主」となり、「大いなるコスモス」へと人格形成していくための私なりのアプローチを「規範性」「普遍性」「内発性」の三つの角度から申し述べさせていただきました。

ともあれ、未来世紀を指呼の間に望み、カオスをコスモスに転じる主役、機軸となるのが、「人間」であります。

宗教も哲学も、文化や政治、経済も、その一転へと、収斂(しゅうれん)されていかねばならない時代であります。

私もまた、皆さま方と手を携え、この人間復興の大道を、力の限りは知り抜いていく決心であります。

終わりに、「詩心の国」ロシアの美しき詩の一節を、皆様にささげたいと思います。

 

大空にあって 大胆たれ

歓喜のなかに 己が使命に目覚めよ

…… …… ……

見よ 陽光が

時に 空を金色に染め

時に 薄雲に見え隠れする

銀の月は 漂い

田園には 春の美しさが萌え出でて

薔薇の蕾が脹らむ

草の下には 清流が流れ

岡の上では 葡萄の枝が輝き

静寂(しじま)の中に そよ風の吐息が漏れる

すべてが 君のものだ

喜びをもって 人生の華を勝ち取り給え

天の恵みを 安らかに受けよ

この世は 悪しき快楽と不幸の谷間には非ず

君よ! 幸福なれ

迷うことなかれ

なべての恵みの源を忘れまい

『真実」と『法』を尊び

世に人々に 善をなし給え

その時 君は なんの畏怖もなく 無常を去り

そして 闇にあって 暁を信ずることだろう

(斎藤えく子訳)

 

プーシキンが謳ったとされる、この詩のごとく、闇が深ければ深いほど、暁は近い。希望ある限り、幸福は輝くのであります。

新たなる人類文明の希望の暁—その時代を、諸先生方とともに、皆さまとともに確信しながら、私の講演とさせていただきます。

ご清聴、ありがとうございました。スパシーバ(ありがとうございました)

 

【池田先生の大学・学術機関講演に学ぶ】創価新法2020.8.19






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