4799290 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

浅きを去って深きに就く

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Freepage List

August 29, 2021
XML

生きるための宗教・仏教 友岡雅弥

『仏法と健康・豊かさを考える

  創価学会学術部セミナー集② 1995』から

 

 

    「生きるための宗教・仏教」

 

      友岡雅弥 ともおか まさや

      東洋哲学研究所研究員当時)

 

昭和29年生まれ

()東洋哲学研究所委嘱研究員

大阪大学文学部卒業後、同大学大学院博士課程修了(インド哲学専攻)。1991年には、インドと日本の国交回復40周年を記念する政府公式行事の環境問題シンポジウム(ニューデリー)で講演。

主要論文に「プラシャスタパーダの二種のサーマーニャ」、「ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の実在論的展開」など。

 

 

    日本の常識は世界の非常識

 

 

 今日お話ししようと思うのは、単純な事実です。

 

 つまり、「日本の常識は世界の非常識である」ということです。

 

 カレル・ウォルフレンという人が書いた『人間を幸福にしない日本というシステム』という本が、ベストセラーになっています。その中で彼は、日本がフォルス・トゥルースつまり、「偽りの真実」に覆われた国であるとしています。日本では、一部特権的階級のみが真実を知り、彼等が、すべての人々に「偽りの真実」を「真実」と思いこましているというのです。

 

 私の言う「日本の常識は世界の非常識」ということも、ウォルフレンの「偽りの真実」ということも同じことを意味しています。

 

 例えば、昨年(※1994年)2月、ヨーロッパのある国、確かフランスかどこかだったと思いますが、その新聞におもしろい記事が戦っていました。その記事は、「日本生まれ」のある風習がとうとう我が国に上陸した、困ったものだと嘆いていました。

 

 日本で生まれた風習とは何か。それはバレンタイン・デーに女性が男性にチョコレートなどの贈物をすることです。

 

 どうですか。日本では「バレンタイン・デーに女性が男性に贈物をすることは、西洋のキリスト教の風習だ」と思われています。しかし、真実は日本生まれの風習なのです。これが「偽りの真実」、世界に通用しない「日本の常識」の一例です。

 

 バレンタイン・デーは、本来ウァレンティノス、イタリア読みにしたらバレンチノ、英語読みではバレンタインになります。ともかく、そういうキリスト教の司祭が、皇帝クラウディウスに弾圧され虐殺された日です。他者のために自分の命を犠牲にしたバレンチノの行為を偲(しの)ぶのが、バレンタイン・デーの意義です。「献身」が本質といえるかもしれません。

 

 従って、もともとヨーロッパでは、親が子に「他者への献身」の貴さなど、人生の教訓を書いたカードを贈り、子が感謝の言葉を書いたカードを返す、というような行為が主に行われました。

 

 この「本来のバレンタイン・デーの精神」は、昔日本に入ってきたのですが、何十年経っても日本では根づかなかったのです。

 

 それを、今から数十年前に、ある日本の二つのチョコレート・メーカーがいろいろと考え、「この日には、西洋では女性から男性に愛を告白し、チョコレートを贈ります」なんてことを言い出したら、みんなそれが真実と思い込み、定着してしまった。

 

 イギリスに「スイート・ハート・デー」という日があります。この日にイギリスでは、日頃お世話になった信頼すべき人に、ハート型のチョコレートなどを贈る風習があります。もちろん、2月14日の「バレンタイン・デー」とは何の関係もありません。この風習と、本来それとは何の関係もない「バレンタイン・デー」が日本で完全に結びついたのです。

 

 最初、今から約60年前に、あるチョコレートメーカーが考えたバレンタイン・デーのプレゼントは、女性から男性にだけ贈るものではありませんでした。どちらからでもよいし、友だち同士でもよいし、同僚でもよい。親でもいいし、子でもよい。

 

 もちろん当時は、女性から男性に贈物をするなど「はしたない」と考えられていたので、主に男性から女性に贈りました。ただ、贈物としてチョコレートをあげるということを、流行らそうとしたらしいのです。

 

 しかし、これは定着しませんでした。

 

 私の考えですが、恐らく一つの理由は、歳暮や中元など、他の「物を贈る慣習」の中に埋没してしまったからでしょう。

 

 その後、今から40年ほど前、次のメーカーは、若干戦略を変えました。その時「女性から男性に愛を告白し、チョコレートを贈る」という新たな「作られた真実」が加わることになりました。すると、ほどなく日本国中に定着してしまいました。本来の真心の精神は、何十年かかっても、定着しなかったにもかかわらず……

 

 もちろん、これほど定着してしまったのだから、いまさらどうこうではありませんが、本来の「人生について深く考える」とか「恵まれない人のためを思う」という精神が完全にカットされていることは、問題と思われませんか。

 

 後の話を先にするようなかたちになりますが、日本での仏教に関する常識も、同じ流れで考えられます。

 

 日本の「バレンタイン・デー」。呼び名は、「バレンタイン・デー」ですが、内容は似ても似つかぬもの。同様に、呼び名は「仏教」ですが、日本の仏教は「仏教」とは、似ても似つかぬものである、という意見を私は持っています。そして、これが私の最終結論でもあります。

 

 さて、話を元に戻しましょう。日本が「世界の非常識」「偽りの真実」の通用する国である例として、他にこんなこともあります。

 

 今から数年前、信じられない驚異的な視聴率を記録した衛星同時中継のテレビ放送がありました。それは「ある人」の誕生日を祝うために開かれたコンサートです。出す曲出す曲がミリオンセラー、主演映画「ボディーガード」も大ヒットし、日本でも有名な女性歌手、ホィットニー・ヒューストンも、そのコンサートに出演しました。日本では知られざる事実ですが、彼女はそのコンサートだけでなく、いつもその「ある人」を頭に、いや「心」に浮かべながら歌を歌っているのです。その「ある人」は誰でしょうか。

 

 昨年(※1994年)、ホイットニーはその人の国に行き、その人に会いました。彼女は感動の余り気を失い、やっとの思いで言った言葉が「アイ・ラブ・ユー、マディバ」。「マディバ」というのは、「ある人」の出身の部族の名です。そろそろ「ある人」が分かってきた人もいらっしゃると思います。そうですネルソン・マンデラです。南アフリカ黒人解放運動の指導者、28年、1万日の拷問に耐え続けた男、マンデラです。

 

 彼の即時釈放を要求してイギリスの歌手、ピーター・ガブリエルたちが世界各国のアーチストに呼び掛けて、イギリスのサッカー場で開催したのが、その驚異的視聴率のテレビ中継なのです。そ模様は、ほとんど全世界に中継されました。もちろん南極大陸や北極には中継されていない。砂漠地域にも。戦争中の国も。しかし、通常の国のほとんどがその中継に協力しました。

 

 その中で、日本は中継しなかったのです。乾いた砂漠と同じなのかも知れません。人間性が「砂漠」のように枯渇しているのかも。北極と同じ「氷の世界」が人々の心の中に広がっているのかも知れません。

 

 そのコンサートでステージに立ったある人が、感動して言っていました。

 

 「マンデラには、こんなにたくさんの友達がいる」

 

 どうも、我々日本は、マンデラの友達ではないようです。世界の真心が集い合う時に集い合えない。知らない。大変悲しいことです。こんなに情報が氾濫しているのに肝心のことは知らされていない。

 

 さて、ネルソン・マンデラ釈放要求コンサートは、全世界で放映され、世界各地にマンデラ釈放を求める声が高まりました。そして、そのうねりは、とうとう南アフリカ政府も無視できないほどの高まりとなり、そのうねりの中で、マンデラは釈放されたのです。

 

 彼は、釈放要求コンサートの開かれたイギリスのサッカー場にやってきて、今度は釈放を祝賀するコンサートに出たんです。感動的なスピーチを行いました。

 

 「あなたたちの歌声が、牢獄の分厚い壁を通り抜け、私の耳にとどきました。ありがとう、本当にありがとう」

 

 そのマンデラが日本に来ました。その時の日本国民の対応と、某女性歌手の「不倫の相手」と騒がれたタレントが、アメリカから来日したときの騒ぎとを比べて見ると、「日本の常識は世界の非常識」という私の主張が、分かっていただけると思います。

 

 テレビでどちらの方が、長い時間扱われたかを、みなさんご承知でしょう。

 

 「マンデラよりもタレント好き」――これが、日本人の性質かも知れませんね。その中で、創価学会がどうマンデラと友好の絆を結んだか、それは言うまでもないことでしょう。池田SGI会長との長時間の対話も、ご記憶の通りです。

 

 本来、歴史的事件だったはずのマンデラ来日。しかし、週刊誌はどのように書きたてたでしょうか。悲しいことに何と、マンデラは、金儲けのために来た的な記事が載っていた。

 

 私事ですが、知人にマンデラとSGIとの友好関係の話をした時、「どうせ、お金を積んでいるのだろう。俺は全部知ってるぞ。お前は創価学会にだまされてる」なんてことを言うんです。

 

 一体、何を知ってるんですかね。膨大な歴史資料や極秘文書が閲覧できるアメリカの公文書館にでも行って調べたのでしょうか。南アフリカのヨハネスバーグに飛んで調査したんでしょうか。何が批判の基準なのでしょうか。

 

 週刊誌――それが、恐らく彼の唯一の判断基準です。

 

 「ではあなたはマンデラさんについて、どれ程知っているのですか。彼が何年獄中で拷問に耐えたか知っているのですか」「1万日の拷問に耐えた人が、釈放されてすぐ、お金欲しさに行動するのですか」って、言うと、彼は、何も反論しませんでした。

 

 また、マンデラさんは、その当時まだ大統領でもなんでもない。南アフリカでまだ弾圧が続けられているANCのメンバーです。その人に少しでもやましいことがあれば、ANC弾圧の口実を与えてしまう。

 

 こういう生の事実を「判断基準」にするべきではないでしょうか。加工されたり、手を加えられていない生の事実を、正しい判断基準にしないと、権力者たちの思うままになってしまう――それが歴史の教訓です。

 

 アウシュビッツにはガス室はなかった。ナチスは虐殺などしていない。被害者は腸チフスで死んだ。生き残った人の証言はウソだなどという記事が、大スクープとして取り上げられる。「日本の土木技術は世界一だ」と信じこまされ、逆に、肝心の活断層の知識が、まったく伝えられていない。

 

 「世界の常識は日本の非常識」「日本の常識は世界の非常識」、「偽りの真実が通用する国・日本」の正体です。

 

 

    創価学会のどこにひかれたか

 

 

 ともかく、「日本の常識」は、疑ってみる必要があることはご理解していただいたと思います。そのような「日本の常識」を打ち破っているから、学会は批判される。しかし、世界の常識からすると学会は評価すべきものらしいです。

 

 海外で書かれた創価学会に関するきちんとした論文の数は、2百を超えます。20人以上の人が、創価学会研究で博士号を取っています。

 

 常識を持つということは、幸せな人生を送るための正しい「価値判断の基準」を自分の中にきちんと持つ、ということでしょう。

 

 私が創価学会に入ったのは、今から 14年前です。入会前に大学院で、哲学や宗教学を学んでおり、様々な宗教のことを批判的に研究しておりました。

 

 例えば、第2次世界大戦や、それに先立つ中国での戦争の時、日本の各宗教団体はどのような態度だったでしょうか。ほとんどが翼賛体制におもねり、軍部に協力、支持したのです。

 

 そんななかで、創価学会の牧口初代会長、戸田第二代会長は、最後まで軍部権力に反対を続けたのです。これを知った時、感動しました。

 

 「権力のいうがままになる宗教団体がほとんどだったなかで、何という信念か」と感心しました。

 

 友達でもそうです。調子の良い時にだけやって来る友達は、本当の友達ではないかもしれない。困っている時、大変な時に力になってくれる友こそ、真の友人ではないでしょうか。

 

 宗教も同じだと思うのです。大変な時に民衆の側に立った宗教か、権力の側に立った宗教か――この違いは大きいと思うのです。

 

 「日本の常識」として、「宗教は全部同じ」というのがありますね。そのくせブタの肩ロース肉(笑い)。「こっちのスーパーは、肩ロース百グラムが88円。いやもっと安いとこがあるはず」と、必死になってチラシで勉強する。そして「あったやないの。87円のスーパーが。この違いは大きい」。でも「宗教はみんな同じや」(笑い)。

 

 すこし変でしょう。

 

 枝葉ばかり気にして、一番大事なことが疎(おろそ)かになっている。

 

 「学会に入ると自由がなくなる」なんて、批判する人がいます。

 

 では、「自由」とはなんでしょうか。

 

 モンテスキューという哲学者は、『法の精神』という書物の中で「もしある人が、法律によって禁じられていることを行うことができるなら、彼は自由ではない。他の人々も、同じような権利を持つからだ」などといっていたかと思います。

 

 赤ちゃんを抱えたお母さんがいる。その横でタバコをスパスパ吸っていて、「俺は自由だ。何をやってもよい」なんて言ってる人は、自由でしょうか。

 

 それは自由ではありませんね。そのような考えの究極は、独裁ですね。「自分は好きなことをする。自分のためなら、他人はどうなってもよい」と考えるのは暴君ですね。そんなのは、絶対に自由なんかじやない。みんなが他人の迷惑など関係なしに、自分勝手に振る舞う社会――そんな社会は決して「自由社会」ではありませんね。

 

 自由とは、自分だけが主張するのではなく、お互いに相手を認め合うものだと思うんです。全員で、他人の自由を認め合う社会こそが、最高に自由な社会ですね。その点で、日本は自由な国でしょうか。

 

 また、こういうことも言えますね。

 

 今、「平和」だとか「戦争反対」といっても、みんな「その通り」と賛成します。しかし、今から数十年前には、「戦争反対」とか「戦争に協力しません」などというと、不敬罪で捕まり、拷問を受けたんです。

 

 そんな時に「戦争反対」とはっきり言えることこそ、本当の自由ではありませんか(拍手)。その意味で、創価学会の歴史こそ、「真の魂の自由」を掲げた歴史なのです。

 

 もう一つ、私が創価学会にひかれた理由があります。それは、霊魂崇拝ではないこと。

 

 野田正彰さんという有名な精神分析学者がいらっしゃいますね。災害救援問題の第一人者でもある、温かい心、鋭い知性の人です。あの方が、昨年『泡だつ妄想共同体』(春秋社)という本を書かれています。副タイトルが「宗教精神病理学からみた日本人の信仰心」。

 

 そこにはっきりと書かれているのは、「悩みを自我との係わりにおいて把え直すのではなく、悩みを外因化し」「悩む個人の人格はそのままで、『先祖が苦しんでいる』という」(『泡だつ妄想共同体』)日本人の宗教心。これは、日本の伝統的な宗教にも、新・新宗教と呼ばれる新しい宗教にも、共通していると野田さんは指摘し、さらに、こう続けています。

 

 「個人の精神的悩みを自我の闘いとして分析していくのではなく、すべての原因を『先祖の霊魂の問題』と把え、一気に教祖を信じることによって救済されるとする」(同)

 

 実は、その野田さんは、創価学会を「ロゴスの宗教」といっています。悩みを外因化する「霊魂崇拝」とは違う宗教、と定義しているんです。「ロゴス」とは「言葉」という意味ですね。現実的な「言葉」で、悩みを「克服すべき課題」として示す宗教だというわけです。

 

 さあ、この会場にいらっしゃる皆様のうち創価学会の方で、今まで何か問題にぶつかり、先輩に相談しにいった時「うーん。君の右肩におじいさんの霊がとりついている」(笑い)とか「それは、君の先祖のお墓がちょっと傾いているからや」(笑い)とか、言われたことがある方は、いらっしゃいますか?

 

 (会場)……

 

 いません(笑い)。

 

 例えば「君の悪い癖は、始めての人にもあまりに馴々しくすることやで。君の仕事は営業やろ。世間にはいろんな人がいるから、注意したほうがいいで」などと、言われますね。「霊の祟り」ではなく、きちんと、「克服すべき課題」として示すのです。

 

 私も、学会の教義体系のなかに「霊魂崇拝」や「超能力」などがないのを知って、他の日本の宗教とは違うなと思いました。この違いは、「ブタの肩ロース肉の違い」より大きいと思いますが、いかがですか(拍手)。

 

 ここで私が大学院で学んできた「宗教学」の立場から、日本ではびこる宗教上の「偽りの真実」に関して、さらに述べましょう。

 

 先程、本来のバレンタイン・デーが全く違うものとして日本では広まっている、と述べました。全く同じことが、仏教でもいえます。その実例を幾つか上げたいと思うのです。

 

 例えば、「袈裟」。日本では坊さんが衣の上に着ける物ですね。とにかく、本来の仏教は、日本の仏教をそのまま逆にすればよい。つまり、もともとは、坊さんじゃなく民衆が着る服だった。

 

 「袈裟」というのは、サンスクリットのカサーヤという語の音を漢字で写したものです。ではカサーヤとは何か? インドで、最も虐げられた人々、チャンダーラとかプックサとか言われていましたが、そういう差別された人々が来ていた粗末な一枚布。それが、カサーヤなのです。

 

 ガンジーを思い出して下さい。彼は弁護士でしたが、民衆の中に飛び込み、その人達と同じカサーヤを身にまとったのです。釈尊も同じでした。王子の衣服を脱ぎ捨て、貧しい人とともに暮らしたのです。本来の袈裟は民衆救済の精神を表すのです。

 

 しかし、日本で「袈裟」は、最初から民衆との衣服とは掛け離れた華美な衣でした。その中で私の心を捕らえたのが、日蓮大聖人の姿でした。いわゆる日蓮遺文、大聖人が信徒に残した手紙を貪るように読んだ記憶があります。内村鑑三、矢内原忠雄など、日本の軍国主義に反対した人々が、不思議なことに日蓮大聖人を代表的日本人 ” “ 余の尊敬する人物と呼んでいますが、彼等も日蓮書簡の虜になっている。これほど、社会の底辺にまで温かいまなざしを注いだ人はいない。しかし、権力に対しては、敢然と立ち向かっている。

 

 私の心を打ったのは、自然に死んだ鹿の皮衣をまとい、木の皮で葺いた粗末な小屋に住んだ大聖人の姿でした。また、「貧乏人と病人の集まり」と表された創価学会でした。そして、権力に対峙し、牢獄に入ることを恐れなかった創価学会の歴代会長の存在でした。

 

 日本では軽蔑の意味で、創価学会に「貧乏人と病人の集まり」という言葉が投げつけられたこともありました。しかし、正しくその言葉は、創価学会が貧乏人と病人を救って来た証しなのです。感動しました。釈尊、日蓮大聖人、創価学会が、一本の糸でつながったのです。

 

 「浄土」という言葉があります。日本では、この世を離れた「あの世」のことです。

 

 「おじいさん。もうこの世では、ええことない。こうなったら、ひたすら阿弥陀さんにすがって、死んでから極楽浄土の池の蓮の花の上で、幸せになろう」

 

 「蓮の花の上で幸せになる」……アマガエルの夫婦じゃない(笑い)。

 

 「日本の仏教を逆にすれば本来の仏教」という「方程式」を使いましょう。日本の仏教では、「浄土」はあの世。とすれば、本来の仏教では「浄土」はこの世、つまりこの現実です。

 

 「浄土」に当たるサンスクリットを想定すると、プラシュッディ・クシェートラとなります。これは、自分のいる地域、クシェートラ、を改善、プラシュッディ、するということです。現実変革ということです。

 

 実際に、古代インドの仏教徒は何をしたか? 砂漠に井戸を掘り木を植える。川に橋を掛ける。無実の囚人の救済連動をする。これが「浄土」の実践だったのです。正しく、環境保護、人権擁護連動そのものです。釈尊は、こうした現実的運動から逃避した信仰には功徳はない、とまで言っています(『スッタ・ニパータ』)。末法では折伏行が大切となります。

 

 そういう意味で、日本の仏教を見るとどうですか。現実逃避です。阿弥陀信仰だけではなく、禅もそうです。最近、有名な仏教研究者が、「禅は仏教ではない」という歴史的研究を著して評判になっています。いわゆる禅では、深山にこもり、無念無想、何も考えない何も思わないのが「悟り」だ、などといいます。じゃあ、寝とけばいい(笑い)。

 

 現実の中で悩む人々を捨て、自分の心の安らぎを求めるのは、仏教ではない。その点でも、私は日蓮大聖人の「立正安国」の精神、創価学会の現実に根を張った様々な社会運動のなかに、「仏教そのもの」の魂が脈打っているのを感じたのです。

 

 話が変わりますが、先日、国際宗教史学会の副会長をしておられるヴェルブロウスキーという方にお会いしました。実は、この博士、日本の「水子供養」のことを知り、「亡き子を偲ぶ親の心につけ込む宗教者の姿勢など、断じて許せない」と思ったそうです。そして長年、古文書類、もちろん日本語のです、を調査してきたのです。

 

 日本では「水子供養」の風習は昔からあると考えられていますね。しかし、事実は、1968年に始まったのです。新幹線より新しい。どこの寺が始めたのかもよく分かっています。

 

 博士は言っていました。「医者のマフィアと坊さんのマフィアが結託し、1968年に始めたペテンが水子供養だ」と。

 

 何か悩みがある。それを「水子が祟りをなしておるぞ」と脅す。その脅しにのってしまって、「早く、私に取りついている霊を、降ろしてください」などという。

 

 人間として、亡き人を偲ぶのは当然です。しかし、「水子の祟り」といわれた瞬間、亡き子への愛情など完全に忘れてしまって、亡き子を、何か不吉なもののように思ってしまう。こうなったら、おかしいですね。亡き子をないがしろにしている。

 

 亡き人のことを大切にするんだったら、今生きている我々が、立派に人間として成長することが「最高の供養」ではないでしょうか。

 

 日本の仏教は先祖供養をもっぱらとしている。「お盆」や「お彼岸」などに、「お線香をくべて、懐かしい御先祖さんに帰ってきてもらって、お坊さんにお経をあげてもらって、供養する」

 

 こういう日本の仏教常識は、少し考えれば、おかしいことがすぐ分かります。

 

 まず、御先祖さまとやらは、一人なのでしょうか。皆さん一人一人に父母は二人いらっしゃいますね。その父母に、それぞれお父さんお母さんは二人づつ。その一人一人に父母が二人。今日、家に帰られて大型電卓で計算してください。「二掛ける二掛ける二……」とね。27代で1億超えますから。

 

 これが、線香一本で「こんにちは」「こんにちは」と帰って来たら大変ですよ(笑い)。しかも27代ではすまない。お猿さんや、恐竜が帰ってくるかもしれない(笑い)。

 

 また、仏教の生命観から考えてもおかしい。死んで、あの世に行っておしまいではない。先祖は、この世に生まれてくる。先祖の霊がプカプカ浮いているわけではありません。

 

 それだけ、現実に生きる人を大切にしたのが本来の仏教です。この先祖供養についても、仏法を信じて人間的成長した私達が先祖供養することが最高の供養となることはいうまでもありません。

 

 

    生きた宗教とは何か

 

 

 日蓮大聖人の思想と行動に出会ったのは、日本の仏教に不審を抱いていた最中です。

 

 御書の中に「衆生に男女あり此の男女は皆我等が先生(せんしょう)の父母なり」(御書 1046㌻)などの言葉が、たくさん出てきます。

 

 「みんな家族なんだ。死んだお父さん、お母さん、我が子は、悩んでいるこの人かも知れない。かわいそうに。なんとかして、助けてあげたい」――これが仏教の精神なんですね。魔法や呪術ではない。

 

 『テーリーガータ』という、釈尊の女性信徒の体験談集みたいな経典の中に、こんな面白い話があります。

 

 プンニカーという、仏弟子がいました。ある寒い日、インドといっても広大で、特に釈尊達の活躍してきたインドでは冬はかなり冷えます、プンニカーは一人のバラモンが頭から水をかぶっているのを見掛けます。

 

 「おやおや、バラモンさん。だれに命令されて、こんな寒い日に水汲みをしているのだね」

 

 「無知なやつめ。水垢離(みずごり)の儀式を知らぬとは」

 

 「その水垢離修行で、どんな功徳とやらを得ることが出来るのかね」

 

 「悪業を清め、天国に昇ることが出来るのだ」

 

 「へーっ。水で『天国』とやらに行けるなら、『天国』は、カエルやカメやワニで一杯なんだね」

 

 「うー」。バラモンは無言です。

 

 「水で悪業が流れるの? あらあら、バラモンさん、あなたの善業も流れて行くよ。ほらほら、あなたの足元に」

 

 バラモンは、キョロキョロと流された善業を探します。

 

 痛快なエピソードですね。そういえばその通りなんです。この現実性が仏教の本質だと思うのです。そして、プンニカーは言うのです。

 

 「私は、かって水汲み奴隷だった。逃げるように釈尊たちの所に行ったんだよ。すると、そこには身分の隔ても何もない。感動したね。そして、私はその集いに加わったんだ。今のあんたを見てると、昔寒い時に水汲みをしたことが、思い出されてね、人がそんな冷たい思いをしてるのが、耐えられなかったんだよ」

 

 この人間的な優しさ。しかも、単なる道徳に止(とど)まってはいません。そこには、宗教的に磨き抜かれた人格の深さが、感じられてなりません。

 

 ゴータミーという女性が、釈尊のところにやってきました。泣きながら彼女は、こう訴えます。

 

 「私の生まれたばかりの子が死んでしまいました」

 

 聞けば、数日前には夫にも先立たれたといいます。

 

 「お願いです。お釈迦様。あなたのお力で、この子を生き返らせてください」

 

 ゴータミーは、必死で頼みます。

 

 これが日本の仏教ではどうなるでしょう。

 

 「その時、お釈迦様は、眉間から光を出し、その光に当たった子どもは息を吹き返した」というあたりが、日本仏教では常識でしょう。

 

 眉間の光で、人が生き返るはずはない。ウルトラ・セブンじゃあるまいし。確かに、いろんな大乗経典には、眉間から仏が光を出すということが書いてある。しかし、それは「譬喩」なのです。世間を見通しているという「譬え」なのです。

 

 では、日本仏教とは違う「本来の仏教」ではどうなるのか。

 

 釈尊は言いました。

 

 「助けてあげよう」

 

 ゴータミーは、喜びました。

 

 「ただし条件があります」

 

 どんな条件だったのか。

 

 「今まで、悩みというものを経験したことのない人から、芥子の種を貰って来てください。そうすれば、私はあなたの子を助けましょう」

 

 コータミーは喜びました。必死になって「悩みのない人」を探しました。そんな人はいるはずがありません。悩みから目を逸らしている人はいるかもしれない。しかし、悩みや苦しみのない人などいない。

 

 そこで彼女は気づくのです。「悩みの無い」ことが幸せではない。本当の幸福は「悩みに打ち勝つこと」だ、と。これで彼女は悟ったのです。悟ったといっても、雲に乗って極楽に飛んで行ったんじゃない。あくまで普通の女性です。しかし、彼女はその後の人生を悩める人のために生きたのです。これが仏教です。

 

 古代インドの最強国であったマガダのアジャータシャトル王が、バラモン教と仏教の違いを、釈尊に尋ねたというエピソードが、仏典にあります。

 

 釈尊は、明確にこう言っています。

 

 「バラモンたちは、次のような卑しき術を、邪悪な生活手段にして供養を貪っています。手相占い、人相占い、夢占い、火を使う護摩の祈祷、呪文をとなえて行う運命判断、家相判断、悪魔払いの祈祷、花嫁を嫁がせる吉日を予言すること、人を不幸にする呪術、鏡を使う呪術、神懸かりした少女の言葉による予言術……このような卑しき術を行わないのが仏教です。このような卑しき術を行わないように、自己を戒めることが、人生の悩みを解決する法なのです」(『ディーガ・ニカーヤ』)

 

 なんだか、今の日本の仏教は、釈尊が禁止したことばかりしていますね。仏教というよりバラモン教と言った方が適当みたいですね。こうして考えると日本においては、「仏教ならざるもの」が「仏教」として、いやそれどころか「仏教が否定したもの」が「仏教」として定着してしまっている。話を戻しますと、「偽り」が「真実」として定着してしまっている国が日本なのです。

 

 そんな国では、創価学会が評価されない。しかし、ここに、数年前から使われているデンマークの高校の教科書があります。このように、82㌻から20数㌻の間、創価学会について書かれてある。

 

 「立正安国論」が、なんとまるごと1章にわたって解説されています。日蓮大聖人のご生涯も1章、牧口先生のご生涯に関しても1章。戸田先生のことや池田先生の対談も、そのまま何の偏見もなく載せている。教科書に20数ページです。

 

 日本では、週刊誌。別に週刊誌だからといって、差別しているのではありません。しかし、教育先進国のデンマークでは教科書に学会の「評価」が出ている、日本ではホロコーストが無かったなどと書く類いの週刊誌に、学会の「悪口」が書いてあるのです。

 

 さて、あなたはどちらを信じますか。

 

 

 ( 『仏法と健康・豊かさを考える』、1995630日、高村忠成編、第三文明社、pp.930

 

永澤宏之さんのツイッターから






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  August 29, 2021 05:39:25 AM
コメント(0) | コメントを書く
[友岡さんのセミナー] カテゴリの最新記事


Calendar

Favorite Blog

まだ登録されていません

Comments

ジュン@ Re:悲劇のはじまりは自分を軽蔑したこと(12/24) 偶然拝見しました。信心していますが、ま…
エキソエレクトロン@ Re:宝剣の如き人格(12/28) ルパン三世のマモーの正体。それはプロテ…
匿名希望@ Re:大聖人の誓願成就(01/24) 著作権において、許可なく掲載を行ってい…
匿名です@ Re:承久の乱と北條義時(05/17) お世話になります。いつもいろいろな投稿…
富樫正明@ Re:中興入道一族(08/23) 御書新版を日々拝読しております。 新規収…

Headline News


© Rakuten Group, Inc.