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September 2, 2021
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 男子部 講座「21世紀と宗教」第2回から

 

 

 男子部の講座「21世紀と宗教」の第2回講演会が北海道の札幌西文化会館(22日)と帯広文化会館(23日)で行われ、東洋哲学研究所委嘱研究員(当時)の友岡雅弥氏が「日本人の宗教意識」と題し講演した。ここでは、その講演の要旨を紹介する。(文責・編集部)

 

 

    「日本人の主教意識」

 

    東洋哲学研究所委嘱研究員 友岡 雅弥

 

    自己を見つめる「宗教的価値観」こそ

    権力者は民衆パワーの台頭を恐れ宗教を呪術化

 

    信仰を堂々と語る学会員は真の宗教者

 

 

 精神科医であり、現代日本を代表する論客の野田正彰さんから、次のような内容が綴(つづ)られた手紙をいただきました。

 

 野田さんは各地で講演する際、いつも最初の5分間を使い、参加者一人一人に頭に思い浮かぶ自分にとってかけがえのないものを書いてもらっているそうですが、手紙の内密はその時の参加者の反応と回答に対する野田さん自身の感想でした。

 

 メモとペンを手に書き始めた参加者。そのほとんどが、しばらくすると、ペンを置いたり、書いたものを消し始めるのです。しかし、なぜか多くの人がモノしか書いていない。即座に頭に思い浮かぶものを順番に並べてみたら、そこにはモノしかない。参加者はそのことに気付くのです。野田さんはこうした機会がないと、現代人はモノに支配された自分自身を省みれなくなってしまっていると指摘しています。

 

 また別の手紙では「残念ながら、今の日本の多くの人には仲間はいるけれど、友だちはいません」と綴られていました。

 

 同じ趣味を持ち、同じ服装をし、同じように遊ぶ、そういう仲間は確かにたくさんいます。しかし彼らは自分たちと同じファッションでない人間を排除します。本当の友だちというのはそうではありません。たとえ肌の色が違ったとしても、同じ格好でなくても互いに尊重し合えるはずです。異なる人間を排除する社会には、友だちは存在できないのです。何とか遅れまいと、皆が懸命になって自分を殺し最新の流行に付き合おうとしているだけなのです。

 

 自分であってはいけない ” “ 他人にならなければいけない ” ――人間としての尊厳を傷付けながら、モノや情報を追い続ける社会の危険性を野田さんは指摘しているのです。

 

 

    宗教は弱い人間がするものか

 

 

 野田さんの指摘にふれ、十数年前、私が入会する以前のある日のことを思い出しました。その日は友人二人と話をしていました。一人は学会員で、学生部員として活動するだけでなく、ボランティア活動にも取り組む友人。もう一人は在学中から高額が得られるアルバイトを続け、率業後、ベンチャー企業に入社した友人でした。

 

 しがらく話しているうち、学会員の友人はもう一人の友人に創価学会の話を始めたのです。

 

 それを聞いた友人は何と言ったか。

 

 「宗教は弱い人間がするもの。だから僕は宗教は嫌いだ」と言ったのです。

 

 不思織な感じがしました。ボランティアに取り組み、人のために尽くしている彼のどこが「弱い人間」なのだろうかと思ったからです。また歴史を振り返ってみても自らの命を犠牲にし、人々を救済したとされる偉人のほとんが宗教を持っています。宗教を持っている人間は強いのです。しかし友人はそうした宗教を持つ人間を蔑視するのです。歴史を忘却しようとするのです。

 

 しかも「宗教は弱い人間がするものだ」と言ったその友人の車には交通安全祈願のお守りがぶら下げられ、オフィスには商売繁盛祈願のお守りが祭られていました。どう見ても彼の方がすがっている――私はそう思ったわけです。

 

 

    呪術と混同する日本人

 

 

 話は変わりますが、海外のある宗教学者がこんなことを語っていました。

 

 「日本人は宗教と呪術の区別がついていない」と。

 

 「宗教」と「呪術」――これは私たちにとっていかなるものでしょうか。

 

 宗教は人間にとって不可欠なものです。なぜなら宗教は人類が言葉や道具を発明したと同じ時期に起源を持つように、宗教を持つことが人類の証(あかし)であったかちです。野生のなかで「生きること」が第一義であった当時、人類が不必要なものをわざわざ発明するはずがありません。

 

 「宗教」は大自然への感動、人間を超えたものへの尊敬から生まれました。広大な自然や見上げるばかりの天空に比べ、自分の存在がいかに小さなものか――そこから反省や決意、感謝といった意識が生まれた。これが宗教の起源とされています。

 

 精神医学者のユングたちは『意識の起源史』等のなかで、人間が自身への反省や良心、また向上心、勇気を持ったのはいつか。それは人間が宗教を持ちはじめた時であると述べています。宗教は人間のこうした意識の誕生に大きな影響を与え、自らを磨いていくことを教えているのです。

 

 ところが呪術はそうではありません。呪術では個人一人一人は祈りません。特別な人間が儀式を執行し、人々はこれに参加し、そこに帰依する代償として呪物を与えられるというものです。つまり、大衆一人一人にに向上心を植え、自立させる宗教を恐れる権力者がつくりあげたもの、それが呪術なのです。

 

 世界史を見ると、宗教はそのように呪術へと一度後退し、またゴータマ・シッダール夕、イエス・キリスト、ムハンマドがあらわれ、民衆の手に再び宗教は取り戻されます。もちろんそれぞれの宗教に高低浅深はあります。しかし一人一人が自らを見つめるという点は同じです。

 

 日本はどうでしょうか。新年の初詣で、年中行事への参拝……。日本人が宗教と思っているものはまさに呪術なのです。

 

 「宗教は嫌いだ」と言って、神社に詣(もう)でていた友人はまさに呪術を行っていたわけです。

 

 その友人はまた、こうも言いました。

 

 「僕には信念がある。努力と信念で生きていく」と。

 

 「信念」――これは英語すに訳すとビリーフ といといます。また「信仰」を英語に訳すと、これもビリーフです。「信念」と「信仰」は英語では同じ語で表されるのです。ですから彼が口にした「僕には信念がある。だから僕は信仰を持たない」というのは英語としては非常に訳しにくいのです。

 

 アイ・ハブ・ア・ビリーフ ソー・アイ・ハブ・ノット・ア・ビリーフ(笑い)。完全に矛盾するのです。

 

 また「僕は努力と信念で生きていく」という彼に私は質問をしました。

 

 「努力と信念で何を目指すのか」と。

 

 彼は答えまレた。

 

 「商売を繁盛させて金儲(もう)けし、大きな家を建てて……

 

 こうしたお金だけが目的であるなら、それは「信念」とは言いません。それは「欲張り」というものです(笑い)。 結局はモノとカネです。そうしたものがなくても自分にはこれが一番大事である――これが信念です。またモノとカネだけを求めるという価値観には充足感もないでしょう。いくら儲けても、もっと儲けている人がいる。結局、自分より収入の少ない人を見下して安心するしかないのです。

 

 「他をうらやむ心」と「他を軽蔑(けいべつ)する心」――結局、自立した対等な人間関係ではなく、上下関係の人間的つながりのなかでしか生きていけないのです。

 

 彼ま更にこう言いました。

 

 「宗教は一人一人の心自由の問題だ。人に押しつけたり、強制したりするものではない」と。

 

 これを聞いて、「ちょっと待ってほしい」――思わず私がまた口をはさんでいました。友人に自分の人生にとって一番大切なことを話すことのどこが強制なのかと思ったからです。「自分はこの信仰を持って生きてきた。でも友人にはこのことは教えないでおこう」――これはむしろおかしい。自分が持っている価値観を友人に語ることがどうして強制になるのでしょうか。

 

 カルトと呼ばれる狂信的な閉鎖教団があることは皆さんもご存じでしょう。そのカルト教団の特徴を少し紹介しますと、彼らは決して肉親や友人といった深い人間関係を使って布教しないということが挙げられます。また宗教と名乗らず近付いてきます。おかしな宗教ほど、宗教ということを隠し、肉親や友人には布教しないのです。

 

 更に驚くことがあります。彼が言っっているセリフ、宗教は心の自由の問題で、それを押し付けるのは強制だとは、実は「大日本帝国憲法」および、その解釈書に記された信教の自由そのものなのです。

 

 明治政府は江戸時代に禁制とされたキリスト教等の信教の自由を認めますが、キリスト教の布教と同時に欧米の自由、平等、博愛の思想が広がることを恐れました。それは天皇を絶対君主とする国家をつくる妨(さまた)げとなるからです。そこで元老・山形有朋(ありとも)のブレーンらはこうした詭弁(きべん)を考えたのです。

 

 

    明治憲法以来の変わらぬ宗教観

 

 

 「宗教は自由である。ただし、それは個人の内面に限る。国家の中では人は絶対君主の天皇に従わななければない。他人への布教は法律で規制されねばならない」

 

 これは西周(にしまりしね)の『教門論』にも登場する言葉です。また伊藤博文のブレーンはこうも言います。

 

 「宗教は個人の心の問題である。これを内想という。内想で何を信じてもそれは自由である。しかし、他人への布教や書物の出版。これを外顕という。これは禁止する」

 

 まさに私の友人のセリフは「大日本帝国憲法」の精恐神そのままなのです。

 

 こうした信教の自由は学校等でも徹底的に教えられ、いまだに日本人はそれから抜け出すことができないのです。

 

 友人たちと対話をしながら私は思いました。ここには「宗教を持っていない人」と「宗教を持っている人」はなく、「変な宗教に毒された人間」と「自分の信念をはっきりと持って生きている人間」がいる、と。つまり大日本帝国憲法制定以来変わらない宗教観を持つ「呪術師」と、カネやモノを至上とせず自身の意見を持って信念に生きる信仰者がいた、ということです。

 

 「真の宗教」とは、決して自分の外に高い価値をおき、それに「すがる」ものではありません。そのような信仰の形態は呪術であり、その延長線上に、モノさえあれば、カネさえあればという価値観も位置します。また、有名な精神分析学者E・フロムがそのような信印の形態を「権威王義的宗教」と名付けたように、一定の権威のもとに「個」を殺すものでもあります。

 

 同じ流行に一斉に流されがちな今の日本の精神風土を見ていると、「自分とは何か」「自分にとって真の幸福とは何か」「自分にとって真の友人とは何か」と自分を見つめる〈真の宗教的価値観〉を立てることが、この国にとって最も大切であると思います。

 

 

 ( 1997年4月2日付「創価新報」掲載

 






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Last updated  September 2, 2021 05:15:54 AM
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