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カテゴリ:危機の時代を生きる
第12回「生命に備わる力」に思う 東海大学医学部准教授 佐藤 健人さん 文明の曲がり角に立つ今こそ 未来開く主体的な意志を 新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)が始まってから1年余り。この間、私たちはとても厳しい経験を重ねてきました。物心に渡る困難がつづき、やるせない憤懣をお持ちの方もおられると思います。しかし、人類は自らの行いによって、地球環境を大きく変えてしまいました。パンデミックにはその影響が指摘され、今後も予断を許さない状況です。 人類は、文明の曲がり角に立っているようです。ならば、この現在地から、歩む先の未来をすこしでも良いものにしようという主体的な意志を、皆で共有できないかと思うのです。 ◇◆◇ 医療・医学の分野で、この1年余に前進したことは、いくつかあります。新型コロナウイルス感染症の重症化は、ウイルスそのものの毒性というより、体内の免疫反応が暴走することで起こる、という認識が共有されるに至ったことは、その一つでしょう。 昨年6月、イギリスの医療チームが、免疫反応を抑制する薬剤(ステロイド剤)の投与が重症患者に対しては有効であることを発表して以来、日本の厚労省も治療のガイドラインとして推奨するようになりました。これは治療戦略の一つの転換点になったといえます。それ以降、ステロイド剤の投与によって免疫系の暴走を止め、死を免れた重症患者も少なからずいらっしゃいます。当初、免疫反応はウイルスを駆除する原動力であるから、これを抑制するというのは危険である。という声も少なくなかったのです。 ◇◆◇ なぜ、免疫系が暴走をしてしまうのでしょうか。 私たちの免疫系は、「自然免疫」「獲得免疫」という二つの柱からなります。新型コロナウイルスには、これらの調和をかく乱する性質があるのです。 自然免疫の一翼には、インターフェロン応答という、ウイルスに対抗する働きがあるのですが、新型コロナウイルスは、この働きを抑える性質を持つことが分かってきました。自然免疫は、別の一翼を働かせて不備を補おうとしますが、バランスを欠いた反応になりがちで、時として暴走することになるのです。 重大なことに、この暴走が起きる時、免疫系のもう一つの柱である獲得免疫が破壊されることも分かってきました。これらの詳細を明らかにし、解決の方途を見いだすことは、今後の免疫学の大きな課題です。 ◇◆◇ 医療の分野で前進した最大のものは、ワクチンです。 地道な基礎研究に基づいた技術革新により、現在では、病原体の遺伝子情報さえあれば、ワクチンをすばやく開発できるようになりました。この技術によれば、変異株への対応も、短期間で行うことが可能です。しまこ、ワクチン接種が進んだ国では感染者の急激な現象が起きており、その高い予防効果は、想像をはるかに上回りました。今回の経験は、人類にとって重要なステップであったと後世、評価されることになるでしょう。 とはいえ、現在のワクチンは完成形ではありません。副反応も問題も改善が期待されますし、現行のワクチンは、重症化を防ぐことを目標にデザインされています。気道粘膜などにウイルスが侵入することを防ぐ免疫系は、必ずしも強化されません。重症化を防いだとしても、感染そのものは十分に食い止められない可能性があります。軽症者でも、さまざまな後遺症がありうることが報告されています。粘膜系の免疫を強化して、感染症防止に効果の高いワクチンの開発が望まれる理由の一つはそこにあります。 免疫システムの原理からいって、副反応のまったくないワクチンはありません。このため、さまざまな理由で摂取できない方もいらっしゃいます。従ってワクチン接種後も、マスク着用など、感染防止の配慮は継続する必要があります。 ともあれ、重症化を確実に防ぐことができるようになれば、その時、コロナは〝ただの風邪〟に近づき、医療の逼迫も防ぐことができます。あともう一息、希望を持って頑張りましょう。
もっと素晴らしい 生命科学研究の一隅に身を置く一人として、科学が人類の福祉に貢献するのは喜ばしいことです。しかし、生命科学が常に人類のサポーターであったかというと、必ずしもそうではありません。サポーターでも、プレイヤーでもなく、上から目線の〝解説者〟だったこともあるようです。 20世紀後半は、分子生物学の時代で、遺伝子に関する知見が、次々と明らかになりました、それは巨大な潮流で、〝遺伝子がわかれば生命は分かる〟という雰囲気が醸成され、「生命は遺伝子の乗り物にすぎない」と言って話題を集める人物も現れました。 しかし、遺伝子は設計図にすぎません。設計図にある製品を、いつ、どこで、どれだけ作るのか、どう働かせるのか、どう壊せるのかが設計図には書かれていないのです。生命は遺伝子を用いますが、遺伝子が生命の主人でないことは、すでに明らかで、部分観にすぎなかったのです。 21世紀は、脳科学の時代です。脳の活動は、ニューロンという神経細胞が構成する回路をばとして行われます。電気的なネットワークを形成するという点は、コンピューターに類似しているので、〝人工知能(AI)は何れ人間の脳を凌駕し、人間の心はAIに移し替えることが可能になり、身体が壊れての永遠の命が得られる〟などと夢見る人もいるようです。しかし近年の研究では、脳の活動はニューロンだけでなく、ニューロン以外の細胞も担っていることが分かりつつあり、これもまた、部分観であったことが指摘され始めています。 生命を「乗り物にすぎない」「電気回路にすぎない」と見る発言は、話題を集めてきました。豊富なエピソードで飾られた巧みな理論には、魅力があるのかもしれません。しかし、それが人類にとって、真の滋養となるかどうかは別問題です。〝解説者〟の言葉には、生命の畏敬の念が欠けてはいませんか? 生命は、もっと素晴らしい。このことを、人類はいつしか忘れてしまうのではないかと心配します。
「妙とは蘇生の義」——生きて生きて生き抜く 生命の驚異的なレジリエンス
免疫の高度な戦術 「○○にすぎない」を超えた生命のすばらしさを、どう表現したらいいでしょうか。生命を「モノ(物質)」と見る概念に対抗するならば、「コト(事象)」と見る態度にヒントがあるのかもしれません。 聖教新聞に登場した生物学者の福岡伸一博士は、「動的平衡」という言葉を用いて巧みに説明されました(2020年12月5日付)。 ——生命は遺伝子の情報に従い、次々と生命の部品を製造しているが、壊すこともまた一生懸命に行っている。このため生命を構成する「モノ」は次々と入れ替わるのに、それでいて生命はその効果として道的に継続する——と。 生命を畏敬し、単なる物質や機械とは見ない態度として、私は共感しています。 その上で、あえて生命の素晴らしさの一端を加え述べるならば、私は「レジリエンス(困難を乗り越える力)」をあげたいと思います。 細胞の遺伝子から、重要と思われる一部を除いてみます。さぞかし影響を受けると予想したのに、想定外のやり方で、しなやかに危機を回避し、生き続ける。そんな例は、いくつもあります。生命は困難に遭遇しても、生きよう、生きようとする存在です。 一方、地球上すべての生命にとって、ウイルスは宿命的な脅威です。しかし私たちは、この困難に対しても、高度な戦術を構築してきました。 獲得免疫がそれです。どんな形の病原体が侵入しても対応し、他ものには手を出さず、ウイルス感染した細胞のみを探してこれを除く。感染したウイルスのみを速やかに中和する抗体を作る……。 ウイルスや病原体の形は千差万別なのに、どうしてこのようなことができるのでしょうか。それは、自らのゲノムを無数のやり方で切り貼りし、千差万別の対抗物質を作り出すという、驚異的な戦法によって成し遂げられます。 驚いたことに、もっと原始的な生物と見られる細菌にも、自らの遺伝子を書き換えて、ウイルスに対抗するものがあります。 生命の驚異的なレジリエンス——生命は、たたかれても、たたかれても、たやすくは死にません。さまざまな手を尽くして蘇るのです。まさに、「妙とは蘇生の義」(御書947㌻)を思わせます。
負けないことは勝利に 創価の哲学は人類の希望
真に充実した人生 そうした生命のレジリエンスは、私たち一人一人の心にも備わっています。 私は10代の頃、2度眼病を患い、1度目は失明寸前までいって回復しました。再発したのは、大学受験を目前に控えた時期。不安は一段と増大し、近づく本番を前に、私はなかなか、もんもんとした落ち込みから抜け出すことができませんでした。 〝試験は受けられるのか〟〝見えなくなったら、進路はどうなるのだろうか〟……。そばで見ていた母親も、それは心配したことでしょう。 しかし、そんなある日、母はこう言ったのです。 「いろんな事あるのが、人生の醍醐味なんだよ」 その後の人生を思えば、小さな試練でしたが、母のこの一言は忘れられないものとなりました。世間の結果がどうであろうと、病がどうなろうとm自分は生き抜くことができるのだと考えられるようになったのです。 忘れられない、大切な思い出がもう一つあります。 私は青春時代、草創期の創価学園で学び、創立者である池田先生から直接、間接にさまざまなことを教えていただきました。 それは昭和54年(1979年)前後、先生ご自身が第1次宗門事件で、想像を絶するように苦境にあった頃のことです。 そんな時でも先生は、共に食事をし、歌を歌い、一人一人に親しく声を掛け、小さな約束も大切にしてくださるなど、一学園生に対して誠意を尽くしてくださいました。 そんな日々の中、先生は語られました。 「負けないという人生は、永久に勝ちです。勝つことよりも負けないことの方が、実は偉大な勝利なのです」 また、ある時は、たとえ困難なときにあっても力を出せる人に、苦しい時にも喜べる人に、逆境にあっても勝利を確信できる人に、と期待を寄せてくださいました。 私が6年間の学園時代、先生の振る舞いから学んだことは、どんな苦難があっても負けずに、生きて生きて生き抜くということであり、その生命を喜び勇んで他者のために使っていくという人生哲学でした。そこに真の人生の充実があり、天体が公転と自転を調和して行うように、利他と自利が矛盾なく両立する生き方もあるのだと教えていただきました。
利他こそ本来の姿 危機に直面する現代において、「利他」の重要性が語られています。 ワクチン接種一つとっても、自分や自国だけではなく、人類全体が感染を免れることを目指す必要があります。地球環境の問題、格差を生んでいる経済の在り方にも、利他の視点が必要でしょう。しかし、現状の世界は、むしろ利己に走ろうとしているように見えなくもありません。「利他」は単なるスローガンに終わるかもしれないのです。 私は生命科学者として、また一人の人間として、この言葉に命を吹き込みたいと願っています。研究が進むほど、生命への畏敬の念が増し、色心ともに人類の福祉が向上する、そのような科学に貢献したいと思います。 生命は、その本然の姿として、困難があっても、周囲と手を携えて、その困難に立ち向かい、共に生きよう、生きようとしています。 それが分った時、初めて知る人生の醍醐味というものが確かにあります。生命は驚異であり、人生は深く、素晴らしいのです。 生命を「○○にすぎない」と見るような態度からは決して生まれない、生命を尊極とし、利他を内発的に動機づける力が、ここにあります。 危機の時代にあって、この哲学は人類の大いなる希望ではないでしょうか。
【危機の時代を生きる■創価学会学術部編■】聖教新聞2021.6.26 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 1, 2022 05:30:51 AM
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