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May 27, 2023
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事実を冷静に見つめる姿勢と常識で科学の発展と向き合う

インタビュー㊤ 東京大学名誉教授  村上 陽一郎さん

 

ワクチン開発は画期的な成果

――コロナ危機となって約2年。科学を取り巻く現状や課題に対して、どのように感じておられますか。

 

今回のコロナ禍において、科学の持つ可能性が鮮やかに表れたと思います。

ワクチン開発について言えば、非常に短期間で有効なものが複数実用化され、感染抑制に一定の効果を上げました。21世紀に入って流行したSARS(重症急性呼吸器症候群)やMERS(中東呼吸器症候群)も、新型コロナウイルスと同じ「コロナウイルス科」に属しますが、この二つに関しては、ワクチンが開発されていないまま収束しました。そう考えると、今回のワクチンは画期的な成果だと言えます。

この背景形には、流行初期の段階で、中国の科学者らによって、新型コロナウイルスの遺伝子情報がインターネットに公開されたことが挙げられます。これにより、各地の研修所が早い段階で開発に着手でき、短期間での実用化にいたりました。感染拡大を防ぐために、世界中の科学者が手を取り合えたことは、大きな希望と言えるのではないでしょうか。

 

 

――ウイルスに関連して、「永久凍土などに閉じ込められていたウイルスが、地球温暖化などの影響で融解することで、大気中に漏れ出す」といった言説も話題を呼びました。

 

そうですね。ここ数年で、地球温暖化についても次ぎ次と新たな事実が発見されています。

例えば南極の氷ですが、温暖化で極圏の気温が上がれば、降雪量が増え、氷が増えるのが道理ですが、最近の研究では、氷の渉猟が急速に失われつつある実態が明らかになっています。北海道大学の杉山慎教授の『南極の氷に何が起きているか』(中公新書)によれば、年間約10ギガトンもの水(海水面が0.3㍉上昇)が失われ、その速度は近年加速している可能性が高いようです。(※)

もちろん、現代の科学では、地球温暖化という現象については全体像を把握するには限界がありますし、また分からないことも多く存在します。しかし、全てが解明されていないから何もしないということではなく、分かったことを踏まえつつ、温暖化を防ぐために、今からできること、今できる対策をとっていくことが大切だと思います。

 

――ワクチン接種についても同様のことが言えるのではないでしょうか。時間を置けば、感染メカニズムがより詳細に分かり、精度の高いワクチンが完成するかもしれませんが、早い段階でワクチン接種に踏み切ったからこそ、感染抑制につながった面もあります。

 

そうだと思いますが、私がコロナ対策において感じたのも、他国の発表や政策を横目にしつつも、これが最善という「ベスト」ではなく、むしろ「ベター」な解決策を選択する柔軟性が肝要だということでした。

そもそも、現代の科学では、新型コロナウイルスの感染のメカニズムになどについて、全てが分かっているわけではありません。そうした中にあって、待てば待つほどベストな対策も出てくるでしょうし、さらに時間がたてば、もっと良い対策が生まれるでしょう。しかし、そうしたベストを待ち続けていれば、いつまでたっても何もできません。

 

(※)数年前までは、地球温暖化が進んでも南極の水は減らないという学説が一般的であった。温暖化によって海水が上昇し、大気中の水蒸気は増えるものの、その水蒸気は南極大陸に流れている中で冷やされ、雪となって降り積もると考えられていたからである。しかし、最近の調査では、海水温の上昇によって海水に接する部分の水の触解が急速に進んでおり、それは巷説によって増加する氷の量よりも多いことが明らかになった。

 

一方で、これがベストだと思い込んでしまうことも、別の新たな方法が見つかった際に受け入れられず、結果として事態を悪化させてしまう可能性もあります。

大事なことは、今、分かっている事実から、ベターな解決策を地道に実践する姿勢です。

その意味で、作家で精神科医の帚木蓬生氏が提唱する「ネガティブ・ケイパビリティ」(答えのない事態に対して耐える能力)は、コロナ禍にあって重要な概念であると考えています。

これまでの社会では、ある問題に直面した際、原因を手際よく調べ、即座に解決を提示して実行する「ポジティブ・ケイパビリティ」が奨励されてきました。もちろん、時間をかけずに課題解決に臨む姿勢は欠かせません。その上で、私が危機感を抱くのは、社会全体がポジティブ・ケイパビリティ〝一本鎗〟で進んできてしまったという点です。

しかし、現代社会には感染症に限らず、地球温暖化やエネルギー問題になど、単純に答えの出ない問題も多く存在しますし、そうした中にあって、ベストだけを求めていては、いつまでも問題解決には進みません。たとえベストでなかったとしても、ベターと思う解決策があれば、それを実行していく。よりベターが見つかれば直ちに切り替える。そうした柔軟な姿勢は、これからの時代を生きる上で希求されるものでしょう。

 

 

未知の事態にはデマがはびこる

――単純に答えの出ない問題と向き合うには、忍耐が必要です。そこへの苛立ちからでしょうか。今回のコロナ禍においても、SNSには「これが答えだ」と言わんばかりのデマが横行しました。

 

私にも記憶があります。

例えばSNSで一時期、「新型コロナウイルスは大年生がないから、2627度のお湯を飲めば死ぬ」という言説が拡散しました。しかし、人間の体温は36度前後なので、ウイルスが体内に入って段階で死滅することになり、この理屈は破綻します。

また「コロナは単なる風邪だ」と主張する国の指導者もいましたが、現在、〝単なる風邪〟に用うて500万人以上もの命が失われています。その指導者は、現状をどう説明するのでしょうか。

ましてや感染症のような未知の事態にあっては、人々の不安が広がり、デマがはびこりやすい。そうした情報に翻弄されず、懸命な判断をするためには、専門家の提示する「科学的合理性」ととmに、個々人の健全な「常識」が肝要になってきます。

今回も観戦抑止のため、手洗いの徹底や3密(密閉・密集・密接)の回避と言って「新しい生活様式」が提唱されましたが、こうした事項のいくつかは、もともと蓄積されてきた科学的常識を強調しただけであって、決して新しいものではありません。

これは私の父親が医者だったこともありますが、私も子どもの頃から、お金や電車のつり革など、他人がふれるものを自分がふれた際には、帰宅後に必ず手洗いをするよう、父から言われてきました。それが当時の一般常識でしたし、感染症等から自分の身を守る知恵が、社会の中にも根付いていたと思います。

ところが、現代社会は医療技術も発展し、衛生観念がなおざりにされるほど、私たちはそうした技術を信じ、切ってしまった。いわば技術ばかりを取り入れ、科学的な姿勢を重んじてこなかったということです。そうした中で常識の重要性が片隅に追いやられ、一人一人の判断力・警戒心も低減してしまったのではないかと考えています。

 

 

「科学振興」は持つべきではない

――科学への妄信は危険ですね。

 

科学は常にベストを提供してくれると思う人もいるかもしれません。しかし、科学にも限界があります。もちろん、科学の発達とともに、その可能性は大きく広がっていますが、私は何もかもが科学で解決できるという「科学信仰」は持つべきではないと考えています。むしろ科学が進歩すればするほど、使用者である一人一人の科学的な姿勢や常識といったものが求められていくと思っています。

ワクチン接種も、その一例でしょう。ワクチンの名称の由来は、雌牛を意味するラテン語の「Vacca」です。天然痘が猛威を振るっていた18世紀、イギリスの石であるジェンナーが「牛痘」を用いて予防接種を始めたことから、この名が付けられました。健康な人間に、あえて病原体を接種して免疫力を獲得させるのが、ワクチンの基本的な仕組みです。そのため、人によっては副反応が出てしまうのは避けられません。

もちろん、技術も進歩しており、その副反応のリスクも低くなってきましたが、ゼロリスクにはなりません。その上で、今回のワクチン接種は、個々人の命を守る上で、相当の効果があったことは否定できない事実です。そうしたワクチンのデメリットとメリットを理解した上で、どう選択するかは、そうした事実を冷静に見つめる科学的な姿勢や、個人の判断、常識に委ねられているわけです。こうした姿勢や常識といったものを、いかに醸成していけるかが、科学と向き合う上での切実な課題であると思っています。

 

 

感染症を取り巻く現状日々変化

常に〝ベターーより良いー〟な選択を

 

 

――科学的な姿勢を育む上で、どのようなことが必要と考えておられますか

 

先ほどSNSの話題になりましたが、デマやフェイクニュースが拡散された一方、有益な情報な広まったものも事実ですから、SNSそのものが一概に悪いとは思いません。むしろ社会に普及されたこの技術を通し、科学的な根拠に基づく議論が深まっていく可能性を模索していく方が価値的ではないでしょうか。一つの方向性として、インフルエンサーと呼ばれる拡散力のあるユーザーが、どのような発信をするかが問われてくると思います。

教育の観点でいえば、現制度では、現行制度では、高校2年になると文系・理系にカリキュラムが分かれます。その段階から、文系を選択した学生は理科系科目を、理科系を選択した学生は文系科目を学ばないまま社会人になる場合が少なくありません。そうして制度にあっては、横断的な知識を体得することはなかなか難しいと考えています。

「アクロス・ザ・カリキュラム」という言葉がありますが、たとえば英語の授業で理科教育を行うなど、教科の枠にとどまらない授業設計も必要でしょう。

現在は、大学で教養教育ばかりでなく、大学院でも逍遥教育を導入する「後期教養教育」は広がりつつあります。専門家だからこそ、広い視野に立つ教養を培う方向が模索されているわけです。今度、日本の教育制度全体が、こうした方向にシフトしていくことを期待しています。

 

 

地域の人と意見交わす場が大切

――科学的姿勢を育むために、個人レベルで、できることはあるのでしょうか。

 

一人一人が科学の基礎を学ぶことはもちろんのこととした上で、ここでは、その一つのヒントとして、ヨーロッパ諸国で導入された「コンセサス会議」を紹介します。それは社会的に影響のある議題が現出した時に、専門家だけでなく、非専門家も交えて行われる会議のことです。

かつて、日本でも北海道が遺伝子組み換え作物(GMO)の研究を推進することに対し、訴訟になるほどの意見対立がありました。そこで北海道大学が主導してコンセサス会議が設置され、さまざまな年齢・立場の人が参画し、時間をかけて討論を行いました。また、この経過を地域住民も確認できるよう、一般にも公開されました。度重なる議論の末、GMOの栽培ルール等を定めた条例が成立し、厳しい条件付きではありますが、GMOを栽培できる圃場が確保できるようになりました。

個人レベルにおいて、専門家が入って議論の場をつくることは難しいかもしれませんが、地域の人々と議論の場をつくったり、意見を交わしたりすることは、できるのではないでしょうか。そうした議論は、科学的な姿勢や常識を育んでいく上で大切だと思います。

 

 

――創価学会ではコロナ禍以降、感染対策に関して、青年部と医学者との会議を定期的に開催してきました。そして、そこで語り合われた内容は聖教新聞でも紹介し、それを多くのメンバーが学び、地域の友とも共有してきました。

 

「コンセンサス会議」のポイントは、専門家と非専門家とが、それぞれの立場から一つの問題に協力して立ち向かうための基礎を確保することでした。こうした場の存在は、個々人の健全な常識を育む上でも非常に有効だともいます。

今後も感嘆に応えの出ない問題は続いていきます。そうした中にあって、そのようなつながりのあるということ自体が一つの強みですし、そのつながりの価値は、ますます求められるのではないでしょうか。

 

 

【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.1.29

 

 

 

現代科学は宗教と決別して発展

——私たちの生活に、密接にかかわる「科学」。その成立と発展について、宗教はどのように寄与してきたのでしょうか。

 

一見すると、科学と宗教は相いれない関係性のように思うかもしれません。しかし、歴史学者のリン・ホワイトが著書『機械と神』(みすず書房)の中で、「(キリスト)協会は西欧思想の〈母胎〉ではないにしろ、少なくとも〈子宮〉である」と述べたように、西欧に誕生した技術文明にはキリスト教の影響があります。彼は、むしろ、自然破壊の歴史的な源泉をそこに求めたのですが。

キリスト教の世界観によると、自然界のすべては神によって造られており、中でも人間は「神に似た唯一の被造物」として特別に位置づけられています。この考えに立つ時、全ての自然現象には、もれなく神の意志や神の真理が内在していることになり、〝神の似姿〟である人間は、少なくとも、その一部を読み取れるという発想が芽生えていくわけです。そして人間は、その心理を理解しようと自然現象を観察し、そこから規則性を探求していくのです。こうした営みの蓄積が近代科学の基礎となりました。

一方、現代科学は、宗教と決別することで発展しました。科学技術の力が増大し、その力によって現実の課題が一つ一つ解決されるようになると、人類はさまざまな苦悩から解放されていきます。それは、まさに宗教が提示してきた〝救い〟であり、それは科学技術による〝救い〟に置き換わっていきます。そして神を追いやり、自然界の主となった人間は、人間の都合のよい良いに自然を制御し、支配するという発想になっていくのです。

もちろん科学技術が進歩したことで、私たちの暮らしが良くなったことは否定できない事実でしょう。しかし、宗教と決別したことで、人間の幸福やより良き人生などを追求してきた科学は、人間の欲望や好奇心を満たすための手段へと変幻していくのです。

 

 

〝何のため〟を問い直す時期に

――科学技術の発展で、人類は便利で豊かな生活を手に入れた一方、その科学技術がもたらした核兵器などによって、脅威にさらされています。

 

最近では、人工知能(AI)を備えた(自立型致死兵器システム(LAWS))と呼ばれる殺人ロボットなども、問題になっていますね。LAWSの発展が進んだ要因として、自軍兵士の人命の保護が挙げられますが、これは軍事の責任者から見れば、自分の兵士は殺されたくないが、相手の兵士は殺したいという発想です。そのために殺人ロボットを開発するというのは、人命の尊重という点で、大きな矛盾をはらんでいることは明らかです。

思えば、数ある哺乳類の中で、人類ほど同族を殺すために知恵と力の限りを尽くしてきた存在はいません。一体、どこで何を間違ってしまったのでしょうか。いずれにしても、地球的課題を克服し、持続可能な社会を築きていくためにも〝何のための科学科か〟を問い直す時期に来ていると思います。

 

 

――最近では、おヤン希望に沿って、生まれる前のこの遺伝情報を編集する「デザイナーベビー」など、生命倫理に関わる問題も浮上しています。

科学技術が発展するほど、その発停委の基盤となるべき哲学の必要性は、より高まっているのではないでしょうか。

 

私もそう思います。

1995年、わが国の科学技術政策の方針を定めた「科学技術日本法」が制定された際、その「科学技術」の定義には「人文科学のみに係るものを除く」と明記されていました。人文科学というのは、まさに人間が生み出した科学技術をどのように使っていくのか、その中で人間社会をどのような方向にもっていくべきかなどについて探求する学問ですが、科学技術の発展を目指す上で、そうした学問は蚊帳の外だったわけです。

現在の「科学技術・イノベーション基本法」では、そうした除外規定は削除され、日本においても、科学技術におけるELSI(倫理的・法的・社会的課題群)などが注目されつつあることは、一つの希望だと感じています。

そうして流れは、まだ始まったばかりという段階ですが、人文科学も含めた多角的な視点から科学技術の影響を予測・検討する営みは、科学と社会との〝橋渡し〟という観点からも重要です。

課題は山積していますが、〝何のための科学なのか〟を裏付ける哲学の重要性を主張し続け、技術開発の根底に根付かせていきたいと思っています。

 

 

科学技術の根底に哲学を

信仰持つ人々の行動が鍵

 

 

「人間の拡大」が変革につながる

――科学技術を生み出すのは人間であり、使うのも人間です。だからこそ、科学技術の発展とともに、人間自身が成長していくという視点も欠かせませんね。

 

その意味で、私は「人間の拡大」が重要であると考えています。

先ほど、近代科学は人間が自然現象を観察し、そこから規則性を探求していく中で発展したことを述べましたが、その時、主体は人間であり、客体は自然という確固たる関係がありました。一方、現代科学は人間自身の心や身体も観察の提唱、つまり客体となったのです。その結果、心理学や医学などは飛躍的に進歩しましたが、客体の世界が拡大したことに伴い、主体であったはずの人間という概念が縮小されてしまったのです。加えて現代科学は、人間に欲望のままに生きることを促してきました。

しかし、人間には、欲望を抑制する意志もありますし、より良い社会を築きたいという理想を持つこともできますし、喩え民族や文化は違っても結び合っていく力があります。そうした人間の可能性に目を向け、人間精神を高めていく。いわば「人間の拡大」が、科学技術の在り方を変え、社会全体の変革につながっていくと思うのです。

 

 

――「人間の拡大」は、創価学会が目指す「人間革命」の運動とも共鳴すると感じます。人間とは、信仰を根本に一人一人が自分自身の変革に挑戦し、地域を変え、社会を変えていく運動です。

 

私自身もカトリック信仰を持っていますが、科学教育に携わってきた一人として、科学と併行して、人間の理性の限界を超えるものへの懼れがなければ、社会は破綻してしまうのではないかと憂慮しています。

ただ難しいのは、特に日本社会においては、宗教に対する興味・関心は全体的に低いと言わざるを得ない状況にあることです。もちろん、個々人の心底には宗教真なるものは存在すると思います。しかし、葬儀や七五三といった宗教的儀礼を大切にするという程度で、宗教的な思想やエネルギーを社会の現出させるような力は、ほとんどないのが現状ではないでしょうか。

 

宗教心が根付くためには

――そうした社会に宗教心を根付かせるためには、何が必要だとお考えですか。

 

宗教と縁遠い人がほとんどの中で、いきなり協議を理解してもらうのは難しいでしょう。

キリスト教思想家の内村鑑三(※)は『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』(岩波書店)についてつづっています。「回心」とは、心が百八十度ひっくり返るような転換を意味します。19世紀末、アメリカのアマースト大学に留学して内村は、シーリー学長との出会いを契機に回心に至ります。

同書には、その時の心境がつづられています。

私に最も大きな影響を与え私を変えたのは偉大な学長自身でありました」

「貴重な教えを、偉大な学長はその言行を介して私に教えたのでありました」

ここで重要なのは、内村が、学長からキリスト教の奥義を聞かされたわけではなく、「言行を介して」とあるように、学長の生き様や人間性に触れ、回心に至ったという点です。

カトリックには「信徒使徒職」という考えがあります。聖職者だけではなく、世俗に生きる人々も、キリストの教えを伝え弘める使命を有しているということです。いわば信仰を持つ一つ一つが、その宗教の代表であるという自覚で生き、周囲の人々に影響を与えていくことです。

これは、なかなか難しいことですが、信仰を持つ一人一人が、そうした生き方を貫いていく中で、宗教心も地域や社会に似月、ひいては科学技術を支える哲学になっていくのではないでしょうか。

 

 

——信仰を持つ一人一人の振る舞いが、大切ということですね。

 

信仰者として生きることは、もちろん簡単なことではありません。私自身が、それをできているかと言えば、自信はありませんが、そういう信念で生きてきました。

そうした信念で行動する人が一人でも増えれば、それが周囲に触発を与え、社会全体をより良い方向に導いていけると信じます。

 

(※)18611930.近代日本を代表する宗教化・思想家・日本が誇る歴史的な人物を海外に紹介するために著した『代表的日本人』では、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹と共に日蓮大聖人を取り上げている。

 

むらかみ・よういちろう 1936年東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。東京大学大学院先端科学技術研究センター、国際基督教大学、東京理科大学学長などを歴任。専門は科学史、科学哲学。著書に『ペスト大流行』『文明のなかの科学』『ウイルスとは何か』(共著)など。

 

 

【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.1.30






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Last updated  May 27, 2023 06:38:10 AM
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