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カテゴリ:心理学
「私は」をはっきり言うと弱い自分が消えていく
相手の言うことを聞いて、その通りにして相手から保護されて生きることはやさしい。しかし、このような生き方をしていると、いつまでたっても心理的に独立することはできない。 また相手の言いなりになって生きたからといって、相手はこちらを尊敬するわけでも、重んじてくれるわけでもない。甘く見られる、なめられるだけである。 「人を見る」ということが、この社会の中で快適に生きていくうえには、どうしても必要なことである。この世の中の人は、敏感性性格の人が考えるよりはるかにやさしい。また逆に、敏感性生活の人が考えるよりはるかに卑怯である。 というのは、敏感性性格の人は、人を皆同じに見てしまう傾向がある。だから自分に対して好意的な人も、自分を利用しようとするずるい人も、同じに対応する。そのように同じに見てきてしまうのである。 さて、いろいろながながと相手の言うことを真に受けすぎるということを書いてきたが、次に大切なことは、「自分が」このように思う、「自分は」こう感じるというように、「自分」というものを他人に示すことを避けてはならないということである。 これがどのくらいむずかしいことかは、私自身もわかっているつもりでいる。私も大人になってから他人の前で、同僚の前で、上司の前で、「自分は」こう思うということをなかなか言えなかった。 「自分は」反対ですということをはっきり言えた日のことを、いまだに覚えている。それはある人事についてだった。私はただでさえ「自分の」意思をはっきりと表示できない弱い性格だったので、人の気持ちが深くからみあう人事のようなことについては、憎まれたくないということで、なかなかはっきりと意思表示できなかった。 しかし当時私は、自分がこの弱い性格をなおさなければと必死になっていたが、それまで私は自分の意志を一般化した形で表示するという、弱い人間に共通した意思表示をしていたのである。 「だいたいこの会社に勤めている者なら」とか、「たぶん昭和ひとけた生まれの者は」とか、「多くの男性は」とか。自分の意志を一般化して表示する。 だいたい「自分が」反対であっても弱い人間は、「彼も反対のようでした」というような言い方をする。このように自分の意思をはっきりと表示することをいつも避けていると、いつのまにか自分の意志そのものがはっきりしなくなってしまう。 「みんな、これはほしいんじゃない」といった言い方をよくする。決して「私はほしい」とは言わない。 このように自分の意思や要求を一般化していると、「どれがほしい?」と聞かれて、「どれでもいい」というようになってきてしまう。ほんとうにどれでもよくなってしまうのである。 「どこのレストランにいこうか?」という時、「彼がどこそこのレストランはおいしいと言っていたよ」となってしまう。自分の意思や欲や望みを一般化しない時は、辞任以外の第三者を通してそれを表示する。 いまも書いた通り、「自分が」反対でも、まず「彼が」反対の意見だという。そして「自分は」といわずに、全体が自分の望むように反対になることを期待する。 たとえ「彼が」反対でも、「私は」反対だと言って、それを支持する門として「彼も」と言うのはいいだろう。しかし「私は」をぬかして「彼が」だけ述べて、その集団の意見がそのようになったのを「彼の」責任にするというのは弱虫すぎる。 このような生き方をしていると、いつの間にか気力のおとろえた人間になっていくし、さっぱりした人生を送ることはできないだろう。いつも誰かを恨んでいるようなことになる。 ことに人事の昇格などについては、人は問題になっている人に憎まれたくないということではっきりと自分の意見を言わない。言わないけれど、「彼が昇格になるのはおかしい」と思っている。「それだけの業績をあげていない」と思ってはいる。しかし公の会議でそれを言えば、やがてそれがその人に通じて憎まれることになる。 そこで憎まれたくないから意見は公に言わないで、あとは陰口でいうことになる。日本の社会でこれほどまでに陰口が多いのは、人々が弱いからである。 「だいたい女なら」「彼が」「たぶんあの人も」というような言い方でしか、自分の意思を人前で言えないから陰口が多いのである。 自分の意思を表示し、その意思を通すということは、自分が責任をとるということでもある。それは怖い。 しかし自分の意思を重要な局面ではっきりと述べて、その通りに動かした時、それまでと世界は映ってくる。いや自分も違ってくるのがわかる。自分の内面もきしみを立てて変化していくのがわかる。 自分の意見をはっきり表示しはじめた時、それまでいかに自分が弱い自分を守るためにものすごい鎧をつけていたかがわかる。 長いこと弱さを武器にして生きていると、自分は弱くならなければ生きられないと心の底で信じだす。自分の弱さを誇示し、従順であることを示し、それによって保護されようとする。 弱くなければ生きられないという思い込み捨てることである。弱さを誇示して他人の同情をあつめ、責任をとらないで生きていこうと長いことしてくると、それ以外には生きる方法はないように思えてくる。 人生と自分に対する思いこみを捨てること。強くなっても生きられるし、自分は強くなれるのだということである。 弱いままで生きるということは、いつも誰かにべったりと寄りかかって心理的にも生活面でも面倒をみてもらおうということであろう。そして何度も言うように、それが思うようにいかなければ相手を恨むということになる。 同情を求めて生き、期待した同情を手に入れられなければ恨む。交流分析のムリエル・ジェームスの言うごとく、恨むということは相手に罪悪感を抱けということであるから、この場合もなお受け身のままで自分を救おうということである。 最後まで、まわりの気持ちで自分の人生の苦しみをとりのぞいてもらおうということであろう。相手が罪悪感を抱いて自分への態度を変えてくれるのを待っているのである。始めから終わりまで、他人に頼った生き方である。
【「くやしさ」の真理】加藤諦三著/三笠書房 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 25, 2023 06:16:02 AM
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