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カテゴリ:心理学
本来の自分を大事にする 心理療法家 「まどか研究所」主宰 原田 広美 2回にわたり、漱石の「作画(水彩画・南宋画)」と「夢(小説『夢十夜』)を振り返ってきた。それらが漱石の神経衰弱の克服や、作家としての成立や成長に役立ったからだ。 「水彩画」は、とうとう漱石が少年時の夢をかなえて、作家になる時に役立った。だがそれに先立ち、まず漱石が試みたのは、大学の「英文学論」の講義を大好きな、「シェイクスピア」に変更することだった。 その直前の夏休みには、妻の鏡子を実家に帰らせるという荒業もした。一人きりになった漱石は、俳句や漢詩からも離れ、洋風の浪漫的な「新体詩」や、生涯に一度か二度だけだったと言う「英詩」も試みた。それらに含まれていた「冒険と浪漫性」は、やがて初期の「ユーモア小説」と並ぶ、「浪漫的な作品」に昇華されて行く。 要するに漱石は、少しわがままでもありながら、「本来の自分」を大事にする対策をとった。 そして、それに続いて始めた「水彩画」により、とうとう小説家になる夢をかなえて、神経衰弱の克服もできたのだった。 だが職業作家になった第一作目の『盧美人草』は、勧善懲悪的なストーリーに終わってしまう。それは実父に「いらない子供扱い」を受けたトラウマのある「負け組」の漱石に、一度はルサンチマン(憤り)を晴らしたいという欲求があったためだろう。 このような前近代的な作風から『三四郎』『それから』『門』以降の、近代的な作品に移行する契機となったのが、『夢十夜』だった。漱石は、それを書きながら「無意識の世界」に触れてトラウマを解放し、期せずして作家としての自分を育てることになったのだ。 その後、明治43年の「修善寺の大患」をまたぎ、明治末年(大正元年)以降に書いた『彼岸過迄』『行人』では、作風の新たな転換にチャレンジしたものの、再び、体調不良と神経衰弱に悩まされた。 その危機を救い、漱石に『こころ』を書かせる準備をさせたのが、「南宋画」への試みだった。これらは漱石が、本業とは別の右脳モードの「作画や夢」に親しむことで、人生や本業のクオリティーを向上させたという話でもあった。
【夏目漱石 夢、トラウマ―25―】公明新聞2022.6.10 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 29, 2023 05:30:46 AM
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