カテゴリ:小さい旅
谷崎とクロソウスキーの接点について考えてみたのだけれど確たる結論には至らず。
ニーチェを認識させたことよりも、ドローイングに見える作家の視線がどこにあるのかが気になって、物語の芯となる傍観者としての夫の役割が谷崎の「鍵」に似た部分かとは思えるのだが、そうとも言えない。 「鍵」はその構成の問いかけが素晴らしく、やはり小説家の大家であることは間違いないのだと再認識したが、クロソウスキーに関してはまだ蒙昧である自分しか見えない。 というよりも、何故この絵画に自分は惹かれるのか。 スーザンソンタグならどういう視線でこの絵画群を評価するのか。 エマニエルアルサンが描いた伝道師/詩人はマリオという名で、性を快楽と捉えた。 それは谷崎も同じだが、クロソウスキーにおける性とは解放と背徳ではないのか。 弓の美しいしなりを思い出しながら深呼吸してみた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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