カテゴリ:小さい旅
その魅力に惹かれるのは何故という問いに、私はまだ明確な確信を持てずにいる。
あるひとりの文章を読むまでは。 古い本だが、そのアンソロジーの膨大に脱帽しつつなにげに開いた扉に、その答えがあった。 「一章 死というものは、水だとか樹木だとかの、さりげない姿勢のどこかに、ごく美しく仕舞われているものだとぼくは思った。 ぼくはこのことを知りはじめてから、水や樹木と親しむために、ひとりで魚を釣りにでかけた。ぼくはぼくの影を終日水に写した。 死がぼくのなかに移り住み、またぼくを抜けて水に還り、再びまたぼくの内部のどこかに棲むーーその万遍ない無心の遊戯のなかで、ぼくは川底の砂礫のように濯われていった。 ぼくは樹木や水の思想のなかに、ぼく自身を送りこめるという安心を、いつのまにか抱きはじめ、生きている時間の喪失を楽しむことを覚えた。 一日振るとヤマベ竿は腕にかなりの重みを伝えてくる。とっぷり昏れるまで、ぼくはいつも河のほとりにいた。ぼくは爽やかな亡霊のように立って、橋の上の灯をあたたかく侘しく背に感じた。生命の淡い安定のように。 ぼくはもう死んでいるのかもしれない。ーーと思ったりもする。いつでも水の潺湲を背に負うて帰り、釣果何尾と日記をつけ、夢も見ず眠った。夢に見ることは、すでに何もなくなっていたからである。」 (伊藤桂一 『釣りの風景』より) 日本の名随筆 4 釣 巻頭 1982/10 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Dec 7, 2013 12:55:31 AM
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