意識と身体
だれにもあるこの私という部分どうも変なところがあるこの私という意識は死ぬとか生きるとかと言うものと何か異なる私(意識)というものが身体そのものであるなら死ぬとか生きるとか言うことになるのが身体は年を取ると言うことはよくわかるのだけどこの私(意識)という所は、年を取っているように見えない私が年を取っていると言うのは、私が年を取っていると思っているから年を取っていると感じるとでもいうかこの問題は心身一元論、心身二元論として未だに問題となっている意識と身体をローソク(身体)と炎(意識)という例えで表すと、わかりやすいローソクはどんどんと短くなっていく、これはいつかは無くなってしまうから死ぬといえるのだろうが炎はどうか、その最後の時まで、全く変わらず燃えているローソクが無くなった時、炎は無くなるのだが、それはどこに行ったのだろうか?どうもこの二つは関連性はあるのだが在り方としては別物に見えてしまう。この炎の在り方としては、スイッチのように切れる、入れるみたいな状態であり燃えている状態というものは、変わりなくあり続けるように見えてしまう。炎はどこから来て、そしてどこへ去って行くのか意識というものは、そのような不思議な在り方をしているようにみえる。意識観ているものは誰?