如意尼(真名井御前)
平安時代の尼。神呪寺の開基。『元亨釈書』によれば,もと天長帝(淳和天皇)の次妃と伝えられる。丹後国与佐郡(京都府)の人。10歳のときに都に出て,常に如意輪観音の霊場を詣でていた。弘仁13(822)年,皇太子だった淳和天皇が霊夢により頂法寺に使いを派遣し,妃として迎えいれた。日ごろから如意輪呪を持し,大弁才天の夢告を得,侍女2人と共に宮を出て,天長5(828)年に摂津の甲山(兵庫県西宮市)で修行を始めた。その後,空海を請じ寺を開いた。同8年には自ら剃髪し,具足戒を受けた。寺を神呪寺とした。同時に剃髪した侍女のひとり如一は和気真綱の娘であったという。如意尼は33歳で没したとある。淳和天皇第四后の如意尼(真名井御前)が神呪寺を創建したというのは、鎌倉時代の『元亨釈書』によりますが、『帝王編年記』には淳和天皇皇后の正子内親王の夢告によって創建されたとあります。この淳和天皇と空海の関係は非常に特別であることが以下の文章からうかがわれます。『続日本後紀』巻四の承和二年(八三五)三月二十一日に、空海(くうかい)が、紀伊国の高野山金剛峯寺で死去されました。亡くなった四日後の二十五日に、次のような淳和太上天皇の弔書が載せられています。これだけで特別な関係にあったことがうかがわれます天皇(仁明)が勅により内舎人一人を遣わし、空海の喪を弔い、喪料を施した。後太上天皇(淳和)の弔書は、次のとおりであった。空海法師は真言(しんごん)の大家で、密教(みっきょう)の宗師である。国家はその護持に頼り、動植物に至るまでその慈悲を受けてきたが、思いもよらず、死期は先だと思っていたのに、にわかに無常に侵され、救いの舟も同前の活動をとり止め、年若くして現世を去り、帰するところを失ってしまった。ああ、哀しいことである。禅関(金剛峯寺)は都から離れた僻遠の地なので、訃報の伝わるのが遅く、使者を走らせて荼毘に当たらせることができず、恨みに思う。悼み恨む思いの止むことがない。これまでの汝(空海)の修行生活を思う時の、悲しみのほどを推量されよ。今は遠方から簡単な書状により弔う。帳簿に載る正式の弟子、また親しく教えを受けた僧侶らの悲しみは、いかばかりであろう。併せて思いを伝える。その内容からもいかに特別な関係であったかがわかります。