第三章 第七節:レスターひとつ前に戻る第七節:レスター 1888年にマンチェスターを離れたフォーサイスは、1893年までの六年間に渡り、レスター市クラレンドン・パークの教会で牧師の任に付いた。 この教会について、ブラッドリーは以下のように叙述する。 この教会は基礎が据えられたばかりであった。 フォーサイスはこの教会を建て上げる責務を担い、それを見事に成し遂げた。 この教会について調査したビンフィールドは、この教会開設の経緯を記している。1886年1月に27人の会員で設立されたこの教会は、3月に自前の教会堂を持った。この教会堂は七百人を収容できる礼拝堂を有し、大通りに面していた。教会のあった場所には既に四千人を超える人口があり、この教会の将来が嘱望された。会衆派教会の多くの指導的牧師が説教奉仕に参加し、若者が多く集まった。1888年4月、この教会はフォーサイスを牧師として招聘することを満場一致で議決し、6月にはフォーサイスから受諾の返事を受ける。 当時の様子を振り返り、ジェシーは以下のように述べる。 そしてレスターに来て、まる六年をクラレンドン・パークで過ごしました。 父はここでも、文化的・政治的両側面の仕事、教会の外の仕事に精を出しました。 というのも、父の胸に秘められた熱烈な自由主義を働かせることを、 選挙演説壇が父に求めたからです。 フォーサイス追悼記事として、この当時のレスターの様子を以下のように証言する者がある。 昔々、ナーバラからレスターへ向かう列車の中で、 私は博士と一緒のボックスシートに座ったことがある。 博士は会衆派連盟の会議の帰途であり、私はその時六年生の学童であった。 この時、博士は道中ずっと私に早口で話しかけ、 レスターに付いた頃には、私はフォーサイジアンを公言するようになってしまった。 当時、大論争 が捲起こっていたレスターには、巨人たちがいた。 かつてガロゥトリー・ゲイトで牧師をしていたアランソン・ピクトンはその一人である。 彼は当時町の有力者であった。 古い禁酒会館で行われた一つの会議のことを思い出すのだが、 そこではピクトンとフォーサイスが弁士として立っていた。 フォーサイスがグラッドストンのことを実に熱を入れて弁護し、 我々聴衆は皆その勢いに飲み込まれてしまったかのようであった。 それ以来、我々は彼の行く所どこにでも付いて行った。 彼にはある人格が備わっていたのだ。 __________________________________________ 註:1884年以来、レスターでは天然痘に対する牛痘ワクチンの予防接種法(Vaccination Acts)を巡る論争が激しさを増していた。衛生状況の改善によって予防効果を得ようとする陣営に反対し、ピクトンは予防接種法支持を掲げて活動した。 __________________________________________ こうした「教会の外の仕事」は、しかし「教会の中」と繋がっていたようである。ストッダートは以下のように報告する。 レスターにおけるフォーサイス博士の牧会に関しては、多くを語る必要がない。 レスターで博士は熱心に公共的な仕事をしていたのだ。 クラレンドン・パークの教会を、博士は滑稽味をこめて「市長の巣」と呼んでいた。 というのも、この教会の役員のほとんどが、この地域の市長たちだったからである。 教会の内と外は公共的な関心において繋がっていたのである。 更に、もともとレスターでピクトンの教会に集まっていた人々が、ピクトンが国会議員となって後はフォーサイスの教会に集まった 。二十七人で始まった教会は、1893年に八十人の会員によって支えられることとなる 。七百席を持つ教会堂に比して人数は少なかったが、その中から後の会衆派教会の指導者が複数育っていった。 以上のように六年間精力的に活動を続けたフォーサイスは、その最後の頃に体調を著しく崩した。更にフォーサイスとって痛手となったのは、妻も病床に伏したことであった。 常に脆弱な健康状態で、 ひっきりなしに語り続ける父のエネルギーがどこから出てくるのか、いささか不思議なことでした。 レスターでの日々の最後の頃には、父は大変病気がちになっていたのです。 加えて、夫婦二人のうちではいつも健康に優れていた母も、 突然病床に臥し、手のつけられないほどになってしまいました。 こうして、ロンドン以来「継続」していた政治への参加は、レスターにいた最後の頃に中断する。「健康上の理由から政治参加を控えるようになった 」とストッダートが述べる通りである。 以上のようなレスターでの六年間に『クリスチャン・ワールド』の追悼文は注目し、この時期にフォーサイスの神学思想に変化が生じてきたと述べる。 マンチェスターでの三年間が過ぎ、 フォーサイス氏はレスターのクラレンドン・パークに転居した。 フォーサイス氏はここで六年を過ごした。 氏の宗教的見解における強調点の変化は、この時期に始まる。 この地で氏の妻は病に臥せり、数年の間闘病生活を送ることになった。 クラレンドン・パークの教会員はフォーサイスに心からの同情を寄せ、フォーサイスはそのことに心から感謝していた。レスターを離れた後もフォーサイスは折に触れこの教会に足を運んだという。 レスターの人々がフォーサイスに寄せた厚意は、その惜別の言葉によく表れている。以下の通りである。 旅立とうとされる先生の決心を、私達は理解しています。 しかしそれでも、この教会と先生との間の結びつきが断たれてしまうことを、 私達は深刻な気持ちで受け止めています。 私達と先生は、六年ほどの時間をかけて、本当に幸いな関係を結びあげたからです。 先生の信仰篤い熱心な伝道と高度の霊的指導、そして豊かな礼拝は、 この街とこの地方の会衆派教会に奉仕するものとなりました。 先生は有為な仕事を公共の場において熱心に展開し、 篤く温かい感謝の言葉を、お受けになりました。 それで、私達はこの別離の悲しみを嘆きつつも、最大限の熱意を以って、 新天地における先生の働きに実り豊かなれと願います。 先生を招聘した、神の摂理がそこにあることを信じつつ。 |