カテゴリ:音楽あれこれ
90年代初頭、僕がロッキングオン誌の熱烈な読者だった頃のことだ。その頃の僕は毎月ロッキングオンが発売されると本当に隅から隅まで読み込んでいた。
そんなロッキングオン誌の投稿記事で、ある有名なロックシンガーのこんな発言が引用されていたことを今でも覚えている。そのロックシンガーはあるインタビューでこのような発言をしたという。 「ロックンロールなんて世の中にとっては本当に小さなものでしかない。なぜならラジオのスイッチを切ってしまったら儚く消えてしまうものなのだからね。」 その言葉はある種の警句のように心の中に刺さり続けている。 中学二年生のときに初めてビートルズを聴いたとき、世界がひっくり返ってしまうような衝撃を受けた。その衝撃を思い出すと世界はいとも簡単に変えられてしまうような錯覚を覚えてしまう。 あるいはロックフェスの空気の中にいると世界を本当に変えられるのではないか。そんな錯覚を感じてしまう。 だけどロックあるいは音楽は、ラジオのスイッチが切られてしまうと跡形もなく消えてしまうそんな儚いものでしかない。 ツイスト&シャウトの強烈なマジックも約3分の時間が流れて曲が終わってしまうとその魔法はどこかへ消えてしまう。 僕はロックが好きだからラジオのスイッチを永遠に切らない、切りたくないと思う。でもロックが騒音にしか思えないあの人は、もしかしたらツイスト&シャウトの歌いだしを聞いた途端にラジオのスイッチを切ってしまうかもしれない。そのときロックは無力だ。ロックに興味がない人にとってツイスト&シャウトの魔法は届きもしないし、基本的にそれほど重要なものでもない。 ロックや音楽は世の中にとって小さなことでしかない。大半の世の中の人々にとって、ロックや音楽は例えば株価の動きや為替相場に比べると本当にどうでもいいくらい小さなことだ。それは変えることができないような事実でもある。 2023年に僕にとってはある衝撃的なニュースがあった。イスラエルの音楽フェスティバルの会場に武装したハマスの軍隊が乱入し、襲撃をかけたという事件だ。 その襲撃により会場で音楽を楽しんでいた人々が約200人以上殺害されたという。その襲撃の間、性暴力や残忍な行為もあったらしいし、捕虜として囚われた人もいるという。 ネットでは数時間前にダンスをして楽しんでいた女性が、無残な姿に変わり果ててしまった衝撃的な映像が流れた。 僕自身フジロックに十数回参加したことがある人間だし、フェスティバルのあの高揚した幸せな空気がよくわかる。そんな最中に武装した集団に銃撃を受けたらどんな感じだろうか。それを考えると胸が痛むし、他人事ではないと思う。本当に痛ましい事件で、心が痛む。 だけど、その反面に思い浮かんだのは先の有名なロックシンガーが言ったというあの警句だった。 「ロックンロールなんて世の中にとっては本当に小さなものでしかない。なぜならラジオのスイッチを切ってしまったら儚く消えてしまうものなのだからね。」 フェスティバルで感じられる高揚感に満ちたあの幸せな空気。そしてそれとともにもしかしたら世界がここから変わるかもしれないとすら思えてしまうあの感覚。そのようなものは武装集団の銃声一発で消えてしまうものなのだ。あの事件はそれをまざまざと明らかにしてしまった。 フジロックのクロマニヨンズのステージで僕らと一緒に盛り上がっていたあの白人男性。アジアンダブファンデーションでダンスしている僕ら。そんな姿をみて感じていると、音楽やロックは人種や国境など全く関係がなく、世界は一つなのだとすら思えてしまう。 だけどハマスの武装集団にとってそこで流れている音楽など、本当にどうでもいいことだったに違いない。パレスチナとイスラエル。まさに国境と人種の違いと政治状況がこの悲劇を生み出してしまった。そのとき本当に音楽など無力だ。 音楽を楽しむ非武装の市民たちを襲ったハマスはけしからん存在だ。早く潰してしまえばいい。 そのようなことを単純に言うことができないのは、イスラエルやパレスチナ難民について高校の地理で少しだけ教わったことがある程度の僕にも理解ができる。ハマスの方に一部の理があるし、イスラエルにも一分の理がある。ショッカーと仮面ライダーの世界のようにあっちが正義でこっちが悪と簡単に割り切れるものではない。あえて言うとすればどちらもそれぞれの立場からすると「正義」だ。 この悲劇的な襲撃事件のあと、イスラエルとハマスの戦争が始まった。この戦争で双方とも多大な犠牲者が出続けているという。 ロックは、世界は一つで人々は幸せに生きていいと言ったりする。音楽が争いを鎮め、双方の和解を助けるというドラマを何度か見たことがある気がする。 だけどイスラエルとハマスの戦争はまさに人種と政治と国境をめぐる非常に複雑な問題だ。そしてそこから生まれてしまった争いごとや多くの犠牲者や悲劇の数々。 それを前にしてロックや音楽は黙り込むことしかできない。 もしそれを解決したいのならば、それはロックや音楽とは無関係に、冷徹かつ適切な政治的解決を待つしかない。 当たり前のことだけれども、やはりロックや音楽は世の中にとって小さなことでしかない。それが事実なのだ。 そしてロックや音楽、あるいは音楽フェスティバルが成り立つのは平和で豊かな社会の中でだからこそだ。今回の事件はそのことを如実に明らかにした。僕らあるいは僕は平和で治安のいい日本という場所で生まれた。日本では平和や治安の良さがまるで空気のように当たり前に存在している。そのような恵まれた場所で生活してきた。 そうしたことはとても幸運なことであって、もしかしたら日本も豊かな社会ではなくなってしまうかもしれない。平和も当たり前のように享受できなくなるかもしれない。 そのときロックはそれに抵抗し続けるのだろうか。あるいは沈黙を余儀なくされるのだろうか。 例えばフジロックフェスティバルは理想を掲げてそのフェスティバルを始めた。国際人権団体や反原発のNGOビレッジがあって、そこに行けば自由にそうした活動をしている人たちと会話ができた。またリサイクルにも積極的に取り組んできた。 そうした理想のもと、よく言われたのは、フジロックのそうした理想を日常に帰ってからも実践してみましょうという小さな生活革命だ。 ある個人が社会での振舞い方を変えると、それが周りの人々に影響を与え、小さな変化が次第に波のように広がっていって世の中を良い方へ変えていく。 ロックや音楽はそれを真剣に聴いている人の意識を確かに変えてしまうかもしれない。しかし世の中の大半の人々にとって、音楽は単にムードを盛り上げるためのツールでしかないかもしれない。単なる娯楽でしかないのかもしれない。 そうした人たちにとって「生活革命」は文字通り馬の耳に念仏だろうし、逆に「気持ち悪い」という反応しかかえってこないかもしれない。 僕はもう一度、音楽はラジオを切ってしまえば消えてしまうものだという事実を噛みしめなければならないのだろう。 あの虐殺事件で僕が感じたやり場のない嫌な感じの正体。それは銃声の音に敗北してしまった音楽への哀悼の念と、音楽では何も変えられないという「理想の死」に対する敗北感だった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.02.08 20:45:11
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