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悠々翁の真面目な放談

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2011.07.20
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カテゴリ:時事評論
九州王朝説や継体王朝説を考える。
天皇制をめぐって、一元史観か多元史観か。
宮内庁が天皇陵の学術調査解禁を拒否する本当の理由は?

●一つの論文がある。「世界遺産の登録前になすべきこと」「閉鎖的な管理をやめて、古墳時代の天皇陵を公開・活用せよ」(中央公論7月号)
この高木博志京大準教授の論文は角度を変えて読むと、非常に重要な問題提起をしている。
高木の問題領域の設定が面白い。
「百舌鳥・古市古墳群の世界遺産推薦リストをめぐって、なぜ文化庁は宮内庁に屈服したのか?なぜ天皇陵を史跡にしないまま、(宮内庁管轄の)聖域として、世界遺産に登録するのか?世界遺産・文化財の公開性、民主的管理運営に反し、なぜ閉鎖的な遺産・遺跡管理の方法を容認するのか?
しかも文化庁や関係自治体の委員は戦後教育と考古学の発展の中で育ってきた人々である。こうした研究者たちが5世紀以前の大王墓を天皇家の先祖の墓としてのみとらえ、宮内庁の閉じた管理方針を追認する、なぜか?
ここを見据えた今日の陵墓問題を検討する必要がある。」
●高木博志が拘っている点は、8世紀初頭古事記・日本書紀が成立した時点で、5世紀以前の大王墓は律令制以降の天皇家の先祖の墓と位置付けた“作為”があると考え、しかもこの作為論は、森浩一以来の戦後考古学の到達点だとしている点である。
この説に立つと、戦後考古学の知見に従えば、5世紀以前の天皇陵(=大王墓)は必ずしも「天皇家の先祖の墓」ではないということになる。
では誰の墓か?
高木の意見は531年に亡くなった<継体天皇>がキーパーソンになる。
これは継体王朝説である。
継体天皇は東国である近江や越前を出自の基盤として、大和の王権に入り、王権の画期となった。これが戦後古代史の見方だという(▲別の見方もある)
継体大王は自らを応神天皇の5世のちの末裔であると主張し、大和王権の手白香皇女と結婚し、大王位を継承した。
高木意見では、継体王朝前後の王位継承の仕方には大きな変化があるという。
「継体天皇を前後して、当時の王位継承には特定の家が成立していない。従って、大王位は器であった。軍事的政治的な要素が重視され、さまざまな集団や地域の王権から大王になる人物が輩出していた。7世紀後半の天武天皇以降、成立してくる律令制の時代、天皇号の定着、特定の家である天皇家が男系に王位を継承するという血の原理と5世紀以前の王統では全く王権の継承の原理が違う。応神天皇陵や仁徳天皇陵は「紀記」の言う仁徳天皇や応神天皇が埋葬されているかどうかも怪しい」
その意味では被埋葬者が現在の天皇家の祖先としてのみ位置づけられるかどうか厳密に検討すべきである。
「継体朝以前の古墳群、3世紀の箸墓古墳(桜井市)を擁するオオヤマト古墳群、4世紀の佐紀山古墳群(奈良市)、5世紀の百舌鳥・古市古墳群。これらの先行する古墳群の中から巨大古墳を選び出し、リスト化して、天皇家の墓として万世一系の一本の血統で描き出す。6世紀以降の継体大王、舒明大王から始まり、8世紀初頭の記紀の皇統神話創作に至る継体朝以降の勝ち組となった大王・天皇とその一族の歴史観が生まれた。記紀神話における天皇家の祖先に具体的に個々の天皇陵を当てはめ、初代の神武天皇から律令期の天皇までの陵を決定したのは7世紀後半から10世紀の延喜式の時代に至る作業であった」
一言でいえば、高木博志の説は5世紀以前日本には大和王朝とは違う別の王朝の時代があったのではないか?これは「大和王朝」であって、現在の天皇家に連なる一族の家ではない。そして継体大王が現在の天皇家に連なる血の原理で継承される、特定の家に帰属させた今日に連なる大和王朝を創りだした。
●賛否は別にして、高木説の意味は宮内庁が天皇陵の学術調査解禁を拒否する本当の理由は、古代史の科学的探求が天皇家の「万世一系」の「一本の血統」で描かれている歴史と神話に亀裂が入り、古代史の真実の姿が露わになり、結果として天皇制の核心が揺らぐ事を恐れているのではないか?
「万世一系の天皇制」の神話と歴史を維持するためにこそ「天皇陵の学術調査解禁を拒否」という転倒が起きているとの厳しい批判である。
ここに天皇陵の学術拒否を貫く頑なな姿勢の理由があるとすると、高木意見は極めて政治的かつイデオロギー的な批判である。そればかりではなく、反天皇制の運動と政治批判の現状が極めて政治的偏向に陥っていることに警鐘を鳴らしているように見える
狭い範囲とはいえ、天皇制批判を繰り返してきた勢力が天皇陵発掘を批判しているとしても、その持つ思想的意義を明示したことはないと思う。こうした天皇陵の発掘問題の領域は文化領域に追いやられ、政治問題としては理解してこなかったのではないか?
私自身は、反省を込めて、こう理解した。
周知のように平成天皇は、日韓共催のサッカー・ワールドカップの開催時点で「桓武天皇の后は朝鮮・百済王室、武寧王のゆかりの方だ」と言明しており、現在の天皇家には朝鮮王朝の血が流れていることを明らかにしている。古代史を闇の中に閉じ込めておくことはもはや出来ない。宮内庁の政策はいずれ破たんする。とはいえ、この領域に左翼サイドからする批判の根拠を打ち立てなければならないと思う。
●なお、最後に一言。「戦後古代史の見方(▲別の見方もある)」と記したが、ここまで論議が進むと、九州王朝説についてもコメントしておく必要がある。
私自身に独自の見解があるわけではないので、「磐井の乱とは何か」―九州王朝多元説を追う(同時代社発行)から引用しておく。(以下私の主観的な要約)
日本列島の中心権力は近畿大和地方にあった政治権力、天皇家を中心とした政治権力が唯一の中心権力であった、こうした歴史観であり<一元史観>という。
天皇家を中心とした大和の政治権力が確立するに至る間、わが国の歴史は多元的な王朝が権力の栄枯盛衰の中で展開され、最終的には統合されていく。こうした歴史観を<多元史観>という。
樹立された大和朝廷がそれ以前の王朝の歴史を、記紀神話の中で、全面的につくり変えて天皇家の歴史とし、「万世一系の天皇」の神話を創りだした。
こうした「発想の転換」は古田武彦の「邪馬台国はなかった」「失われた九州王朝」で提起され、学会主流からは無視され続けているが、この異端の説はかなりの人々に流布されて一時古代史ブームを生み出した。ブームが去ったとしても事態は変わらない。
引用した「磐井の反乱」について言えば、通説では大和朝廷に対する九州の豪族が反乱を起こした事件を磐井の反乱という。古田説では、磐井は九州王朝(倭国)の王であって、それに対して臣下であったはずの大和朝廷の継体大王が反乱を起こしたということになる。<歴史が逆転>する。
この文脈の中で、現在では、古田史観の九州王朝一元化論に批判が出され、九州王朝自身も多元的史観で歴史を見直すことで、文献学的にも、考古学的にも歴史的現実に沿った「歴史」が復権し、再現するという点にまで「論議」は進んでいるという。
これ以上は内容に立ち入らないが、古代史をどう理解するのかという点が、日本では現在の天皇制の根幹を揺さぶる意義を持つことを理解し、今後の論議に関与する必要がある。





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Last updated  2011.07.20 10:46:27
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mdhwhx@gmail.com   バーバリー バッグ さん
はじめまして。突然のコメント。失礼しました。
バーバリー バッグ http://burberry.himegimi.jp/ (2013.01.17 16:56:55)

ckrjlzlot@gmail.com   ヴィトン 通販 さん
今日は~^^またブログ覗かせていただきました。よろしくお願いします。 ヴィトン 通販 http://www.louisvuittons.info/ (2013.07.01 15:10:15)


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