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おおたたねこ@ Re:河内王朝・たじひ野(01/07) おおたたねこと、土師の繋がり、ありがと…
乗らない騎手@ ちょっとは木馬隠せw あのー、三 角 木 馬が家にあるってどん…
ボーボー侍@ 脇コキって言うねんな(爆笑) 前に言うてた奥さんな、オレのズボン脱が…
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2008.01.07
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たじひ野

古事記下巻 冒頭にある記述

 大雀命難波の高津宮に座しまして天下治しめしき。

此の天皇、葛城の曽都毘古の女、石之日賣命に娶ひまして生みませる御子

大江之伊邪本和気命、次に墨江之中津王、次に蝮之水歯別命、次に男浅津間若子宿禰命。・・・云々・・

当時、生駒山の奈良側の山麓に豪族 葛城のテリトリーがあって、河内の大部分が未だ湿地帯であり、水稲による米作があったとしても小規模だっただろうと思います。

歴史の、先生の意見では、応神天皇が北九州、あるいは宮崎県辺りに起こり、その子・仁徳が河内に来て、仁徳の河内と葛城の大和・奈良が婚姻によって合流し、その事により・大和の古豪族を配下に治め、河内王朝が成立したのではないか? と。、

神武の東征は仁徳の一連の行動を示唆しているのでは?

と言う説もるが、僕自身は、神武が実在していた事も併せて考え続けています。

また 神武が初代の天皇であって、一方、祟神天皇も初代と言うことになっている。

歴史は複雑で難解で諸説あって・・・・、

おそらく今後もその事は未解決のまま、新しい歴史が どんどん生まれるでしょう。

次に生まれる歴史は日本人による歴史とは限らない。日本人そのものが変わるだろう。

日本の民族の 諸々の条件・学力や道徳の常識、国の意識、・・・が

戦後の大人達の無責任な怠惰、自己本位な事なかれ主義、教育の現場の荒廃、

学歴、年齢尊重によって為されてきた種々の判断が、このまま続くならば

 現在、歴史の判断は各人それぞれ、いろんな見解があったとしても、

古事記が江戸時代に見直される様になって、明治維新後の長州中心の富国強兵策、

日露戦、・・・対中国戦・・第二次世界大戦・・・そして無条件降伏・・米国の上陸・進駐

その結果・皇国としての軍閥・官庁主導の帝国主義が事実上解体された。

1946年1月1日に昭和天皇の人間宣言があり、天皇家が神の子と言う事を暗に否定されてから、

天皇のルーツを遡って考え、その事が間接的に国民が民族の歴史に興味を持ち、調べ、学ぶ事が許されている。

調べる とは 言っても 素人の僕等は学者の説を聞き、本を読む行為にしか

ならないが・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

仁徳の三番目の皇子は 反正天皇となっている。

反正天皇 名は 蝮瑞歯別命( たじひ の みずは わけ の みこと

つまり、たじひ=蝮の様に素早く強く 瑞々しく綺麗な歯をした 皇子だったと言う。

この天皇の時代前後は、日本以外の第三者、外国の文献に記録が残っているから、実在した天皇となっていて

所謂、倭の五王と記載された王 

讃・ 珍・ 済・ 興・ 武 が それそれ

仁徳・反正・允恭・安康・雄略 であろう と言うのが一般的な説であって、

堺市北部 百舌古墳群に集中しています。

なかでも 僕自身が好きな場所は 反正陵付近の静かな場所。

南海電鉄 高野線 堺東駅 東改札口を出ると すぐ その静かな場所がある。

堺東駅の西側は 百貨店や銀行を中心とした近代的なビル街で、東側とは正反対、その差は まさに 現代と仁徳や反正の時代差を感じさせる。

touri.jpg

syoumenn.jpg

tatehuda.jpg 

 この反正天皇 タジヒ の ミズ ハ ワケの ミコト

が 父 仁徳天皇から与えられた 部 職能集団の管理権と物納税対象の土地は、

タジヒ野 と なっているが、タジヒ=蝮=丹比と変化して 羽曳野市 西部 郡戸(こうず)と言う地名の付近にある小学校、図書館に僅かに残っています。

又 当時・丹比野は 羽曳野市に隣接する堺市の東部にまで広がっていたらしい。

現在の堺市 美原町の北 多治井(たじい)は 水源があった名残かもしれません。

反正テリトリ.jpg 

また、仁徳の河内王朝が成り立つ以前 縄文後期から弥生時代には

三輪王朝の先住民が すでに居て、三輪神社などの話に出てくる

オオタタネコ や 土師の集団があったらしい。近くに土師の里の地名があります。

 

もっとも、その頃は 茅沼県 水草の茅(チガヤ)が生い茂る沼地で

あって チヌノアガタと呼ばれていて、オオタタネコは神話では女性ですが

ひょっと すれば 茅沼県の須恵邑(土師師・土器の製作集団の集落)の集団の事を示唆しているのかも 知れません。

堺市を南へ走る南海高野線 その北野田駅 東に菅生神社(すごう・神社)があります

神社名から 菅原道真を祀る事を想像するのは当然ですが 道真以前は 農耕の神 雷神であって、近辺には中臣の傘下の渡来人集団が住んでいたらしい。

中臣氏から 藤原鎌足が出て、それ以降は鎌足の祖先と言われる天児屋根命、出世した鎌足を認める皇族が 天照を合祀するように変化していったと言います。

その後・平安時代には道真が大宰府に流され、天変地変が続き やがて道真を雷神として祀る様になるのですが、時代と共に 為政者の力の象徴が神となって祀られるのは 当然過ぎる程 判りやすい結果でしょう。

神が人間を作るのではなく、人間が神を創るのでしょう。

ですから 神社は 歴史を探る上で 大切な鍵となっています。

歴史は学問ですが、素人の僕にとっては ロマンに満ちた ストーリー、ミステリーの一種であって、まったく個人的な幻想ですので、本格的に研究されている方の ご批判などは勿論無く 無視されて、全く相手にされないでしょう し

若い方は プロの先生方の説を当然・優先されるべきでしょうが、僕の様な歴史に趣味があって、一緒に意見を交換しあおうと 言う人は コメント下さい。

ま 日記の様な 感じたまま の 記録 ブログ ですから・・・気軽に書き込み

お願いします。

 






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Last updated  2008.01.07 08:05:02
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