依羅( よさみ )
依羅 ( よさみ )と言う土地、場所は、現在の大阪市南部に地名として残っています。
もともと、堺市の北部、JR百舌(モズ)駅の西に、面積世界最大の伝仁徳天皇陵がありますが、この陵、
ミササギは、天皇及び、豪族の関係者のお墓の事です。
仁徳天皇のお墓かどうかは、決定している訳でなく、昔から、そう言われていると言う事で、伝・仁徳天皇陵と正確には伝の文字、言葉をそえます。
仁徳天皇の詳しい物証は発見されていません。
お墓、陵の発掘が許可されていないからです。
この、伝仁徳天皇は、歴史の言い伝え、「古事記」等、古い本に載っているらしく、各、神社や、国会図書館、大学の図書室等に、元の本が大切に保管されています。
一般の人、僕の様な人間には、色んな手続きが必要で、まず、直接見る機会は無いのですが、
それでも、そんな本の複製、解説書は、一般の本屋さんで売っています。
もっと、値段の安いものは、古本屋さんで、見つける事ができます。
そんな、資料しか僕の手元にはありませんが、それ等をまとめて書いている訳で、僕の説、僕の独特な研究の発表ではありません。
おおよそ、高校生、大学生の方が詳しい人は、世の中に沢山います。
年が上だから、とか 学歴・年齢等、にも一切、関係なく、若い人も
、現在、先生と呼ばれている人に、すぐに追いつき、追い越すでしょう。
日本人は 日本人 韓国とは 関係 無い !そう 言う 人も居ます。そういった人の為に
「日本原人が居た」 と言う話もついでに、載せておきます。
僕の手元にある新人物往来社出版の歴史読本、昭和六〇年新春号の巻末に、
歴史ニュースのコーナーがあり、各地の新聞のニュースを転載していますが、その中に、「読売新聞」の記事として、宮城県教育委員会が発表した記事ですが、昭和五十八年九月に発見された石器類を調べた結果、十四万年~三十七万年前のものと判ったとあります。
今まで、日本の人類の紀元が十万年前、つまり、渡来人が地続きの北海道へ来た時代を想定していましたが、
十四万年~三十七万年だとすると、北京原人と同時代という事になります。
つまり、日本にも、原人が居た。と言う記事が載っています。
場所は、仙台の北北東、石巻の西あたり、中峰遺跡です。
読売新聞の記事になったのは、昭和五十九年十一月二十日です。
この事実について、調べたところ、宮城県と奈良県ぐらいしか、認められておらず、国として、文部科学省としては、認知されていません。
歴史に限らず、何事も、事実は、現実に負けるのです。
多数決が正しいとは、必ずしも限りませんが、
現在では、北の渡来人が日本の縄文人の大部分を占めていただろうと言う事になっています。ですから、信念は大切ですが、今のところ、信念だけで、事実である確証にまで至っていません。
注:その後 上記の発見 日本原人らしき人骨等の遺物の発見は、捏造で、まったく
の嘘で在った事が、当事者によって自白されました。
この事件が 藤村事件です。
北海道のアイヌの人々、
それ以前の 「蕗の下人」 (コロボックルの人々)の伝説も、辿れば面白いでしょう。
歴史として、認定されなくても、ロマンとして、充分、楽しい勉強になると思います。
つまり、日本原人が居たとしても、多くは、血液型O型の、蒙古(モンゴル)人の一部が、北から、血液型A型
の中国、朝鮮半島の人々、B型、AB型人々は中国南部、南洋諸島から北上して、南部、及び、太平洋沿岸
に渡来して来たのが大部分だと思います。
この、依羅(ヨサミ)と呼ばれた人たちは、部族で言えば、古代名族の物部(モノノベ)氏の一部です。
物部氏と同じ頃、大伴、平群、葛城、息長、蘇我、凡河内氏等、現在の近畿地方にあたる地域に多くの部族が、ある時は争い、又、ある時は和解し、連合し、同盟しあっていましたが、これ等の人々の多くは、歴史的には、弥生人で、皇族の一部に組み込まれたりしています。
しかし、本当のところ、部族のもっと、先祖は、縄文人の部族と血縁があっても、当然だと思います。
先に述べた、阿蘇(岩木山)辺りの、阿蘇辺(アソベ)族が、安倍、安部、阿部となったのはごく、自然の成り行きだと考えます。
依羅の一族が住んでいた頃、下部の民族、枝葉的な親族かも知れませんが、我孫子族も住んでいました。
我孫子(アビコ)とは、網の引き手、引き子で、網にかかった魚を引き上げる仕事をしていた人々でしょう。
我孫子の地名は、JR阪和線、我孫子駅周辺に残っています。
時代は、古く、仁徳天皇の時代、おそらく、その父、応神天皇の頃からと、思われます。
ルーツは、我孫子観音、依羅神社の寺社に残っていて、もっと、古い時代からとなっていますが、全盛期は仁徳天皇の時代以降、継体天皇の頃でしょう。
( 継体天皇 以前の話は 別として)
依羅池は、涸れてしまい、今はありません。理由は、大和川の付け替え工事にあります。
昔、中、南部の河内は、奈良県の長谷(ナガタニ)を流れる初瀬川、生駒近辺の、生駒川、竜田川、それに、南部から北へ流れている石川が主な川で、支流は無数にありました。
石川が、初瀬川、竜田川と合流し、北西に流れ、現在の放出(ハナテン)付近を流れ、大阪城辺りにあった川口にそそぎ、同じ場所に、淀川が流れていた為、氾濫し、洪水があり、困っていましたが、
江戸時代初期、約三〇〇年前、八ヶ月の短期間で工事が施工されたといいます。
工事を成し遂げた人は、中河内の庄屋、中甚兵衛と言う人らしい。
その為、洪水は無くなり、綿産業が盛んになったのですが、依羅池の水は、大和川に流れ込んで、干上がり、
明治以降、一度は、ポンプで復活させようとしたのですが、無くなりました。
最後の池の一部は、二十年前、昭和五十六年ごろまで、残っていたと言います。
干上がった部分、堺の三宝 等は、三人の人が私財を投げ出して、開拓し、地名として残っています。
それから、
新しい土地が出来ると、利権を巡って土地争いが起きたりしました。
大阪の河川は、工事をした人の名がつけられていますが、中甚兵衛の名は忘れられています。
木津川の木津勘助の銅像は、地下鉄大黒町近くの大国神社にあります。
道頓堀を造った、安居道頓の碑も、道頓堀の東に残っていますが、
繁華街を歩く若い人には、気付かれず、寂しそうですが、
思い出したら、近くに行った時、地方の友達が來阪した時など案内してあげたら
大阪の、印象、記念になると思います。
依羅一族の神社、大依羅神社は、継体天皇が即位する以前、紀元二〇〇年頃に出来たと言われて
います。
写真の拝殿前を南へ通り抜けると、大和川の右岸北側の堤防に出ますが、途中、川に向かって右、西側に、写真の依羅(網)池の址の碑があります。
この、ちょっと、気付かない場所が歴史に名高い物部の根拠地でした。
この碑の前の通路は、幅約二メートルで、碑の向かい側は、城南高校のテニスコートです。
しかし、一説では、神宮皇后(ジングウコウゴウ、応神天皇の母、仁徳天皇のお婆さん)が、朝鮮南東部の新羅(シラギ、本当はシルラが正しい)に出兵(侵略かも知れません。)した時、無事を祈って、依羅吾彦男垂見(ヨサミノアビコオタルミ)と言う人が先祖を祭ったのが始まりと言うことです。
依羅吾彦男垂見の祖先は第九代、開化天皇(カイカテンノウ)の四番目の皇子、崇神天皇(スジンテンノウ)の弟で、建豊波豆羅和気王(タケトヨハズラワケノキミ)と言う人の御霊をお祭りしたのが最初とか。
依羅も吾彦も、同じ祖先から出ています。
吾彦の名から、我孫子と転字して、地名として残っていますが、我孫子観音は厄除けで有名なお寺です。