カテゴリ:エッセイ
お盆休みの中で2冊の本に出会った。
吉本ばななの「アムリタ(上)」。これはブックオフで買って読みきった。 そして、藤原新也の「名前のない花」。これは家族で本屋に行った時に買って、現在半分 くらい読んだかな。。 「アムリタ」と「名前のない花」は、方や小説、方やエッセイ、 しかも小説家と写真家、というまったく関係のないような組み合わせなのだけれど、 その二つの本には共通点がある。 そして、その本をまるで生まれたばかりの海がめが何も知らなくても砂浜から 海を目指すように、何かに惹きつけられるようにしてその本が僕の手元にはあった。 そのどちらの本にも人が人生の中で感じる魂の記憶と、生と死の同居、そして、 目に見えないもの、言葉にならないものの大切さ、について書かれている。 アムリタの中にこんな一節がある。 いとしいものの寝顔はみんな同じに見える。とおくて、さみしい感じがする。 眠れる森の美女のような影を落として、私のいない世界をさ迷っている。 そしてもう一節。 何かしてやりたい どうして人は人に対してそう思うのだろう。何もしてやれないのに。 海が海であるだけで、よせてはかえし、時には荒れ、ただそこに息づいているだけで人に さまざまな感情を喚起させつみたいに、ただそこにいるだけの人として生きていきたい。 がっかりさせたり、恐れさせたり、慰めたり。 でも、もっと何かしたい。そう思うことを止めることができない。 名前のない花にはこんな一節。 K子の花が不意に私の視線を捉えたのは、その時のことである。 (中略)静けさのなかで、まるでそこに何かの意識を持った生き物が呼吸しているように 「花」は、私をじっと視つめていた。 そのような過去の出来事にまつわる色というものが、人間の記憶の古層には化石のように 眠っており、ある時、何かの折りに不意に目を覚ますということもあるのかもしれないな、と。そして、私はそういうものに向かって無意識にシャッターを押しているのかもしれ ない、と。 「名前のない花」はまだ途中であるけれど、これを読みながら、いろんな思いが交錯し、 自分の中から湧き上がってきているような気がする。 二つの本は、目の前にある空間から、恐ろしいほど多くの何かを感じ取り、そしてその 中から「生きていく」ことの意味を紡ぎ出している、嫌、「生きる」こと自体の切なさ や、空しさにこそ、大切な何かが溢れるほどに含まれていることに気づかさせてくれて いるような、そんな気がする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Aug 17, 2007 06:14:56 AM
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