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カテゴリ:CINEMA関連
昨日の日記に書いた映画『69sixty nine』。映画の公開に合わせて書店で山積みになっていた村上龍の原作を読んでみた。『コインロッカーベイビーズ』以上の傑作はないだろうと思っていた村上龍。久しぶりに読む。(この日記に本の感想を書くのは初めてかもしれないなー)
うむ。当然、設定は変わらないと思っていたが、エピソードも台詞も殆ど小説からの抜粋なんだね。クドカンらしさってのが、イマイチ映画に滲み出てきてないのは、あまりに原作を尊重しすぎたせいなのか。 しかし昨日の日記で、映画については否定的なコメントを書いたが、原作の空気感は悪くない。 (昨日の日記から) 「青春とはロックとエロスとハッタリである」 『69 sixty nine』はまさに高度成長を向かえ、アメリカナイズとも思える民主主義に酔いしれ、日本人が自由という多様性を獲得した若者達の物語。 「ビートルズ」「ローリング・ストーンズ」「ランボー」「ゴダール」「ヒッピー」「ラブ&ピース」「平凡パンチ」「11PM」・・・ 三種の神器がもてはやされた高度成長を迎え「物欲思想」がイデオロギーになってしまったようにも思える日本は、「多様性」という抑圧された社会から見れば「スバラシキ言葉」を履き違えてしまったのかもしれない。 …と書いた。主人公の矢崎は確かに妻夫木君が演じるようにハッタリ野郎なんだが、能動的なハッタリ野郎。ピュアで繊細で大胆な、青春を背負ったごときハッタリ野郎なんだ。自分の学生時代には得ることができなかったものを持った矢崎は、うらやましくもある。 矢崎が勝ち取ったものは「文化」なのだ。軍国主義的閉塞感、もしくは敗戦意識の開放のための「文化」なのだ。 そう思われる部分が映画では欠落していたのでしょう。高度成長期のオキラク青春映画が成立するには、マジな部分との対比が何らかの形で必要だったのでは?それは安藤君演じたアダマの存在なんだろう。小説におけるアダマは、その点の意識がおぼろげながら見えていると思う。 「ニワトリで?世界の混沌ば表現する」 フェスティバル開催のために、パーティ会場にニワトリを放置することを思いつく矢崎たち。 『アダマは忠実だ。僕に忠実なのではない。アダマは信じている。僕を信じているのではない。アダマは、1960年代の終わりに充ちていたある何かを信じていて、その何かに忠実だったのである。その何かを説明するのは難しい。』(本より抜粋) 矢崎たちが養鶏場から手に入れたニワトリは、ブロイラー(戦後の日本教育とも読める)に馴染めず病気になり隔離されたニワトリ達。 矢崎たちの持つ飼料袋からは、ガサガサと音がした。 『「フェスティバルが終わったら、肉屋に売ったりせんで、どっか山に放してやろう」 アダマは飼料袋に目をやったまま、そう言った。』 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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