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明日のポタライブ 手の児のためのパンフレット制作。
今回のポタは、なんというか、軽くて解りやすくて可愛いものを目指したんだけど、意外にしっかりと作りこんでしまった。面白くなるでしょう。おいでませ。あ、榊原さんも友情出演するよ。 *** 小川洋子さんの小説で有名になった、最近のことしか記憶できない病気は、 過去の記憶の積み重ねこそが人間だ、という考えへの反例として、人を挑発する。 話が通じる相手が、人間である、と信じている人は意外に多い。 そして、話が通じないことでもって、ある種の精神病を規定する。 あるいは、話が通じない人を前に、「人間じゃない」と絶望する。 ボケた両親に戸惑う。あの人がどうしてこんな風に。 尊敬していた人が、不道徳なことをしたのを、悩む。 昔の恋人がストーカーになり絶望する。 もっと素朴に「言ってることが、前と違う!」などと言って怒る。 人物が継続していないことに、人は不安になるようで、つまり、 人間の変わらない部分をもって、人間は安心しているようだ。 さて、ここで、 「人間が変わらないと思うのが間違いだ」などと、野狐禅を説いても始まらぬ。 また、普遍的な人間の継続性を考えても、それに当てはまらぬ人を前に、がっかりするのが、関の山だ。 この問題に安易な処方はない。 安易になることが許されないのは、 何を持って、自分という継続性が存在しているのか、という思いが、 何が人らしいか、という感覚の基になっているからだ。 多くの民族名が、単に「人」を意味する。 私達は、私達と同じものを人間とみなし、つまり、違うものを人間とみなさない傾向がある。そして、違うものと諍う。人間でないものを殺してはいけない、という法はないのだから。 あるいは、「芸能人○○を知らないなんて」「偉人○○を知らないなんて」と言って、反射的に差別感情を抱く。 以上は、演劇の形式化2004―4のための(つまり、以下の文のための)間奏であるが、 それと切り離して、今、考える必要のあることだと思う。 差別は良くない。しかし、差別をしない人はいない。だから、差別者を問答無用で差別するのは、もっと良くない。差別について、考えつづけることは、人間に課せられた宿題なのであって、よく考えてみる必要がある、と、言えるだけだ。 同じことを言い換える。 変心は良くない。しかし、変わらない人間はいない。だから、変化を問答無用で責めるのは、もっと良くない。人の変化について、考えつづけることは、人間に課せられた宿題なのであって、よく考えてみる必要がある、と、言えるだけだ 同じことを言い換える。 話にならないのは、よくない。しかし、話せばなんでも通じる人間はいない。だから、話していないことを問答無用で悪とするのは、もっと話にならない。コミュニケーションについて、考えつづけることは、人間に課せられた宿題なのであって、よく考えてみる必要がある、と、言えるだけだ。 *** 人の継続性を共有する集団-2(集団の外部―4-2) (演劇の形式化 2004―4-4-2 6月18日の日記の続き) 人物が継続するものとみなし、人物の中で、同一性を保つ部分を人zとみなす人間達によって構成されている集団を、仮に今、集団Oと呼び、その集団の性質を検討する。 まず、人zを持っているからといって、集団Oに所属しているとはいえない。例えば、人間の継続性を、前世の魂によってのみ定義する集団を考えてみよう。この集団では、生まれて初めて殺した生き物が、その人物の前世であると考えられているとする。あなたは、もし、殺した動物による同一性を認めないにしても、あなたが、最初に殺した動物はいるだろう。つまり人zを持ってはいる(前世の魂を定義できる)が、集団Oに所属していない(魂を人zとみなさない)ことはありえる。 また、集団Oに所属する人間は、必ずしも、人zを所有していなくても良い。例えば、人間の継続性を、父親の苗字と、その何番目の子供かによってのみ定義する集団をイメージして欲しい。この集団の中に、父親がどうしてもわからない人間も入ることは可能である。その人間、仮にチチナシと名づける、は、同一性を保つ部分を持たないのであるから、同一性を持ち得ない。にもかかわらず、チチナシが、人物の継続する部分は、父親との関係のみであると思うことは可能である。つまり集団Oに所属している、(父の何番目の子かが人zであると考えている)が、人zを所有していない(父がわからない)人は存在する。 以上より、人zが一人もいなくても、人zをもって人物の継続性とみなす集団Oを考えることも可能になる。具体的に、例えば、ある教育を受けた人物のみが、人物の継続性を持つと考える集団を考えてみよう。さて、もし、その教育をする方法や人や機関が、ある日突然全滅してしまったとする。しかし、この集団に所属する人は、その教育を受けていない人を人とみなさないし、受けなかった本人たちも、自分には人zはない、と思うことは可能である。よって、人zを持つ人が一人もいなくなる(教育を受けた人がいない)場合も、その人zが人物の継続性であるとみなす集団Oは存在する。 これは、集団Oは、一人であっても構わない、ということを意味する。例えば、戦争中に、一人森の中で、その場を守り、生き延びて救援を待つ使命を得た人を考えてみよう。もし、戦争が終わっても、あるいは、味方が全滅しても、その人がその情報を認知せぬ限り、彼の味方の国民は存続している。 だから、人zがいなくなっても、たった一人の人が集団Oとなれば、集団Oは存在するのだ。 しかし、たった一人でも存在できるものを、集団と呼ぶのは妥当であろうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004.06.22 16:56:43
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