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キタさんのつれづれ日記

南八郎(河上弥市)

南八郎(河上弥市) 1843~1863
長州藩八組士・河上忠右衛門の嫡子として生まれた。通称弥一郎、名は正義。石高は130石 。高杉晋作と親しく、文久3(1863)年の奇兵隊結成には真っ先に参加し、高杉を補佐した。奇兵隊結成すぐの、下関の英・蘭・米・仏の4カ国艦隊の来襲に際しては、砲台に拠って奮戦した。が、最新鋭の武器の前に長州藩は敗北を喫し、沿岸は艦隊によって封鎖され、砲台も敵陸戦隊の占領下に置かれた。この時、対岸の小倉藩は外国艦隊を応援するかのごとくの態度を取ったため、大いに怒った弥市は、門司の田野浦を占領して長州藩の砲塁を築いたりした。同年の8月には上京して様々な運動を起こすが、8月18日の政変のために京都におれなくなり、多くの藩士とともに帰国した。9月には庶民兵である奇兵隊と上士である選鋒隊の対立によって教法寺事件が起こり、高杉が総督を更迭されたため、滝弥太郎とともに第二代奇兵隊総督を務めることとなる。対立を緩和するために吉敷郡秋穂村に移された奇兵隊陣営でしばらく執務していたが、この血の多い男が、上方の状況にじっとしておれるはずがない。
時あたかも三田尻の招賢閣に、平野国臣と北垣晋太郎が逗留し、但馬義兵を呼びかけていた。長州藩は自重したが、弥市は総督の職を投げ打ち、隊士13人を引き連れて但馬へ向った。南八郎と変名した弥市は、公卿の澤宣嘉を総帥に担いで生野に入り、平野とともに総督として兵士を指揮した。生野代官所を占領して二千の農兵を集める事に成功したが、出石藩出兵の報に本営と農兵が動揺したため、それを迎撃するために彼は、戸原卯橘ら抗戦派17名を引き連れて朝来郡山口村の西念寺に本陣をかまえた。付近の制札の「天領」を「神領」に改めさせ、変名の南八郎の名で3年間年貢半減・運上免除を記した新たな制札を掲げさせた。かつ、先陣営を要害の妙見山に移し、大砲や水などを妙見堂に運んで決戦の構えを見せた。ところが、農兵を怖れた総帥の澤が、少数を連れて逃走してしまったため、驚いた農兵は残された志士達に竹槍を向け始めた。志士の集結する山口の妙見山へ向う農兵の下には、出石藩兵を怖れた付近の農民も続々と群集した。弥市は、すぐさま事実を知ったが、「生きて醜名をさらすより討死にするにしかず」と笑って答え、別れの杯を酌み交わした。午後になって西念寺の早鐘が打ち鳴らされた。妙見堂を出てみると、竹槍や鉄砲を持った農兵が妙見山麓に終結していた。一同は最後を飾るべく山麓に下り、円山川のほとりに聳える山伏岩に登った。弥市は勤皇の大義を説こうとしたが、農兵達は一斉に鉄砲を撃ちかけてきたので、帯剣を抜き連れて切腹した。時世は「議論より 実を行へなまけ武士 国の大事を 余所に見る馬鹿」。


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