北 の 狼

2004/01/31(土)01:26

シュルレアリスムとスーパーリアリズム

先に、私は以下のようにいいました。”(シュルレアリスムにおいては)現実そのものを「超現実」に変容させることが重要なのであって、その契機を与えてくれるものであれば、その方法や技術は何だっていいわけです。”現実そのものを「超現実」に変容させる手段のとして、「デペイズマン」(本来あるべき場所から物あるいはイメージを移動させて、思いがけない別の場所に配置する)とか「コラージュ」(既成の図版の一部を切り取って貼りこむこと)とかいった方法があるわけですが、これは合理的・合目的的に配置または構成された物事の、【空間的属性】を変化させるものです。そのことによって、思いがけない現実、すなわち「超現実」が出来するというわけです。他方で、【時間的属性】を操作して、「超現実」を出来させる方法があります。よくあるのが、過去のものと現在のものを同時に配置するといった具合に、物事に必然的に備わった時制(時代)を無視して作品を構成するものです(通時態から共時態へ)。また、我々が生の肉体では経験しえないような時間を導入して現象や物事を提示することによっても、思わぬ効果(すなわち「超現実」としての効果)がえられることがあります。上に掲げたのは、上田薫氏による『なま卵 B』という作品です。ちょっと見には、単に生卵を割ったところを捉えただけの作品です。このような瞬間は現実には確かに存在しますが、我々は生の肉体という制限の基では決して経験することができない、つまり肉眼では視覚的に捉えることができないものですね。できるのは、絵画か写真のみです。これは絵画としては特別な作品ではないのですが、我々の心に強烈に訴える何かがあります。その「何か」については、ここでは敢えて述べませんが。上田薫氏の作風は「スーパーリアリズム」と称されていますが、私の眼からすれば、【時間的属性】をちょっと操作することによって現実そのものを「超現実」に変容させた見事な例で、シュルレアリスム以外の何ものでもありません。ちなみに、「スーパーリアリズム」と「シュルレアリスム」は、フランス語と英語の違いはありますが、語句の意味は全く同じです。ただし、芸術上の意味が異なります。スーパーリアリズムは、超写実主義とでも称すべきもので、写真と殆ど変らない絵画のことです。シュルレアリスムは、多少とも現実離れした要素がどこかに含まれます。まあ、細かいことを言いますと、スーパーリアリズムは「スーパー・リアリズム」、シュルレアリスムは「シュルレアル・イスム」なのですが。この辺は、本日記の冒頭で説明してあります。しかしながら、「美術の理性化」に対するアンチテーゼという、共通するモチーフを有します。シュルレアリスムは現実との接点を失わないことが一つの特徴なのですが、その特徴を極限化したのがスーパーリアリズムということになりましょうか。

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