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1988年、アメリカ、マーティン・スコセッシ監督、ウィレム・デフォー、ハーベイ・カイテル、デビッド・ボウィ。
”私のこの映画は深い宗教的感情によって作られている。私は十五年間この映画作りに関わってきたし、これは自分にとって特別な意味を持った作品だ。これは受難と、神を見出す苦難についての宗教的映画だと信じている。この作品は確信をこめて、愛情をこめて作られた。したがって、これは信仰の肯定の映画であって、決して否定の映画ではない。いかなる人々もイエスの神的な面同様、人間的な面にも一体感を持つことができるに違いないと私は強く信じている。” (マーチン・スコセッシ) 『最後の誘惑』という映画は、「イエス・キリストは私たちと同じ人間の一人だ」として、神であることを否定せずにキリストのなかの人間的側面を強調した作品です。 原作はギリシャの哲学者・小説家ニコス・カザンヅァキス(1883~1957)の小説『キリスト最後のこころみ』(1954)で、彼はこの小説を書いたがためにギリシャ正教会から破門され、死後その遺体は教会の墓地から撤去されています。 そのカザンヅァキスの問題の作品を映画化しようというのですから、カトリックとりわけファンダメンタリスト(根本主義者)から執拗に攻撃されました。 実は、1983年、この作品はパラマウント社のもと製作が開始されたことがあったのですが、キリスト教グループによる政策中止キャンペーンに屈するかたちで頓挫しています。その後、フランス政府から資金を仰いでフランスとの共同制作の話が浮上しましたが、その直前の、ローマ教皇による弾劾にまで発展した『ゴダールのマリア』(1985年)論争の余波を受けて、この話も立ち消えとなりました。 その後1988年1月、ユニヴァーサル社(MCA)が、パラマウント社と同じ轍を踏まないように、キリスト教再生派で、ファンダメンタリストの利益を専門にするマーケッティング会社の社長ティム・ペンランドをこの映画の相談役(コンサルタント)に任命して製作を開始しました。 しかし、それでもキリスト教グループからの攻撃が止むことはなく、それまで沈黙を守っていたスコセッシ監督が業を煮やして発表した声明が、冒頭に掲げた文章です。以後、ヨーロッパも巻き込んで賛否両論が入り乱れる大論争に発展したという、いわくつきの作品です。 ちなみに、キリスト教圏では、この種の論争や攻撃は珍しいことではなく、『ジーザス・クリスト・スーパースター』、『E.T.』、『ハリーポッター』、さらには最近では『パッション』でも同様の事態が出来していますね。 「攻撃」という表現は決して誇張ではなく、例えば『最後の誘惑』の場合、言論や法による上映禁止運動なぞまだ可愛いほうで(イスラエルやギリシアでは上映禁止、西ドイツやアイルランドでは制限つき上映)、パリでは示威運動のなかで封切られ、UGCオデオンのロビーでは暴力沙汰となり火炎瓶が投じられ警官十三名が負傷していますし、別の劇場では催涙ガスがまかれています。同様の事件が、アヴィニョン、ブザンソン、マルセイユでも起こり、映画館シネマ・サン・ミシェルが放火され十三人が負傷しています。ブラジルでも暴動が起こっています。 歴史をたどれば、「イエスがどの程度神であり、どの程度人間であるか」といった二重性質論は、325年の「ニケア公会議」や451年の「カルケドン公会議」にまで遡ることができます。 ============= <ニケア信条> 西暦325年、現在のトルコのあるニケアという町で、教会の公会議が開かれ、キリストは神か、それとも 被造物かをめぐって大論争がなされました。そしてこの公会議は「キリストは父なる神とまったく同じ本質実態である」ということが明かになりました。また、聖霊が神であることも、この「ニケア信条」であきらかになりました。「ニケア信条」とは、わたくしたちクリスチャンのキリスト教信仰の根本である「三位一体」を確立した信条であり、キリスト教がキリスト教であるためのぎりぎりの信仰告白であるということができます。 <カルケドン信条> ニケア会議によって、三位一体論を確立した、キリスト教は、西暦451年のカルケドン公会議によって、 キリスト論を確立することになります。キリストの本性は、果たして「神」なのか、「人」なのか、「キリスト論」の議論は白熱してきました。そして、「カルケドン信条」において、次のような結論が宣言されたのです。 キリストは「真の神にして、同時に理性を有する霊魂と肉体から成る真の人間である」 http://www.christian.jp/history/index3.htm ============= 2教義をめぐる対立、教父 (中略) キリスト教会の内部で繰り返し議論の対象となった問題があります。・・・・それは何かというとイエスの問題なんです。イエスはなんなんだ?初期の聖職者たちも疑問に思ったんだね。彼が救世主であることはいいんです。そう信じる人がキリスト教徒なんだから。問題はその先、救世主イエスは人間か、神か?そこで論争が生まれる。 人間だったら死刑になったあと生き返るはずはない。人は死んだら普通死んだままですからね。だから、イエスを人間とすると、やがてそれは復活の否定につながります。 じゃあ、神だったのか。それもおかしいんです。キリスト教も一神教です。神はヤハウェのみ。イエスも神としたら神が二人になってしまいます。だから彼を神とすることもできない。 この矛盾をどう切り抜けて首尾一貫した理論を作り上げるかで初期の聖職者、神学者たちは論争したんだ。 325年のニケーア公会議では、アリウス派という考えが異端、つまり間違った理論とされます。アリウス派はイエスを人間だといったんです。正統と認められたのはアタナシウス派という。このアタナシウス派の考えはあとでまとめます。 431年のエフェソス公会議ではネストリウスという人が異端とされます。彼はマリアを「神の母」と呼ぶのに反対したんで異端になった。実際には政治闘争だったようですがあえていえばネストリウスもイエスの人間性を強調したということでしょう。 451年カルケドン公会議では単性論派が異端とされます。このグループはイエスを人間ではないとする。単純にいえば神だ、というわけだ。 つまりイエスを神とか人間とか、どちらかに言いきる主張は異端とされていったんです。これらの論争を通じて勝ち残って正統とされたのはアタナシウス派です。この派の理論は「三位一体(さんみいったい)説」という。神とイエスと聖霊の三つは「同質」である、という理論です。注意しなければいけないのは「同質」という言い方。「同じ」とは違うからね。ややこしいね。「同質」というのは「質が同じ」なので「同じ」ではない。 もともと「生き返った人間」イエスを人間でも神でもないものに、別の言い方をすれば、人間でもあり神でもあるものにしようというんだから、分かりやすく理論を作るのは無理だね。そこをなんとかくぐり抜けて完成された理論が「同質」の「三位一体説」です。だから私実はよく分かっていません。このいきなり登場した「聖霊」はいったいなんだろうね。辞典を読んでも分かりません。知っている人はこっそり教えてください。 現在キリスト教は世界中に広がっていますがカトリックもプロテスタントも伝統的な教会は三位一体説にたっています。みんなそうだから現在ではあらためてアタナシウス派なんて言わないくらいに一般的です。教会の説教で「父と子と聖霊の御名において~~」というのを聞いたことありませんか。あれが三位一体ですね。アメリカ合衆国生まれの新しい宗派では三位一体説にたっていないものがあるかも知れませんがね。 異端とされた宗派のその後ですが、ローマ帝国内では布教ができません。アリウス派は北方のゲルマン人に布教活動をします。ネストリウス派はイランから中央アジアにかけて広がっていきました。単性論派はエジプトやエチオピアに残ります。 http://www.geocities.jp/timeway/kougi-19.html *)「三位一体」論で言う「聖霊」とは、イエス復活後の五旬節 (聖霊降臨祭) に使徒たちに下された霊のことで、神自身の分身としての人格 (位格) を持つとのこと。まあ、そんじょそこらの精霊とは違うようです。 ================== お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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