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大和撫子日記

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2007.09.30
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カテゴリ:東南アジア

ミャンマー・・・民主化という言葉に踊らされていないか?

ミャンマーの悲劇 どこかの国が「いい子」のせいで...
『英国人はさまざまな手口でビルマ人のアイデンティティーを奪った。十九世紀末には国王以下の王族をインドの果てに島流しにして、国民の求心力を奪った。

 国王の娘、美貎のファヤ王女の消息をほぼ一世紀ぶりにヒンドスタン・タイムズ紙が報じた。王女は英植民地軍兵士の愛人にされて貧困の中で死に、その娘、つまり国王の孫娘ツツは「最貧困層に身を落とし、造花を売って生計を立てている」という。

 おとなしいビルマ市民がこの王家の悲劇を語るとき、本当に怒りで唇を震わせる。 ・・・

英国に次いでビルマの人々は中国を嫌う。中国人は植民地時代に入り込み、英国人のよき手先となってビルマ人を搾取した。英国人が引き揚げたあとも彼らは居座って経済実権を握り続けた。

 ネ・ウィンが鎖国政策をとったのも、ビルマ経済を停滞させて商売のうまみを消し、彼らが愛想を尽かして出ていくのを待つ、という意味があった。

 だから生活は貧しく不便だったが、国民は我慢した。それが自分の国を取り戻すためだと知っていたし、同じような状況のベトナムが華僑追放という強制手段を選んで、戦争(中越紛争)に巻き込まれたのよりは、ましな方法だと認識していたからだ。

 しかし、中国人はビルマ乗っ取りにもう一つ、手段を講じた。共産ゲリラの侵入だ。彼らは社会不安をあおりながら南下し、七〇年代にはヤンゴンのすぐ北のペグーにまで進出した。

 これを掃討したのが今の政権を担当するタンシュエである。

 中国人といえば、タイの華僑もしたたかだ。モン、カチンなど山岳民族をけしかけてビルマ人政府と対立させ、武器弾薬を売ってはチーク材を手に入れていた。「中国」というだけでビルマ人は顔をしかめたものである。・・・

スー・チー問題を口実に欧米がミャンマーに経済制裁を科し、日本が右にならえをしていたころである。この国の経済はそれでほぼ破綻しようとしていた。 ・・・

そのミャンマーに、もっと苦しいはずのユーゴが三千万ドルもの経済援助を約束した。

 妙な話には裏があって「実は日本から巨額のODAを引き出している中国が背景にいて」(本紙バンコク特派員電)、ユーゴを迂回して援助しているという。中国政府は強い調子でこの説を否定するが、本のカネが回り回ってミャンマーのクビを締め上げているのは間違いない。 』

高山正弘 異見幻自在『「軍事行動の正当性は「米国が嫌いだから」で十分なのである。 その意味でミャンマーも許せない軍事政権の国にされている。

 この国は英国の植民統治時代に入り込んだ印僑、華僑が居座って経済実権を握り、加えて中国系の共産ゲリラが首都ヤンゴンのすぐそばまで進出して治安を混乱させていた。ミャンマーの戦後はこのよそ者の追い出しと征伐に忙殺されてきたといってもいい。

 それでやっと祖国を取り戻した八〇年代末に選挙をやったら英国人の夫をもつアウン・サン・スー・チーが勝った。ただ、ミャンマーには国の指導者の配偶者は外国人ではだめという憲法の規定がある。植民地支配の苦い経験が生んだ規定で、その意味で彼女は不適格であり、どうしても政権に就きたいなら夫を帰化させよと説得した。とくに国をずたずたにした英国というだけで、国民を不快がらせ、反発を生むとも説明した。

 しかし夫はそれを拒否し、結果的に軍事政権が誕生した

 米国はミャンマーが植民地支配で受けた苦痛や国民感情などどうでもよかった。「軍事政権」というだけで経済制裁を決めた。

かくてグローバル・スタンダードが発動され、日本はじめ世界中がそれに従うことになった。

 ・・・それがどうして「中国」を語れなくなったかは当のアベル氏との会見で分かった。今のミャンマーは米国主導の経済制裁で瀕死状態にある。唯一、グローバル・スタンダードの埒外にいる中国だけが支えになるという皮肉な巡り合わせになり、例えばヤンゴン経済活性化の要といわれるイラワジ川の架橋工事を含めすべてが中国の援助に頼る結果になったという。・・・』

宮崎正弘国  

『「もう一つの問題はスーチーの資質である。
 インドネシアのスカルノの娘にせよ、パキスタンのブッドにせよ留学経験から親米、親欧州になる。それは良いにしても、とくにブッドがそうであったように土着のウルドゥ語を満足に喋れず、夫は外国人(スーチー女史も同じ)。土着の伝統を重んずべき政(まつりごと)であるにもかかわらず、伝統的政治を軽視し、欧米の支援だけを当てにする(東チモールの親米欧政権は日本から一億ドルの援助を受け取りポルトガアル混血の部族だけが潤った)。 
東チモールの虚構
 単純に「投票箱」民主主義が良ければ、その真似だけして、なんと23年間もザイールを私物化したモブツ・セセ・セコ(元ザイール大統領)のように、別の「腐敗の温床」を生むだけではないのか。』

アメリカのが他国に口を出すのも、アメリカの経済発展、自国の利潤のため。欧も同じ。シナは人権もなく、もっと酷い国。

キリスト教と文明を振りかざし、今は「民主」の名で侵略と巧妙な植民地をめざしていないか?

ビルマ独立に命をかけた男たち 著 遠藤順子

『  一六一二年にビルマ進出を企てた英国は、ビルマ族とタライン族の対立を利用して巧みに政治的侵略を開始していましたが、反王派を支援して王室の同族同士の対立を煽ったため、一七五九年にオランパヤ王室は、英国の植民地ナグライスにおいて、大虐殺を行なう不祥事を起こしました。・・・
  ビルマ王朝がアラカンを征服してからは、隣接するインドを支配する英国との紛争が続き、一八二四年の第一次英緬戦争となります。

 ビルマ王室は英軍の進撃と大衆の和平論にやむなく二年後、英国と和平をむすび、英貨百万ポンドの賠償金とアラカン、アッサム、テナセリウムなどの地域の割譲を承諾させられました。
 第九代パガン王の後、一八五二年、イギリス商船の船長逮捕にからんで英国との関係が紛糾し、ついに第二次英緬戦争が起こりましたが、英国の圧倒的な武力の前にビルマ側は成す術もなく、下ビルマ一帯を英国に一方的に侵略される結果となりました。

・・・一英仏両国は盛んにこの内紛を煽っては王室の勢力消耗を企てました。一八八五年十一月十一日、英国との関係は最悪の状態となり、第三次英緬戦争の勃発を見るに至りました。
 テイボー王室は、英国精鋭部隊の前に成す術もなく、十一月十八日、首都マンダレーは陥落し、テイボー王は王妃と共に捕らえられ、インドのマドラスへ護送され、十一月二十九日、ビルマは英国の軍門に降り、長年にわたるビルマ族の独立は、横暴きわまりなき英国に蹂躙されるところとなりました。

 かくしてビルマは強制的に英領インドの一州と見徹され、インド総督の統治下に置かれ、英国の植民地とされました。・・・
            
 英国が第一次英緬戦争に勝利し、英貨百万ポンドとアラカン、アッサム、テナセリウムの広大な地域を侵略した一八二六年から第二次、第三次英緬戦争を経て大東亜戦争が始まる一九四一年までの実に百十五年間の長きにわたり、善良なビルマの国民は戦火にさらされ、あるいは国家の独立を奪われ、英領インドに併合されたり、一九三七年には今度はインドから分離され、英国の直轄植民地として辛酸をなめることを余儀なくされたのです。

  ことに一八八五年以降、ビルマが英領インドの一州として英国の領有下に置かれるや、イギリス資本とインド人労働者の増大は次第にビルマ人自身の生活を脅かす強大な勢力となっていきました。

 移住インド人は、労働者としてビルマ人労働者を圧迫したばかりではなく、農業開発資金を貸し付ける金融業者として、あるいはあらゆる商業経済の分野に属する者としてもビルマ入の経済を圧迫し始めていったのです。

・・・ ことに一九三〇年前後の世界的な農業恐慌によって米価が著しく値下がりした折には、債務不履行によって先祖伝来の土地をインド人に奪われる農民や破産者が続出し、片やビルマ人から土地を取り上げて地主となったインド人は、小作人になり下がったビルマ人たちに厳しい搾取を行ない、ますますビルマ人たちの生活を窮地に陥れていきました。

 こうしたインド人労働者の流入だけでもビルマ人にとっては脅威であった上、中国人の移住にも悩まされ、ビルマ人は英国の搾取に加え、その下部組織としてビルマ経済を握っているインド人や中国人の金融業者、資本家、貿易商のような実業家などから、二重、三重の搾取を受け、社会の一番底辺で働くことを余儀なくさせられていました。
 

元々ビルマ人が武器を持つことは禁じられていましたが、その上英国は、インドで同様の政策で味をしめた陰険きわま伍ないやり方で、武器を持たぬビルマ族の抵抗を封じようとしたので
 即ち少数民族であるカレン族にだけ軍事訓練を施し、武器を持たせ、ビルマ族の上に置くことで
内紛を煽り、ガレン族とビルマ族を闘わせ、国民の大部分を占めるビルマ族の勢力をそぐという政策をとりました。』

・・・自らの手を汚さず戦わせるイギリスはすごい!






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最終更新日  2007.09.30 17:06:15
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