水無月二日 母は美容院へヘアカットに行く・・・
まあ、歩いて行っても私の足なら5分か7分そこらの距離だが、母の行く美容院へは、勿論、私めが運転手を務めさせていただいて。。。皮膚科の先生の指摘で、白髪染めやら目薬やらを全部やめて以来、美容院へは、シャンプーとカットだけのために行っている。しかも、90歳にしては豊かな御髪でいらっしゃって、白髪染めを止めてから今、結構黒い部分もあることに気づく。父は70代ですでに純白の白髪だった(叙勲の時の写真が上に掲げてあってそれと知れる)が、母は半分ぐらいはむしろ黒くなっている。白髪染めは頭皮に悪影響があると言うことだろう。小一時間で済むので、電話をもらってまた迎えに行き、そのまま、母のお気に入りののんびり買い物できる青空市場という名前の農協の裏の倉庫に。母は、人参とお仏壇の花が欲しいと言っていた。前回、お漬物が美味しかったので、また買って、そしたら、絹ごし豆腐も買うと言うので、地元産の大豆を使ったという絹ごし豆腐も。7時半から12時までの営業らしい。今日は、漁業者の人も3人、加工品を売りに来ていた。母の凄いところは、聞こえにくいことをおくびにも出さず、祖母もそうだったが、物静かに話す。お陰で、聞こえていない、通じていないっていうのが、店舗ではわかりにくい。昨日の電話の時も、プチパニックなんだけど、ちゃんと録音を再生して、内容を聞いてから、電話番号にかけ直したが、その時の挨拶とかは、いかにも元教員らしくしっかりしている。直前までプチパニックだったとは、とても思えない。この電話のせいで、自分の予定したタスクがこなせなくなっているのを、予定したタスクを忘れることで消化してしまう。料理は、マルチタスクな行為だから、そこに思いがけないことが起きると、お手上げなんだと思った。90歳って、シングルタスクをこなすだけでも、なかなか大変な年齢なのに、私だってこなしきれない時がままある。ヒス起こしそうになるもん。お昼ごはんは、昨夜と同じ薄塩鮭を母が焼いた。よほど味が好みだったのだろう。それと、地元のお店の作っているお漬物と言っても甘酢漬けであるが、これが美味しくて、母と一盛り上がりした。「たお」さんという製造者なのだが、母によると、仕出しのお弁当やら、配食のサービスをする店。今回、蓋に貼ってあるシールを見るまで分からなかったのだが、昔は母も良く利用していた店らしい。小串に済生会病院があるのだが、かつては国立の結核療養所だったらしい。その後、国立の病院として存続していたが、国が、国立病院を次々に廃止した流れで、廃院になりそうだった。地元で存続運動が続けられ、父が健勝だったころは、地元を代表して東京まで交渉に出ていた。父も昔取った杵柄で、国との存続運動のための交渉の術は知っているし、宿泊にしても、安く泊まれる宿の会員だったりして。結果的に、国立ではなくなったものの、山陰線側の山口県では大きな総合病院として残った。小串の済生会病院として。併置されている高齢者の一時入所施設もある。どちらも、結果的に、父はその後、たびたび、利用している。 鄙ではあるが、誠に風光明媚な、海岸沿いの一角。かつての結核療養所だった頃から、海辺の景勝地である。入院中の部屋が良ければ、松原越しの眺めは最高だ。川棚温泉という古い名湯も車で10分ほど。この地に、「たお」さんは今も根付いているようだ。母が言うには、私の祖父母がまだ健在だったころに、病院の最寄り駅のそばで、お惣菜を買えたので、帰りに良く利用していたと。母は、たまたま、そこの中学が31年前の最後の勤務地だったのと、その後も父がよく入院していた事情もあって、お店や業態を知っているようだ。いやいや、考えてみれば、母も、しょっちゅう入院している。。。田舎のこともあり、味付けが濃いめだったと母が言う。確かに、少量でたくさんのご飯が食べられるという目的のおかず、らしい甘酢漬けだが、大根も、切り方に工夫があり、レンコンや長芋の薄切り、生姜も2種類の切り方で、そこに、彩りの人参と胡瓜だから、生姜の味と、多品目のそれぞれの食感が楽しめる。何かを足すとしたら、柚子の皮を盛り付ける時に足すくらいだろう。朝から母が、入所型の施設の話をする。妹が、見てきてあれこれ言うからだろう。今までのデイで知り合った人たちとも会わなくなって、新しいところに移るってこと・・・私が居るうちに見に行けば?って妹が言うらしいけど、母の日常から、6畳一間のアパートタイプの居室っていうのが、なんか、ピンとこない気がする。家でトイレに自分で行けなくなったら、施設に入ると母は言うんだけど、施設に入ったって、夜のトイレは、紙のパンツかおしめを要求されるだけで、毎回誰かがトイレに付き添ってくれたりはしない。入院中の病院じゃないんだから。前段階として、ポータブルトイレを使うとか、まず、夜にだけでもリハビリパンツを履いてみるとか。それをしないで、いきなり施設って言っても、結局は、人手の足りない介護の現場ではおしめだよ。暮れに退院してから一度は間に合わなくて失敗があったらしいけど、その後は、そんなことも無く過ごしているようだし、とにかく、去年の夏前に、一度、ポータブルトイレを使うこともしてみたことだし、死んだったおじいちゃんのを捨てずにとってあったので・・・これからいきなり施設より、独居だから使える訪問介護とかの方策を探るのもありじゃないかな。母は、ポータブルトイレ用の消臭剤とか、凝固剤とかを知らない。ポータブルトイレ自体を覚えていなかったくらいだから。おじいちゃんの終末期は、訪問看護と、父の手でとの両面があったと思う。父は祖父の介護や看護を、実はしっかりしていた。だから、母は、下の世話とか、した記憶がないのだ。最期は、ある朝、ごはんを食堂にでてきて食べた後、自分のベッドに横になって、次に父が見に行った時には、祖父は眠るように亡くなっていた。葬儀で米寿と紹介されていたが、数え年であって、満年齢ではない。父とは24歳違いの申年の祖父、見送った時の父の年齢は63歳で、今の私よりも若い。祖母は96歳、父はもう少しで84になる数週間前の83歳だった。老いを考える。老いは必ず訪れるからだ。必ずしも老いなくても、実家の近所のおばあさんのように、毎日徘徊してチャイムを押して歩く人も居る。自民党政府は、70歳からを老人としたいようだけど、なかなかどうして、人生は難しいようだよ。今の私にできることは、老いに備えて、歯を磨くことくらいかな・・・節制と、徳を積む「親孝行」はしておこう。今朝の夢は、赤いヤモリの夢だった。小さい女の子が居て、その子の頼みで、赤いヤモリを保護するのだけれど、なかなかすばしこくて、何故か、赤い、心臓の所が透けて緑っぽくって、しかも大きい。本当のヤモリは、ベージュか灰色で、心臓が動くのが台所のガラス窓越しにも見えるし、毎晩何匹も居るのでよく知っているし、私はヤモリを大事にしている方だが、赤いヤモリが登場したのは、一昨日のネットの記事で、飼育されるペットとしての特殊なヤモリの摂食障害の話が出ていたのと、昨日のネットの記事で、巨大なヤゴから大きなトンボが出てきた話とが混ざっていると思う。実際にどちらも写真付きで見たから。夢の中でも、トンボも出てきた。夢の中ではトンボの黄色い顔とか印象的だった。ネットの記事ではヤモリは赤くはなかった。目が、赤いヤモリだった。なんで、あんなに心臓が四角く緑で大きいのか、わからないけど、右手で触っている感じだった。最近ネットで検索するのが、カエルだったりヤモリだったり、するのは・・・そのうち、夢の中に、オオスカシバの親子が、恨めしそうな顔で出てこないかと、心配している。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。