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カテゴリ:随筆・評論・新書などの感想
オコナーを読んだ後だとよく見えるが、埴谷雄高の小説にはアメリカの影がない。永久運動機関を持つ大時計が時を刻む場面から始まる『死霊』に描き出される仮想日本の風景は日本には似ていない。ドストエフスキーの書くロシアに似ている。サンクトペテルブルグの街に似ている。欧州紀行だからアメリカの話題がないのは当たり前なのに、そんなことを思う。文中に出てくる旅の同行者T君というのは辻邦生。野口冨士夫『なぎの葉考』に出てくる、主人公に紀州を案内する若手作家というのは中上健次のことらしいが、そういうことを始めから知っていたら楽しみ方も違ってくるのに、知らされるのはいつもあとがきか解説でだ。
一段落中文末が全て「~であった」などという、いささか文章に弛緩したところが見られる、ごく普通の紀行文。 ──彼と彼女はいま幸福そうに見えますね。 急に話しかけられた彼女は私を見て鮮やかに口紅を塗った唇を微かに開いて微笑んだが、私の言葉が「幸福な」という形容詞に達すると、より大きく微笑みかけながら、そのまま不意と困惑とも道場とも憐憫とも疑惑とも悲哀ともつかぬ奇怪なほど複雑な表情をしたのであった。恐らく「名状しがたい」という形容こそ複雑豊富な内容をともに混在せしめているこうした表情に対してのみ付せられるのだろう。同じ瞬間、振り向いて彼女の表情を正面から見たT君は、あとで私に、なんともいえない表情を彼女はしましたね、と何度も何度も繰り返していったが、それほど奇妙で複雑で印象的な表情をまだ美しさの残照がのこっているその中年すぎの彼女はしたのであった。彼女はすでに気楽な余暇を楽しんでいる身分とたが、しかし、彼女が経験したところの嘗ての結婚生活は彼女にそうした安穏を与えると同時にまた、これから結婚する若い二人に「幸福な」という形容をもって全的に祝福することのとうていできがたい或る種の災禍をひそかに、或いは、公然ともちつづけてきたに違いなかった。 『三組の花嫁』より 同行者と別れた途端、不味い米料理を食わされ、ぼったくりキャバレーに連れ込まれて本は終わる。『死霊』からは想像し難いお茶目な埴谷雄高がそこにはいる。 1972年 中公新書 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004/10/29 01:23:00 AM
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