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2021/11/23
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​先月26日に死亡した盟友盧泰愚に続き、光州事件を首謀した全斗煥が死亡した。
​​謹んで冥福を祈らない。
外道‼ もっと早く逝って良し。
​​光州事件​​​​

1980年5月18日から27日にかけて大韓民国(韓国)の全羅南道の道庁所在地であった光州市(現:光州広域市)を中心として起きた民衆の蜂起[1]。5月17日の全斗煥らのクーデターと金大中らの逮捕を契機に、5月18日にクーデターに抗議する学生デモが起きたが、戒厳軍の暴行が激しかったことに怒った市民も参加した[1]。デモ参加者は約20万人にまで増え、木浦をはじめ全羅南道一帯に拡がり、市民軍は武器庫を襲うと銃撃戦の末に全羅南道道庁を占領したが[3][4]、5月27日に大韓民国政府によって鎮圧された[1]。
​【概要】​
韓国では、朴正煕大統領の暗殺後、「ソウルの春」と呼ばれる民主化ムードが続いていた。しかし、軍部では維新体制の転換を目指す上層部と、朴正煕に引き立てられた中堅幹部勢力「ハナフェ(ハナ会・一心会)」との対立が表面化した。
1979年12月12日、保安司令官全斗煥陸軍少将が、戒厳司令官の鄭昇和陸軍参謀総長を逮捕し、軍の実権を掌握した(粛軍クーデター)。粛軍クーデター後も全国各地で反軍部民主化要求のデモが続いていたが、全斗煥が率いる新軍部は1980年5月17日、全国に戒厳令を布告し、執権の見込みのある野党指導者の金泳三・金大中や、旧軍部を代弁する金鍾泌を逮捕・軟禁した(5・17非常戒厳令拡大措置)。金大中は全羅南道の出身で、光州では人気があり、彼の逮捕が事件発生の大きな原因となっている。また、鎮圧部隊の空挺部隊も、かつては韓国軍のエリート部隊であったが、全斗煥の警護部隊的な位置づけに格下げされ、兵士たちには鬱憤がたまっていた。
5月18日、光州市で大学を封鎖した陸軍空挺部隊とこれに抗議した学生が自然発生的に衝突した。軍部隊・機動隊の鎮圧活動は次第にエスカレートし、また翌19日にはデモの主体もそれまでの学生から激昂した市民に変わっていった。市民はバスやタクシーを倒してバリケードを築き、角材や鉄パイプ、火炎瓶などで応戦した。21日に群集に対する空挺部隊の一斉射撃が始まると、市民は郷土予備軍の武器庫を奪取して武装し、これに対抗した。戒厳軍は一時市外に後退して、光州市を封鎖(道路・通信を遮断)、包囲した。
韓国政府は抵抗する光州市民を「スパイに扇動された暴徒」であるとした[5]。 韓国メディアは光州で暴動が起きていることを報じた[3]。海外メディアは、ニューヨーク・タイムズのヘンリー・スコット・ストークス東京支局長を始めとして、金大中は「処刑されるべきではない」との社説を掲げ「民主化運動の闘士」であるとの後押しを行った[6]。また、ドイツ公共放送(ARD)東京在住特派員であったドイツ人記者ユルゲン・ヒンツペーター[7]が事件を報道した。

地元の有力者などで構成された市民収拾対策委員会は戒厳軍側と交渉するも妥結に至らなかった。市民たちは武器を手に入れると韓国軍を相手に銃撃戦を行い、全羅南道道庁を占領した[3]。指導部は闘争派と協商派に分かれて分裂した。5月26日、市民軍は記者会見でアメリカが介入すれば流血事態は阻止できると主張するとともに、同志は死ぬ準備が出来ていると発表した[4]。結局、一部闘争派を残して自主武装解除を行い、この情報から市民に占拠された全羅南道庁に対する鎮圧命令が下った。5月27日、市民軍の先頭に立って武器倉庫を攻撃したユン・サンウォン[4]を含む市民軍には射殺されるものもあり、韓国軍、警察隊にも死傷者を出しながら鎮圧作戦は終了した。光州市に投入された総兵力数は2万5千人に上った[3]。1980年9月17日、金大中に死刑判決が下された[8]。
当時、事件は「北朝鮮の扇動による暴動」とされたが、粘り強い真相究明の動きの結果、1997年に国の記念日となり、2001年には事件関係者を民主化有功者とする法律が制定[9]。韓国の近代史でもっとも大きな事件の一つ、かつ韓国における民主主義の分岐点となった1987年6月の6月民主抗争の原動力となった[9][3]。
2004年1月29日、内乱陰謀で死刑判決が下された金大中に対し無罪が宣告された​​


韓国の全斗煥元大統領が死去 光州事件などで無期懲役
共同通信社 2021/11/23 12:04
【ソウル共同】韓国で政権掌握に先駆けた1979年の粛軍クーデターや、80年の光州事件を首謀したなどとして一審で死刑判決を受け、後に無期懲役に減刑されて特赦で釈放された全斗煥元大統領が23日午前、ソウル市内の自宅で死去した。90歳。多発性骨髄腫などの持病があったという。韓国メディアが報じた。

​© KYODONEWS 1984年9月、日韓首脳会談を前に中曽根康弘首相(右)と握手する韓国の全斗煥大統領=首相官邸​

​© KYODONEWS 1996年、79年の粛軍クーデターや80年の光州事件の反乱・内乱罪に問われ法廷に立つ韓国の盧泰愚元大統領(手前左)と全斗煥元大統領(同右)(聯合=共同)​
 慶尚南道陜川出身で、陸軍士官学校卒。79年10月の朴正熙大統領暗殺後、戒厳司令部合同捜査本部長として粛軍クーデターで軍の実権を掌握した。80年5月、戒厳令に反発した南西部、光州の市民の抗議活動を武力で鎮圧した光州事件を経て9月に大統領に就任した。

韓国の全斗煥元大統領が死去 国家元首として初来日
2021/11/23 10:42 産経新聞
1980年代に韓国の軍事独裁政権を率い、同国の国家元首として初来日した全斗煥(チョン・ドゥファン)元大統領が23日午前、ソウル市内の自宅で死去した。90歳だった。血液がんの一種である多発性骨髄腫などの持病を抱えていた。
全氏は陸軍士官学校卒。1979年、当時の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領が暗殺された後、粛軍クーデターを主導し軍の実権を掌握した。戒厳令に反発した南西部光州(クァンジュ)のデモ隊に軍が一斉銃撃を浴びせ多数の死者を出した80年5月の「光州事件」などを経て、同年9月に大統領に就任した。


大統領在任中は88年ソウル五輪の誘致に成功。民主化運動を弾圧する一方、経済成長を軌道に乗せた。83年には当時の中曽根康弘首相が日本の首相として戦後初めて韓国を公式訪問し、翌84年に全氏が国家元首として初来日するなど、日韓関係の改善が進んだ。
大統領退任後の95年、クーデターと光州事件を主導したとして内乱罪などで起訴され、1審死刑判決を経て97年に無期懲役が確定。同年、特赦を受けて出所していた。

​​​​​韓国の全斗煥元大統領が死去 90歳 光州事件などで死刑判決
毎日新聞 2021/11/23 10:10(最終更新 11/23 14:25)
韓国で1979年に起きた粛軍クーデターを国軍保安司令官として指揮した全斗煥(チョンドゥファン)元大統領が23日午前、自宅で死去した。90歳だった。聯合ニュースが伝えた。持病があったという。
 31年、慶尚南道陜川(キョンサンナムドハプチョン)生まれ。陸軍士官学校卒業。軍事クーデターで権力を握った朴正熙(パクチョンヒ)大統領に登用され、ベトナム派兵部隊の連隊長を務めた。国軍内部を統括する保安司令官だった79年、朴大統領暗殺事件の捜査を指揮。同年末、上官にあたる戒厳司令官を逮捕する「粛軍クーデター」で軍の実権を掌握した。
 80年5月には、金大中(キムデジュン)氏(元大統領、2009年8月死去)ら有力政治家を一斉に逮捕した。これをきっかけに、金大中氏の地盤である光州市で市民らが武装して軍と衝突し、多数の死傷者が出る「光州事件」が発生した。









































80年9月から88年2月まで大統領を務めた。84年には韓国大統領として初めて日本を公式訪問し、天皇と会見した。北朝鮮との関係は険悪で、83年のラングーン(現ヤンゴン)訪問時に北朝鮮工作員による爆弾テロに狙われ、同行の閣僚ら韓国人17人が死亡した。任期終盤の87年には、大韓航空機爆破事件も起きた。
 朴政権の政策を継承し、開発独裁による経済成長を重視したが、国民の民主化要求の高まりで87年、軍時代から盟友として活動した盧泰愚(ノテウ)氏の「民主化宣言」を受け入れる形で大統領直接選挙制への改憲に踏み切った。同年末の大統領選では、盧泰愚氏が当選した。
 退任後は親族の不正蓄財などが明らかになり、江原道の山寺で2年間、隠遁(いんとん)生活を送った。金泳三(キムヨンサム)政権時代には光州事件や不正蓄財を断罪され、裁判の1審では死刑判決を受けた。2審で無期懲役に減刑され、さらに97年の大統領選で金大中氏が当選した直後に、特赦で釈放された。
 最近では17年に出版された回顧録で、機銃掃射を目撃したと証言した神父(故人)を「うそつき」などと記述し、死者名誉毀損(きそん)罪で在宅起訴され1審で有罪判決(懲役8月、執行猶予2年)を受けた。今年8月の控訴審公判では、法廷に姿を見せたが、途中で体調不良を訴え退席していた。​​​​​​






「分断」生んだ民主化弾圧 韓国の全斗煥元大統領死去
2021年11月23日 15:00 日経新聞
韓国社会が抱く全斗煥(チョン・ドゥファン)政権の記憶は暗い。警官に殴られ、留置場で一夜を過ごした学生時代の話を語る50代の市民は少なくない。民主化を暴力で封じた1980年代の軍事独裁は、保守と革新勢力が鋭く対立する韓国社会の「分断」を根付かせた。
 79年10月、当時の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領を襲った銃声が全氏を権力の表舞台に引き上げた。朴大統領は酒席で、側近の金載圭(キム・ジェギュ)中央情報部長に暗殺された。
 全氏はその時、軍内部の機密を把握する立場の保安司令官だった。事件捜査の責任者を務めながら、軍の実権を掌握した。9カ月にわたるクーデターの末、崔圭夏(チェ・ギュハ)大統領(当時)を退陣に追い込む。自ら大統領候補に名乗りを上げ、そのまま最高権力者の座におさまった。
 韓国の軍事独裁は朴正熙、全斗煥両政権の26年間に及んだ。ただし、同じ独裁者でも、2人に対する国民の評価は異なる。保守陣営にとって「漢江の奇跡」で経済発展の基盤を整えた朴氏は尊敬の対象だ。一方、民主化運動を暴力的に抑え込んだ全氏をたたえる言動はタブーに近い。
 歴史に残る民主化弾圧は、80年の光州事件だ。全氏ら軍指導部は学生らの大規模デモに特殊部隊を投入し、死者は少なくとも百数十人に達したが、軍部は報道を統制し「暴動は北朝鮮が扇動した」と宣伝して光州を封鎖した。国民の間で真相が明らかになったのは、民主化を進めた盧泰愚(ノ・テウ)政権になってからだ。
 全氏は責任を認めるどころか「政治報復だ」と主張し、国民感情を逆なでした。光州事件で軍がヘリコプター射撃をしたという神父の目撃証言を、「破廉恥な噓つきだ」と自著で否定した。神父の遺族が死者の名誉を毀損した罪で全氏を訴え、法廷闘争中だった。
 10月に死去した盧泰愚氏が晩年を贖罪(しょくざい)に費やしたのとは対照的といえる。盧氏は罪に問われた不正蓄財などで科された多額の追徴金を完納したが、全氏は支払いを拒み続けた。
 文在寅(ムン・ジェイン)政権を支える革新勢力はまさに、全政権下で学生運動を経験し、弾圧の対象になった世代だ。政界を含む今の韓国社会は、80年代に学生運動を経験した60年代生まれの「86世代」を主力に動いている。
 韓国政府は10月末に盧泰愚氏の国家葬を営んだ。この時、大統領府高官は「全斗煥元大統領の国家葬は一考の価値もない」との見解を示した。全氏はなお政治闘争の対象であるからだ。
 経済面では、全氏の功績を評価する見方もある。朴政権が点火した経済成長を安定軌道に乗せ、80年代前半は年8%近い高度成長を実現した。80年に20%を超えた物価上昇率を3%台にまで抑えこみ、経常収支を黒字に導いた。韓国に国際舞台への跳躍の機会を与えた88年のソウル夏季五輪を誘致したのも全政権だった。
 日本との関係改善も進めた。全氏は83年、当時の中曽根康弘首相を国賓並みの待遇で韓国に迎え入れた。晩さん会では中曽根氏が韓国語で韓国の歌を、全氏は日本語で「知床旅情」を歌い友好ムードを演出した。
 84年の来日時は、宮中晩さん会で昭和天皇が「今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います」と述べられ、全氏は「わが国民とともに厳粛な気持ちで傾聴しました」と応じた。
 こうした外交は、国内の反日世論を押し切れる独裁者だからできたことでもあった。韓国大統領府報道官は23日、記者団に「元大統領の冥福を祈る」と述べると同時に「歴史の真実を明かさず、誠意ある謝罪がなかったことに遺憾を表する」と強調した。文大統領らの弔問や政府の追悼行事は見送られ、家族葬だけが営まれる見通しだ。
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「夫に代わって特におわび」 韓国・全斗煥元大統領夫人が謝罪
毎日新聞 2021/11/27 12:27

​© 毎日新聞 提供 亡くなった韓国の全斗煥元大統領のひつぎを見つめる李順子夫人(中央)=ソウルで2021年11月27日、AP​
病気のため23日に90歳で亡くなった韓国の全斗煥(チョンドゥファン)元大統領の李順子(イスンジャ)夫人が27日、「夫の在任中に苦痛を受けたり傷ついたりした人々に対し、夫に代わって特におわびする」と謝罪した。聯合ニュースが報じた。
 全氏は生前、民主化を求める学生らを弾圧。多数の死傷者を出した1980年の「光州事件」に対する謝罪も拒み続けていた。全氏側から謝罪の言葉が出たのは、今回が初めて。韓国では通常、大統領経験者が死去した場合は「国家葬」(国葬に相当)が営まれるが、全氏に対する世論の反発が強いことも踏まえて実施されなかった。
 李夫人によると、全氏は23日朝、自宅で夫人の手を借りて、席を立った際に突然倒れ、そのまま息をひきとったという。​​​​​​







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最終更新日  2021/11/29 04:28:24 PM
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