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2023/07/24
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カテゴリ:📚 BOOKS 📖


ご冥福をお祈りいたします。
39年前の夏、友人と片瀬江ノ島へ行く際の小田急線急行車内でお会いしました。代々木上原に事務所、作業場所が在るらしく、代々木上原駅で乗車し我々の前に着席した。
そして、自分の著書をブックカバー無し(顔写真入り)で立てて読んでいたので私が気が付きました。

『おい!あれ森村誠一じゃね? 森村だよ』って友人
に教えたのを内心嬉しそうに思っていたのでは無いで
しょうか?

ご自宅(厚木)迄の道中でしたが、印象に残っています。

実家麹町付近の都市センターホテル夜勤の激務の中
​​旧国家試験最難関である司法試験短答、論述試験を
突破し口述試験まで進んだ秀才。
​➡​​丁度、岸田文雄、気◯◯い保坂展人が隣接の​
麹町中学校に通っていた頃である。
​​

其の経験が、後の大ヒット作、ホテルニューオータニ
タワー舞台の【人間の証明】に繋がる。

親しみの持てた大ベストセラー作家でした。
重ねてご冥福をお祈りします。





​​​ベストセラー作家の森村誠一さん死去、90歳…「人間の証明」「悪魔の飽食」2023年7月24日」15時30分
「人間の証明」「悪魔の飽食」などで知られるベストセラー作家、森村誠一(もりむら・せいいち)さんが24日死去した。90歳だった。

 埼玉県生まれ。青山学院大卒業後、ホテルマンとして働くなかで、サラリーマン向けのエッセーを手掛けるようになる。1967年、「大都会」で作家デビュー。69年に「高層の死角」で江戸川乱歩賞、73年には「腐蝕の構造」で日本推理作家協会賞を受けた。ホテルや新幹線などを舞台に、現代社会の疎外感や虚無感を掘り下げ、社会派的なテーマとトリックを融合した作品でサラリーマン層の支持を集めた。

 76年には西條八十の詩をモチーフに、証明三部作の第1作「人間の証明」を発表。翌年には角川書店が行った映画版とのメディアミックスで、森村誠一ブームを巻き起こした。翌年に刊行された「野性の証明」も高倉健主演で映画化されて人気を博した。

 旧日本軍の中国での人体実験を告発した81年のノンフィクション「悪魔の飽食」は、社会的に大きな反響を呼んだ。多くの作品がテレビドラマ化され、大きな社会的反響を呼んだ。

 2004年には日本ミステリー文学大賞を受賞、11年には時代小説「悪道」で吉川英治文学賞を受賞した。

 晩年は新書「老いる意味」で、老人性うつ病に苦しんだことを明かし、話題を呼んだ。​​


​​次女の繭子さんが語った“父・森村誠一” 人間の尊厳伝え続け「父は最後まで作家だった」スポーツニッポン新聞社 2023 07 25 09:00​
映画化もされたベストセラー小説「人間の証明」などで知られる作家の森村誠一(もりむら・せいいち)さんが24日午前4時37分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。90歳。埼玉県出身。葬儀は家族葬で行う。後日お別れの会を開く予定。国家や社会の闇に斬り込むなど“反骨の社会派”のイメージが強かった森村さん。家族に見せたその素顔は、いつも優しくおちゃめな父親像だった。
 次女の繭子さん(40)によると「とにかく温厚で家族に声を荒らげるようなことが全くない人でした」。晩年は認知症を患い、見舞いに行くと「君は誰だい?」と問われることも。でも、そのたびに「疲れるからお帰りなさい」と優しく丁寧な言葉で気遣ってくれたそうで「自分たち家族にだけでなく、父は相手がたとえ知らない人であっても、いつも優しく丁寧に接してきた人なんだとよく分かりました」と思慮深く誠実な人柄をしのんだ。
戦争で飢えを経験し「家族におなかをすかせてはいけないという思いが強く、家族みんなで食事をするのが好きでした」という。いつもおちゃめで明るく「私の日記や作文に勝手に赤ペンで落書きをするので、思わず怒っちゃったこともあるくらいです」といたずら好きな一面もあった。
 2021年に「老いる意味」、22年に「老いの正体 認知症と友だち」を刊行し、話題になった。編集者でもある繭子さんは「父は最後まで作家だった。30歳を過ぎてから作家デビューし、その後は休まずに書き続けることができたけうな存在」と評し「貫いたテーマは人間の命の尊厳。それを使命に50年以上書き続けてきた尊敬すべき人」と称えた。
 人の話を聞くのが好きで、自分と違う意見には興味深そうに耳を傾けていたそうで「現代はいろんな意見があるのがいい。それを話せる世の中はなんて楽しいんだ」と話していたという。シャープな文章で社会の不条理に斬り込む一方で、作品に流れる人間の情緒。懐の深さと優しさがその根底にあった。



森村 誠一(もりむら せいいち、1933年〈昭和8年〉[1]1月2日[2] - 2023年〈令和5年〉7月24日)は、日本の小説家・作家。推理小説、時代小説、ノンフィクションなどを手がける。ホテルを舞台にしたミステリを多く発表している[3]。
経歴・人物
生い立ち
埼玉県熊谷市出身[1]。12歳にして、日本で最後[4]の空襲となった熊谷空襲を体験[5]。のちの「反戦平和」の原体験となる。

埼玉県立熊谷商業高等学校卒業[1]後、伯父の紹介で都内の自動車部品会社に勤めるが、商品を輸送中に神田駿河台の坂を車が登れず困っていたところを明治大学生に助けられ、大学生になるのもよいと考え、青山学院大学文学部英米文学科に進学[5]。在学中はハイキング部に所属し、山歩きに熱中した[5]。1年留年したが、1958年に25歳で卒業[5]。

ホテル勤務
しかし大学卒業時は就職不況時代であったため、希望したマスコミ業界には就職できなかった[5]。英語が得意だったことと[5]、妻が新大阪ホテル(現リーガロイヤルホテル)の重役の姪だったこともあり、同ホテルに就職[3]。1年後に東京の系列ホテルに転勤するが[5]、妻のコネという庇護から逃れるため、その頃オープンしたホテルニューオータニに自力で飛び込み、転職した[5][3]。ホテル勤務は9年におよぶ[1]。

幼い頃から本の虫で、初めて作家になりたいと思ったのは12歳の時だったが[5]、その思いを強くしたのは千代田区の都市センターホテル勤務時代[6][3][7]。目の前に文藝春秋の社屋が完成し、梶山季之や阿川弘之、黒岩重吾、笹沢左保ら当時の流行作家がホテルを定宿にして執筆していた[7]。フロントマンとして度々接していると[5]、そのうち親しくなった梶山が森村に原稿を預け、各社の編集者に渡すよう頼んでくるようになる[6][8]。そしてその原稿を盗み読みし、続きを自分なりに書いてみると[7]、次第に3本に1本は「俺の方が面白い」と思えて自信を持つようになる[6][7]。後年梶山にそのことを伝えると「お前は、俺のモグリの弟子だな」と言われたという[8][9]。

しかしながら、ホテルでの仕事は相変わらず「自分の個性を徹底的に消す」職場環境であり、「鉄筋の畜舎」[10]と感じていた。そんな中、出版社に勤める友人の紹介で総務関係の雑誌に[3]サラリーマン生活に関するエッセーなどを書き始める[6]。

作家デビュー
1965年、32歳で『サラリーマン悪徳セミナー』を母親の名前からとった雪代敬太郎というペンネームで出版し、作家デビューする[5][11]。その後、副業を咎める上司の言葉をきっかけに、34歳でビジネススクールの講師に転職[3][6]。執筆を続け、青樹社からビジネス書や小説『大都会』を出版するが売れなかった[5]。しかし1969年、「ミステリーを書いてみたら?」と言われて執筆したホテルを舞台にした本格ミステリー『高層の死角』が第15回江戸川乱歩賞を受賞する[5]。その翌年、1970年に刊行した『新幹線殺人事件』が60万部のヒットとなり、推理作家としての道が開ける[5]。1973年、『腐蝕の構造』で第26回日本推理作家協会賞を受賞。

推理小説のシリーズキャラクターとして、棟居弘一良(棟居刑事シリーズ)、牛尾正直(終着駅シリーズ)を生み出している。作品は大半が文庫化され、一躍、ベストセラー作家になった。なお、『人間の証明』は映画化を前提に、角川から依頼されて執筆したもの[5]。その際、角川から「あなたにとって作家の証明となる作品を」と言われたことや、“しょうめい”という音の響きを森村が気に入ったことが題名の由来である[12]。

日本共産党機関紙『赤旗』に連載した『悪魔の飽食』シリーズは、旧日本軍第731部隊の実情を明らかにしたものであると作者が主張したことから話題を呼んだ。また、同シリーズの1982年続・悪魔の飽食で掲載した731部隊蛮行の証拠として掲載した多くの写真が、1912年出版の「明治四十三四年南満州『ペスト』流行誌」の記録写真からの流用であると発覚し、森村誠一は公式に謝罪していることも話題を呼んだ。この資料を基に護憲派として、九条の会の講演会などで発言も行っている。

同年代の作家として大藪春彦と交遊があり、森村は大藪の葬式で弔辞を読み上げた。また「思想の違い」を乗り越えて、角川春樹とは同志的連帯感があり、角川が麻薬事件で逮捕された時は、「角川書店の将来を考える会」を自ら主導して結成した。その記録を『イカロスは甦るか―角川事件の死角』として出版した。

晩年~死去
21世紀に入り、写真を用いての俳句に関心を持ち、旅行時や散歩時もカメラを持ち歩いている。写真俳句についての著作は『森村誠一の写真俳句のすすめ』(スパイス刊)がある。このことは2006年3月1日付けの朝日新聞「aspara NAXT-AGE」コーナーに掲載された。また、「アスパラ写真俳句塾」審査員も務める。

2023年7月24日午前4時37分、肺炎のため東京都内の病院で死去した[13]。90歳没。

発言
2015年、平和安全法制成立や改憲を進める安倍晋三政権について、「再び戦争可能な国家にしようとしているが、絶対にいけない。」と批判[14]。また、「組織や権力に庇護されている人間と異なり、国民は自弁というハンディキャップを背負いながら闘っている」と述べた[15]。





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最終更新日  2023/07/25 09:59:23 AM
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