インド放浪記 ハンピ2
ヴィールーパークシャ寺院近くで、気に入った宿を見つけ泊まっていた。今、5月はオフ・シーズンらしく、なんと1泊150ルピーを値切り、100ルピーにしてもらった。それか、80~90ルピーか、忘れてしまったが、観光客はこの暑い時期にはあまりこないとのことだ。 でも、この遺跡群はまだ1986年に世界遺産に登録されたところだから、それほど知られていないのもある。 日中は、岩に光が反射して熱が熱を呼ぶようだ。朝早く出かけ、昼過ぎには、暑さで食欲もなかったりして、だんだん一日まともな食事は一食になってきた。 でも、インドの人たちはもともと、そんなもののようだ。私は朝は軽くマンゴや、クッキーを食べ(インド人は甘いチャイいっぱいと、軽いあげスナックが多い)昼は、暑さで飲み物を飲み寝る。 夕方起きてきてまた、活動にはいる。これが暑い春の楽しい生活なのだ。今朝は川沿いに大きな岩場を歩き、ナンディ像を拝んだ後、アチュタラヤ寺院に行った。 寺院らしき遺跡がちらほらと見えてくると、すごい彫刻にみとれていた。てっきりここが本堂かと思うくらい、すばらしいヒンドゥーの神々をみていたら、遠くに、クリーム色(ピラミッド色!)の崩れかかった大きな寺院が見えた。 大きい! その寺院の入り口には両側にずっと石で柱が出来ていてその中にかすかな日陰が出来ていた。少しでも日陰を歩きたいからその、過去の人々も歩いたであろう参道(?)のような、道を歩く。 ふと、イタリアの教会の彫刻を思い出した。ミラノのドゥオモなど、たくさんの彫刻で教会の建物の外側さえあふれているようだった。 神様のスタイルや様式は違うけれと、人間の神様へのひたむきな思いが彫刻という形をとったことの共通点は、大いにあるようだと感じた。寺院の内部はたいてい暗くなっていて、外は昼間でも懐中電気がほしいくらいのところもある。 その奥まったところから神様がジーっとこちらをみているのだから、一人で寺院に入るととても神聖な気分になった。 ああ、本当にいらっしゃるのだという敬虔な思い。寺院は一人で来るに最適な場所だな、と思う。 その後、裏のマタンガ山に登った。山の頂上にはまた遠くまで見渡せる寺院があって、村を見下ろしていた。 インドで山に登ったのは初めてだけど、日本のように危ないところの鎖など、そこにはまったくなく、実は、あきらめかけたほどでも合った。 暑い日中の時間、日の照る岩場を歩いていると、眼科に広がるバナナ畑が、くらっとゆがんで見えて、危なかった。 岩の斜面のすぐずーっと下にひろがる緑に吸い込まれないように、神様に祈った。「わたしがここで経験していることが本当に神様、あなたのためになりますように。この山を上ることが出来たら、人生をすべてこの地球の為に尽くします。。などなど」本当に、帰ろうかと思った。引き返して、小さな岩のそばの日陰でボーっと遠くまで広がる遺跡をながめていたら、様々な今までの人生の出来事が浮かんできた。 日本の家族との別れ、大学時代、よくキャンプして島に行った事。長野のパンや時代の苦しみから、開放感。恋愛、失恋、人の人生とはなにかわからなくなって、教会に通ったこと。 そして、インドに行きたくて、ここ半年日本にいながら空っぽのような状態だったこと。 少し休んでもいいんだ。人生だってこの山登りときっと同じだ。出来ることは、出来るし、出来ないことは出来ない。でも、ゆっくり挑戦することだってできる。 この山の頂上から見る景色は色々な人の人生そのものかもしれない。いとおしいな、日本が。 インドにきてやっとそう思えた。