「"It"と呼ばれた子」「"It"と呼ばれた子」デイヴ・ペルザー著、ヴィレッジブックス、ソニー・マガジンス発行知人から借りたこの本は三部作、単行本三冊なのだが、一気に2日間で読んだ。 子どもでも読めるようにルビが振ってあり、一般の単行本より行間も広くて読みやすいので、老眼がかってきた私の目でもメガネ無しで読めるため、あっという間に三冊読んだという感じである。 幼児期から実母にひどい虐待を受け、それに気付いた学校の教師からの通報で地獄の家庭から救い出され、里子として複数の里親の家庭で成長し、苦労の末に18歳で空軍に入隊して自立し、様々な苦悩を乗り越えてきた著者の自伝である。 現在は自分の体験を生かし、児童虐待から子供達を救い、あるいはその体験の後遺症に苦しむ子供達を励ます活動を続けているという。 読んでいて、その虐待のあまりのひどさに、読みながら目をつぶってしまうことがしばしばであった。 読みたくもない、想像したくもないようなひどい体験をした子どもが、このように人間性を壊すことなく、自分の心身の限界能力を駆使して生き延び、いわゆる「虐待の連鎖」を断ち切ったことに、心からの感動と尊敬を覚える。 (補足:一般に考えられているよりも世代間連鎖は多くはないようです。ある統計によると、虐待された人が我が子に虐待するのは33%程度とか。決して少ない数ではないけれど、7割は虐待をしていないのですからね) そしてまた、子どもが母親に愛されたい、認められたい、許したいという強烈な願いに、息苦しささえ覚えた。 なぜ著者は、あのような日々の中でも心を壊さずにいられたのだろう。 そのヒントは、虐待を受ける以前の「幸せな家族の記憶」と、彼を助けよう支えようとする他者のまなざしがあったことにあると思う。 特に、里親として出会った夫妻の愛情が、彼を励まし続けていたことは間違いがない。 もちろん、虐待を受け、里親という基本的には他人の家庭で遠慮しながら育ったことは、彼が些細なことにも生きにくさを感じることに繋がっている。 しかし、それは生きていく中で乗り越えられるものであった。 誰もがこのように出来るとは、単純な私も思わない。 同じ状況にあっても、簡単に壊れてしまったり、親や他人への恨みや悪意を肥大化させる人もいるだろう。 その意味で、彼は稀なケースなのかもしれない。 しかし、このような人もいるのだということが、私に希望を抱かせてくれることは確かだ。 今朝の新聞で、児童養護施設で虐待がされていた疑いがあるという記事が載っていた。 現在の養護施設には、ネグレクトを含めて虐待を受けた子供達が多く生活しているはずだ。 親の虐待で傷つき、やっと救い出されて保護されたと思ったら、施設職員による虐待を受けるということが実際にある。 傷つきやすく疑い深くなっている子どもには特別の配慮が必要で、施設の職員の人たちのご苦労は想像できるし、職員も人間だから時には感情的になることもあるだろう。 しかし、子供達は圧倒的に弱い立場なのだから、それを仕事としている人たちは、自分の中の怒りや悪感情を、せめてお給料分だけでも制御して欲しいと祈りたい気持ちだ。 以前、福祉関係者から「里親登録しないか」と頼まれた。 申請用紙や説明書を何度も眺めて考えたけれど、私にはその決断が出来ずにいる。 この本を読んで、またそのことを考えざるを得ないけれど、やはり決断ができない。 そんなに難しく考える必要はないのかもしれない。 普通の日本の家庭生活を知らない子どもを預かるという意味では、以前外国人留学生(高校生)を受け入れた時と同じように考えてもいいのかもしれない。 あの時よりは、日本語で会話できるだけマシかもしれないとも思う。 だが、あれからもう十年近くたっている。 私も50代半ばで、体力・気力でパワーダウンしている。 それを思うと、我家に来てまた失望させることになるのではないかということが、とても怖いのだ。 話がそれてしまったが、今の日本では、PTSDやアダルトチルドレンなどの言葉が飛び交い、心の癒しを大人も子どもも求めている。 もちろん、癒しはとても大切ではあるが、自分以外の何かに癒しを求めるだけではなく、自分自身の力で困難を乗り越えていこうとする意志や行動の尊さと重要性を、もっともっと考える必要があるだろう。 人間には、植物が光を求めるように、よりよい状況を求めて伸びようとする力が必ずあるのだから。 2004年03月03日 |