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テーマ:戦争反対(1187)
カテゴリ:世界あれこれ
成功体験の厄介さ成功体験というのが厄介な代物である、成功体験に取り付かれてしまうと人は容易に変えることが難しいらいしい、明治政府は小笠原の領有権確定のときにうまく言った、そのため竹島の問題を後回しにしてしまったのではないのだろうか、また日本人は領土という概念が薄かった【今も薄い】のかもしれない、 漂流してこの小笠原諸島を最初に見つけたのは1600年代後半にみかんを運ぶために安乗浦を出航遠州灘に差し掛かったところ暴風雨にあって今の母島にたどり着いた。幕府はこの島を調査するために漂流してから5年後に探険戦を派遣して調査した。そのときに地図も作られた。この小笠原諸島も幕府は島がないかのように無視をしてしまいました。 イギリスの探検隊が太平洋の探険調査と北西航路の探検中に行方不明になった船を捜しに行く途中で小笠原諸島を発見しました、イギリスはこの3年後の1830年にハワイで小笠原に住む移住者を募集して移住をさせました、 1800年代になると日本近海までにまで鯨を求めてアメリカを中心とした船がやってきた、小笠原諸島は捕鯨船の補給基地としてにぎわいました。 幕府が日本の領土として重い腰を上げて欧米人が住んでいた小笠原を買い愁傷と動き始めたのが1862年でした、ペリーが日本海州の前に立ち寄った小笠原などについても書かれている航海記で小笠原回収を促したのが触発されたようです、 この小笠原回収で日本は領有宣言をします、イギリスもアメリカもごねることがなく島民達も日本の領有を受け入れました、 欧米人やポリネシア系住民だけだったこの島に日本人を起こりこもうと八丈島に住む人たちを移住させます、しかしこの移住もうまくいかずに失敗してしまいました、 この島が正式に日本領土して認められるのは明治8年であった、七つの海を支配するイギリスも異議を唱えずに日本の領土と認めたのだ、 小笠原は日本の領土となったのかこの小笠原が日本領土となったのはアメリカ側が太平洋航路の補給地として将来的に重要となる寄港地にどうしても英国寮とさせたくないという魂胆があったのかもしれない、またこの領有権をアメリカとイギリスが争う程の価値がなかった殻だろう、 竹島問題についても小笠原諸島の領有権宣言も列強の横槍が入らずに住んだから竹島も無視していても大丈夫だろうと明治政府が考えたのではないだろうか、そのために竹島の領有権は1905年と遅くなったのではないだろうか、 二百年近くもの間に小笠原諸島を無視していた。その姿勢が尖閣諸島を何もしないまま放置していた入り、竹島問題の無関心につながっているのではないのだろうか、 あまりまとまりのない文章になってしまいました、 小笠原の領有権問題は幕末の小笠原【中公新書】に詳しくのっています お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.04.07 21:39:17
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