180826:加筆形式#3(途中):質・クオリアの科学(仮説)~心脳科学(仮説)~世界哲学
筆者がネット上に書いてゐる(載せてゐる)記事sの多くは、主要な言語sにおいては、翻訳されておるようじゃす。その翻訳は大変そうじゃす――さらに加筆形式になると翻訳も読むことも大変じゃろうす――しかるにできるだけ早くアップロードした方がよいでせふと筆者は考へておるのじゃす――。特定の専用ソフトを用いれば、そこらの困難は大きく減じられることは周知じゃろうす。で、一応仕上げたら(とゐってもさらに加筆していくじゃろうすが)告知しませふ(これは過去にも書きもうした)。(――筆者が書いている記事sは、書きなぐりのようなものであって、どれもが不完全であり、これからも加筆と訂正をつづけていきもうす――――それと・・・学校で学んだ内容以外については、本スレッドの論などを研究するのに必要な程度(かそれ以上)の習得しかしていないのじゃす。なにもかも知っているなどということは全くありもうさん)。・・・筆者の研究とウェブへのアップロードも極めて大変じゃす。しかるに、筆者は苦しひながら、やり甲斐・生き甲斐を感ずるのでさういふことを続けておるのじゃす(――本スレッドなどの記述量は膨大なので、読み返すことも大変であり、重複や間違い、いいかげんなところ、加筆修正すべき個所sも多いでせふが、そこらについてはご了解あれかし――)。・・・ともあれ、筆者が英訳せずとも済み、ありがたひことじゃす。よき時代になりもうした。それらをぜひ有効・有意義に活用してくだされ。・・・過去に、心脳科学(仮説)の概要を、英訳していたのだが、主要な言語sにおいて、翻訳されていた・いるとなれば(ありがたいことに「ブロックチェーン的になる」)、翻訳の必要がなくなったので、その英訳を途中までで打ちきっているのじゃすた・・・本スレッドには、心脳科学(仮説)本体の一部、質の科学(仮説)、世界哲学などと、それらに関連した内容を載せておりもうす。本スレにある設問シリーズは千差万別じゃす。「運命のノートシリーズ」も書いてありもうす。「チャプター加筆形式」の記事シリーズでは、これがチャプター#3じゃす。「チャプター加筆形式」の記事シリーズとしては、#1~#2~#3のほかにも、膨大な文章を書いている(3月25日・今加筆中の#3は、#882である)筆者は、このシリーズをいつ書かなくなるかわからないので――人間はいつ死ぬかわからない、という意味をも含めて――すべての人間が、なんにおいてもそうじゃす――、メモのような書きつけをも載せておきもうそう。☆毎日あちこちに加筆しているのじゃすが・・・さて、今回は・・・1月13日の分が膨大じゃったので、読んでいる・翻訳している方々が消化不良を起こさなひように、少し載せることにしませふ・・・といっても大量に載せることもありもうすが・・・☆グチを一言・・・読み返さず新しい内容を書くことはかなり気楽にいけるんだが、本文を読み返して加筆やら推敲をなすことは、意欲と調子がでてノリノリの状態にならないときわめてむずかしいケースがかなり多い。筆者の得意技の寝ぼけたような心脳の状態では、そういったことは大変だ。そういうばあいはうんざりすることもけっこう多い。自分で好きでやっているにもかかわらず「これを読み返して手を入れるのか。いったいなんの罰ゲームだ! 」といったところである(笑)。・・・つひでに・・・筆者は、ウェブ上に載せる文章も、だいたい一発殴り書き、がほとんどで、読み返して加筆訂正することはまずはないままに、載せている、という実態にありもうす。加筆訂正推敲はそのうちやろう、ということなんじゃらす。それでなければ、筆者の身体も頭も、もたない、といったところなので、ご了承あれ。何も書かないよりはマシだと思し召しあれかし。(・・・ここでコフィーカフェブレイクを・・・――「オボシメシ」とは、新種のウメボシと白ご飯を併せた、ウメボシおにぎり(おむすび・地域によっては)のことではないのじゃらすが、そうオボシメシしてウメボシおにぎりを食べるのも一興でせふ――;・・・ついでに・・・「おにぎり」、というのは、手でおにぎりを作る様子からの具体的なネーミングで、「おむすび」というのは、ご飯粒をくっつけてひとまとめにする(結ぶ)、といった感じで、ちょっと抽象的なネーミングになっている、と思う。「おむすび」も、手でそうやってご飯粒をくっつけて「ひとまとめにしている様子」からきている、と解すれば、「おにぎり」と似てくるが――)☆☆☆加筆用(どこかに挿入):・・・以下これは、考えられることを試みに考えてみた(みる)だけであり、同じく書けるだけを書いてみた(みる)だけであって、仮説とも言えないところの想像対象内容~想像対象描写(記述というより描写と言った方がいいだろう)にある・・・さて、「心器」というハードウェアの「基本要素s構成」というか「機械的構成」というか、「物理的在り方」というか、それを考えてみよう・・・まず、心器としての、その形状を、「偏球体(楕球体というよりこれがいいだろう)」を考える。で、心器は脳に重なってあるフィールドである――いくらか脳からはみだしているのかもしれないが――。・・・参考・・・あとに述べる意識器なるフィールドの形状も同じくそう考えていいだろう。で、心器と意識器は共有部分というか接続部分があるだろう。共有部分か接続部分がなくても、それらの間で情報のやり取りができる在り方にある――主に心器から意識器へ情報が行く――。本論の初めに、脳、心器、意識器を、3っつの円で描く――いくらか重なった部分をもって――と、述べた・――それは、ミッキーマウスの影絵を考えて、その耳2つがいくらか重なっているような図である(これは初めての描写である)――。・・・それは平面図である。ここでは、それをさらに詳細に記していこう・・・以上、参考・・・参考からでて・・・その「心器のフィールド」には、無数の振動体・共振体(これはここでは不可算で単数表記)という素子がある。その共振体は1つの振動数・周波数だけではなく複数の振動数に共振する。かなり多くの振動数に共振する素子もある――つまり、1・「少ない振動数に共振する素子から(ひとつの振動数だけに共振するという素子もあるかもしれない)、多くの振動数に共振する素子までがあり、それらの中間にさまざまな、そういった素子(共振素子または共振体と呼ぼう)がある」。――それはちょうど、タンパク質が、さまざまな「情報スペクトル要素s」か「情報スペクトル」の発受信ができること、つまり、タンパク質が複数の振動数の赤外線sの発受信ができること―それは直近上述の「1」と同じ―に対応した実態である――。で、考え方として・・・というかそこの描写として・・・、脳に近い方から、脳からの情報が心器に入る。その情報とは、情報スペクトル要素や情報スペクトルでありディジタルである。心器からの情報が、脳に近い方から脳に行く、・・・と考えるというか描写する。・・・参考・・・実際はそれ「直近上述」と同じ事象が起こるが、物理的に「脳に近い方から」ということはない可能性もある。つまり、物理的には、直近上述より心器からより離れた脳からの情報が心器に入る可能性もある(なんらかの空間――それもフィールドである――を、情報スペクトル要素や情報スペクトル情報が移動する、ということである)。脳への情報も同じくそうである。しかし、考え方としては上述のようにそう考えるというか、そう描写すると、わかりやすい。・・・以上、参考・・・さて、意識器は、脳から、「情報スペクトル要素や情報スペクトル」を取り込んだり、脳に、「情報スペクトル要素や情報スペクトル」を送り込んだりしている――本仮説s体系においては――。・・・ここで、煩雑を避けるために、「情報スペクトル要素や情報スペクトル」を「J(情報素子s)」と記すことにしよう・・・さてここで・・・、1・脳からJが心器に入るばあい2・心器から脳にJが行くばあいという、ふたつのばあい分けをしよう。「1」で・・・心器の入り口あたり――Jが入ってくるあたり。土の詰まった容器に液体を入れるばあい、入り口から入れるわけである。それをイメージしてほしい――に来た「J=多数の情報素子s」は、そこにある無数の共振素子sのうち、それぞれが共振する「A・共振素子(s)」に共振され取り込まれる(それぞれの共振素子は、複数の振動数・周波数に共振する。単数の振動数に共振するものもあるだろう。―既述―)。(ここは図示するといいんだが、めんど草草なので載せないことにしよう・・・用紙に描くのはかんたんなんだが・・・。ほかにもそういう個所はあったし、これからもあることでせふ・・・。・・・しかしまあ、そういった内容を言葉で理解しようとすると頭が鍛えられるでせふ)B・そして、「A」はそれぞれが、今度は発信(発振) して「J」を放出し、より奥にある共振素子(s)に共振され取り込まれる。(ここらへんも、単数と複数の扱いがむずかしい。むずむずするくらいに、むつかしい・むかつしい。他sとの関係で、一意に決められないところがあるのである。―しかし意味は通じる―)そしてさらに、「B」の事象が、より奥の方へと、ずっとつづいていく。3・以上のその過程において、「充分に学習を済ませ(といってもその先も学習はつづいていくが)鍛錬された心器は、知性を働かせ理活をなし、その心器にとって納得のいく(できるだけ納得のいく)情報に「J」たちを構成していく。そしてさらに、「3」が一応済んだとして・・・4-1・そこで構成された「J」の一部(か全部)を心器に送り込むケース4-2・そこにおいて、意識器に送り込むべき「心的内容情報スペクトル」が構成されたケースでは、それが意識器に送り込まれ、意識器においてそれが「エネルギー波動モード意識内容」となって、意識し味わわれる4-3・「4-1」と「4-2」が同時になされるケースもありうるそういう事象実態が考えられる。さて・・・、共振素子がなんらかの「J=情報素子s(心的内容情報スペクトル要素s)」に共振し、それらを取り込むばあい・・・1・ひとつの情報素子に共振してそれが成される2・複数の情報素子sに共振して(下の「3」を除く)それが成される3・「2」において、任意の共振素子のもつすべての「振動性」が「情報素子s」に共振したばあいに、それらすべての「情報素子s」を、その共振素子が取り込む(ややや、ややこしい)そして、「1」、「2」、「3」、において、「J=情報素子s(心的内容情報スペクトル要素s)」に共振し、それらを取り込んだ「共振素子」は、条件が満たされれば、発振し、「J=情報素子s(心的内容情報スペクトル要素s)」を放つ。ここでも、ばあい分けが要る。「1」、「2」、において・・・、共振素子にある多数の共振素子sの中で、受振した共振素子(s)以外について・・・4・エネルギーが完全供給されるケース5・一部供給されるケース(加筆)さてそこで、主に「1」と「2」から、新しい論理展開が始まる、と言える。しかも、「1」-「4」、「1」-「5」、「2」-「4」、「2」-「5」、における論理はそれぞれが異なる。(要解説)(加筆)(加筆)(・・・ここで、飲み物休憩のひとときを・・・)(加筆)・・・ここで、検討課題を・・・その前に条件を付そう・・・以下においては、上述「4・エネルギーが完全供給されるケース」と、上述「5・一部供給されるケース」それぞれのばあい分けが必要である・・・6・それぞれの「A」が、「J」に共振しても、それを取り込むか、取り込まないか、その「A」が判断する能力――取捨選択する能力――をもつかどうか7・それぞれの「A」が、共振取り込み(受信)をなしたあと、その「A」のもつ「J=情報素子s(心的内容情報スペクトル要素s)」を放つ=発信するか、どうか判断する能力をもつかどうか8・「7」において、発信するばあい、その「A」のもつ情報スペクトルの一部を発信する(取捨選択して)能力があるか否か9・「7」において、発信するばあい、その「A」のもつ情報スペクトルの全部を発信するケース(これは自然である)(やややのやのやのややこしい)以上からも、理活についての内容がでてくる。(加筆)・・・さてそこで、以上において詳細なばあい分けと分析を省いて・・・そこらにおける理活について要約すると・・・そこにあるあらゆる共振素子について言って、A・任意の共振素子が、より少ない情報素子s(単数を含む)に共振し取り込み、その共振素子からの発信において、それより多い情報素子sを放つ、そこに理活作用の重要な「一面(一種)」がある、ということになるだろう。直近上述「A」・・・それも、心器による「理活の一種」であるが、それとは別に、B・「心器のもつ自由意思による理活」という能力がある(――自由意思・意志については既述している――)。そこで、「B」の検討に入ろう。――それ「B」については「できる範囲内で」既に論述している・・・しかし残念ながら、そこでは、その機構・メカニズムについては踏み込めていない。・・・そのメカニズムについて、上述を含めてそれ以上の分析ができるかどうか・・・・・・その前に、ここで、既述したその内容を手短に記すと・・・「統計と確率を適用する」、「しかし、その統計と確率も、自由意思・意志によってひっくり返せる」、「それは、運命破りのパラドックス(それについても、筆者が解明・解決した論を既述)に似ている」、といったようなことである・・・――。さて、「B」の機構についての検討だが・・・いや、まてよ・・・またまたその前に、必要なので・・・「自由意思・意志」について既に述べているので、その脚短か、ではなく手短か言葉短かな要約を載せると(新たな工夫をも入れて)・・・1・「自由意思・意志」とは、「何かを変えたくなったばあい、や、何かを検討し決断する必要がでてきたばあい、そのほかのばあい、などにおいて、まず考え、それについての情報を集められるだけ集め、それを検討し、相談すべき内容や相手について考え、そこで必要と判断したら、相談すべき人や団体に相談し、以上それらを検討・考察・取捨選択・勘案・斟酌して、結論をだし、それを実行する」・「かんたんに考え判断し決断できる対象においては、かんたんにそうする」、2・「1」以外のほとんどのことにおいて、自由意思・意志を発揮するのは、無意味だしバカげているし生活していけなくなるので、そういったことにおいては自分の習慣や社会的慣習に従うのがベストである(社会的慣習などを変えたいというばあいは、「1」になる)。――たとえば、顔を洗うとき、どんなふうに洗うか、とか、玄関からでるときに、どちらの脚(右か左か)から踏み出すか、とか、道を歩くときに、どういうふうに歩くか、飲み物を飲むときに、何回で飲み干すか(なんらかの儀式以外において、こういうことを考える人はいないだろうが)、とか、爪がどのくらい伸びたら摘むか(こういうことを考える人はいないだろうが。普通は、ある程度の伸びに気づいて摘むかどうか判断するぐらいだろう)、とか、・・・などなど、そういったことにおいては、自分の習慣に従うのが、あたり前田君の当然田君である。・・・そのほか、日常生活のほとんどにおいて、そういうことが言える――。さて、いくらか前に戻って・・・「B」の機構・メカニズム・機序についての検討だが・・・このセクションで述べた、「心器の構造」において、「自由意思・意志」が、どのように発揮されるか、まずは考えてみよう・・・1・「自由意思・意志」が「心器」の受け取る情報素子sの取捨選択をなす。2・「自由意思・意志」が「心器」内で情報素子sを望みどおりに構成・構築する。――注・・・3・ただしこれ「2」は、「普通の意味での意識内容」を構成するばあい・つまり・生活などにおいて、聞いたり見たりなど五感からの情報を構成するばあい・もちろんそれを心器が遮断せず、意識器にその情報を送り込むばあいについて言っている――それを除いて言っている(ここの文章はわかりにくい。その先書き改めようか? 。しかし、以下にわかりやすいようにそれを記そう)・・・・・・その解説(「3」の)をつづけると・・・そこにおいて、そういった情報の多くは、心器によって遮断され(見たり聞いたりする情報は遮断されにくい)、一部の情報が意識器に送り込まれる・・・つまり・・・見れども見えずとか、聞けども聞こえず、とか、ほかの五感からの情報もそういったことになるケースがある~そういったことが多いケースもある(見たり聞いたりする情報は遮断されにくい)。・・・そこらをこう表現しよう・A「生活において、主に、心器が着目している情報・五感からの・を、心器が意識器に送り込む」と。・・・つまり、「2・「自由意思・意志」が「心器」内で情報素子sを望みどおりに構成・構築する」ことは日常生活においては、少ない実態にある、ということを、この「注」では言っている。B「「2」は主に、創作・創造や、よく考えたり慎重に判断するばあい、などにおける心器の働き「理活」について述べている」。以上を要約すると・・・心器における理活には、そういうふうに、大体にばあい分けすると・・・、A「生活において、主に、心器が着目している情報・五感からの・を、心器が意識器に送り込む」ばあいの理活――自然な流れの理活――と、B「「2」は主に、創作・創造や、よく考えたり慎重に判断するばあい(総合判断)、などにおける心器の働き「理活」について述べている」ばあいの理活――自由意思・意志を働かせる創造的理活――、の二種類がある(もっと細かく分類できるだろうが、とりあえずこう述べておこう)。・・・以上、注「3」・・・――・・・この「注「3」」も検討課題になるが、それについてはかなり詳細に論じている・・・上述「A」においては、心器と脳とのやり取りは(ほぼ)一回だろう。つまり、脳から心器に行った情報が心器で構成され、すぐ意識器に送り込まれるだろう(上述に「(ほぼ)」と入れたのは、複数回にわたるケースがあるかもしれないからである)上述「B」においては、心器が脳と複数回の情報のやり取りをなして理活をなし心的内容を構成する。その複数回という回数は、数回~もっと多い回数~数分間の間に多数回~~(省略)~~数時間の間に多数回~一日の間に多数回~何日にもわたって多数回~~(省略)~~何年間にわたって超多数回~~(省略)~~、などなど、千差万別である。ここで、確認のために記すと・・・目的をもったほとんどの創作・創造をなすばあいや、総合判断するばあい(総合判断については上述のほかにも既述(総合判断という表現は上述以外では、たぶん用いていないだろうが))、などにおいては「自由意思・意志」が必須である。さてそこで・・・、その「自由意思・意志」はどういう機序で発現するのだろうか・・・そこにおいては、心器というフィールドがあり、その上に、「自由意思・意志」という理活するソフトウェア・プログラムがある、ということなんだろう。ただし、普通の意味での理活――上述したとおり――と「自由意思・意志」による理活はレベルが異なる。前者の理活は自然に進む。後者の理活には、文字通り「自由意思・意志」がある。そこ「自由意思・意志」なる理活は一体どうなっているのだろうか・・・うーん、さて・・・、うーん・・・・・・これは、そういう摩訶不思議な能力が心器おいて発現する、としか言えないのだろうか――既述しているように――・・・うーん、これについては既述しているように、どうしようもない謎であり解明不可能なんだろう・・・それは、統計・確率的にしか扱えないのだろう・・・・・・しかも、「自由意思・意志」はその統計・確率を自由にひっくり返せる――既述しているように――。(加筆)・・・・・・以上、むつかしくてむかつしいので、ここで、関連あるお遊びに突入して、ナゾナゾしいナゾナゾ問答を・・・問い「さて、みなさん、『自由意思・意志』はどういうふうに発現するのでしょうか? 」Aさんの答え「心器というフィールドがそういう働きをもっているのです。『自由』なんだから、自由にそう働くのです。『自由』という言葉にそれが表われています」Bさんの答え「『自由意思・意志』という『気体のような存在』があるのです。それは『自由』に形や形態を変えることができます。おまけにその働きも『自由』です。自由自在とまではいきませんが」Cさんの答え「『自由』とは、『自らに由る』という意味です。つまり、『自分にもとづく』という意です。『自由意思・意志』はそのとおり――自分にもとづいて働く――のです。そこを解明してその仕組みがわかるとしたら、そこに『自由』はない、つまり、『自由意思・意志』はない、ということになって、矛盾に陥ります。つまり、『自由意思・意志』の仕組みの解明はできないということです」Dさんの答え「世の中には、摩訶不思議・奇妙奇天烈・奇跡・不可思議、そういった存在という何かがあるのじゃ。それは、言葉や図などで表現できない、どうしても解明できない、人間の知性では把握できない、そういった存在じゃ。『自由意思・意志』もそうであって、それは、人間の知性の上にある何かなのじゃ。それはちょうど、『二次元プラス時間にある存在』が『三次元プラス時間にある存在』を解明できないようなものじゃ。ただし、時折、後者が前者に干渉して、ちらほらと前者に後者の存在がわかることはあるわけじゃ。それは、アリと遊ぶ人間のような関係にあるんじゃ――このたとえは本などでみかけるのう。言葉をかえればじゃ、その程度しかわからない、と言えるのじゃ。つまり、『自由意思・意志』もそういった存在であって、人間の知性には、その程度しか認識できないのじゃ。ましてや、その仕組みは永遠に謎のままじゃ。Doうじゃ、わかったかな」Eちゃんの答え「Eーだ。そんなもん、わかるはずないじゃん。Eひひのひ」Fさんの答え「FuFuFu。Fuラチな謎をかけおって。そんなものに答えがでたら、不自由になるではないか。まずは、不自由の解明をすべきじゃろう。FuっFuっFuっFu」Gさんの答え「爺さんが思うにじゃ、そげなむずかしい問題はうっちゃっておくのじゃ。そしてじゃ、自由に遊ぶのじゃ。そこにこそ自由があるではないか。そしてじゃ、その遊ぶようすを解析するのじゃ。しかし結局は何もわからんじゃろう。Guはははは」Hさんの答え「HeHeHe。そんなHeンナ問題をだす者はHeンタイといってじゃな、奇妙奇天烈人間というもんじゃ。奇妙奇天烈な問題に答えはないんじゃ。その答えがあるとすれば、奇妙奇天烈な答えじゃ。Hiっひっひ」Iさんの答え「I think that そんな問題に答えはなiことに決まってiるんじゃ。Iっhiっhi」Jさんの答え「JaJaJaJa~ン。Jaンネンながら、そんな問題には答えはないんJa。と、ベントーベンを食いながらベンじておこうぜよ。JaJaJaJa~ン。Jaはははは」Kさんの答え「Kaイジュウ曰くガオウ、ガウガウ、ガオウ~~~ガハハハハ~~~Kaハハハハ~~~」Lちゃんの答え「そんな問題を解いても、Lところはないじゃん。そんなことより、LaLaLaLaLa~ン、と遊ぶのさ。LaLaLaLaLa~ン。Laはははは」Mさんの答え「MuMuMuMuMu。Muずかしいのう。そんな問いはMuシするぜよ。そんな問題を追究するのはMuだだぜよ。Muはははは」Nさんの答え「Naんの答えもでないじゃろう、そんNa問いには。Naはははは」Oさんの答え「Oh。むずかしいのう。Oh、No。しかし、二年後あたりに解答を教えてしんぜよう。Ohoン。Oはははは」Pちゃんの答え「Pi~ひょろろ・Pi~ひゃらら。そんなもん、空を自由に飛んで答えを考えようよ。Pi~ひょろろ・Pi~ひゃらら。Puはははは」Qちゃんの答え「Qクツな問題じゃん、そんなの。QQに答えを出すべき問題じゃないじゃん。Quはははは」Rちゃんの答え「Roウリョクのムダだっちゃ、そんな問題を考えるなんちゃ。それよか、RuンRuンRuンと遊ぶっちゃ。ちゃっちゃっちゃっ。Ruはははは」Sさんの答え「Soうじゃのう、Soんな問題はそのうち誰かが解明するじゃろう。Suはははは」Tちゃんの答え「Toんでもない質問じゃん。そんなToいは、Toけて流れて質問者を濡らすだけ、になっちゃいそうじゃん。ん? なんのこっちゃ。Toはははは」Uさんの答え「Uはその答えがわかっているんじゃろうか。わかってもないのなら、そんなこと問うこと勿れ、と、イニシエの誰かが言ったことがあるとかなんとか、そんなことはないんじゃろうか。Uはははは」Vさんの答え「Vマークじゃ、そげなもん。そのうち答えを教えてしんぜよう。千年ぐらいあとの話しじゃがな。Vuはははは」Wちゃんの答え「WouWouWou。自由に歌って踊れば答えがでてくるよ。WouWouWou」Xさんの答え「その問題の基本要素たちをXiと置く。それを連立方程式に仕立てて、コンピュータに解かせれば、一発でコンピュータは壊れてしまうじゃろう。コンピュータには自由意思・意志がないからそうなるんじゃ。Xaはははは」Yさんの答え「なんとまあ、ここはYYガヤガヤとしてることじゃろう。その調子で秋祭りをやれば、答えがでるじゃろう。Yaはははは」Zさんの答え「Zoっとするような問題じゃ。そんな問題を解いたら、人間の自由意思・意志がなくなる、と、たしか誰かが言っとったな。そこでじゃ、そうなればせっかく解いたその答えも消えてしまうことになる。答えが消えれば、自由意思・意志の復活じゃ。ディレンマに陥るのう。運命破りのパラドックスに似ているのう。楽しい愉快な問題じゃ。Zuっひっひっひっ」・・・以上、関連あるお遊びコーナー・・・・・・(加筆)・・・参考1・・・以上において、「心器の仕組み」について考えるにあたって(――「心器というフィールド」はそのずっと前に発想した。ここでは「理活能力をもつ『心器というフィールドの仕組み』」について言っている――)、まず、「心脳科学・仮説」本論に書いているように、そうとうな昔、筆者が考えた「共振素子知性組織」(そこでは共振素子は多数用いるが、ここでは集合名詞で不可算であり、単数表記にある)(共振素子知能組織でもいい)が念頭にあるしあった。つぎに、場の量子論におけるモデル――そこでは無数の振動子sを考える――が、いくらか頭にあったと思う。・・・それについで、脳におけるニューロンsの形成する回路sのような実体とそこでの実態――重みづけを含めて――、ついで、そこから発想されてきたパーセプトロン、さらに、ニューラルネットワークの概念とディープラーニングの実態(そこにはさまざまな工夫がある)、もいくらか頭にあったと思う。・・・以上、参考1・・・(加筆)さてつぎに、心器と同じように、意識器について考えてみよう・・・「意識器というフィールド」の形状については、上述の「心器というフィールド」のそれ「形状」、と同じように考えていい。そこで考えてみるに・・・1・意識器というフィールドにも、心器というフィールドと同じように、無数の振動子sが埋まっている――ただし、それら振動子sは意識器というフィールド専用である――。2・「1」ではなく、「意識器」専用の流体のような何かが詰まっている2-1・ガス体しかしそれも基本的な粒子のようなものから成る?2-2・液体しかしそれも基本的な粒子のようなものから成る?・・・ややこしく考えてきたが、要するに・・・、「意識器というフィールド」は、「超絶に複雑精妙な波動モード(態様、様態)をもち、しかもその波動は複雑精妙で無限に変化する」という波動性をもち、しかもそれは「意識し味わう働き」をもっている、それを実現する何かが「意識器というフィールド」には詰まっている、ということである。こう書くと、身も蓋もなくなるが、その検証はできそうにもないので、こう書いておこう・・・。(加筆)(・・・ここで、ちょっと引っかかったので、ことばのクオリア研究を・・・上に自然にサッとでてきたんだが、それでもなんか訳のわからない文言「身も蓋もない」について・・・・・・辞書6つ目でようやく意味の成り立ちがわかった・・・器において、「身」は物を入れる部分、蓋はその蓋、だそうだ。身も蓋もないと、容器の体を成さないことからの、ことわざだそうだ(以前、それをチラッと読んだことはあるが)。で、その意味は「あらわに表現しすぎて、含みや味わいがない」、といったことだそうだ。つまり、このばあい、「ことば」という贈り物を相手にするときに、包装などしないで、その物だけを露わに突き出す、といったような意味なんだろう(それは行為などにも使えそうだが――そんなことするするなんて身も蓋もない、などと――しかし、辞書には、「ことば」関連の例しかでていなかった――)・・・。・・・うーん、それは、上に書くときにすぐさっと出てきた表現なんだが、そこにはあまりふさわしくなさそうだ、しかも、「身も蓋もない」についての筆者の意味の把握もいいかげんだったと思う。・・・しかし、上に書いたのはそのまま残しておこう・・・)・・・参考2・・・・・・さて、これは、かなり以前に書いたことであるが・・・「心脳科学は超ひも理論と相性がよさそうだ――超ひも理論は心脳科学と相性がよさそうだ――。とくに、超ひも理論における『ひも(弦)』は、複雑な振動モード・パターンを記述できるので、それ『ひも』は、心的内容情報スペクトル要素sや情報スペクトルを記述するのによさそうだ――」、「心脳科学を満たすように超ひも理論を構築すべきでせふ――超ひも理論を万物の理論というからには――。しかもそうすると、超ひも理論の、あまりに広がりすぎた在り方・可能性、を絞ることもできる。つまり、超ひも理論の構築もやり易くなる」という想像がつく。・・・以上はかなり以前に記した内容・文言である(以上の文言はそのコピーではなく、今回新しく書いた――そこには新しい工夫もあると思う――)・・・で、今度は、直近上述「参考2」、そこの内容をも含めて考えて・・・離れた上述・「その共振体は1つの振動数・周波数だけではなく複数の振動数に共振する」、を記述するのに超ひも理論の「ひも(弦)」はうってつけのように思える、という発想もでてくる。・・・以上、参考2・・・(加筆)・・・さてここで、一応、総まとめ――というほどでもないが――を、いいかげんで・てきとうに、やっておこう・・・・・・まあそれは、言ってみれば、筆者得意の、哲学的なフニャ論なんだが・・・意識器が意識し味わう働きをもつのは、この宇宙・世界の要請による。既に詳述しているように・・・この世界に意識(意識器)がないとこの世界はないに等しい。つまり、物質の世界だけがあって、精神的な世界・意識の世界がないと、この世界はないに等しい、と言える。この世界のさまざまを意識し味わってくれる存在「意識」がないと、そう言えることになる。そんな無意味で無駄なことをこの世界がするはずはない。よって、「意識器が意識し味わう働きをもつのは、この宇宙・世界の要請による」と言える。しかも、意識が存在するのは自明である。しかし、その「意識・意識器」の仕組みと働きの基本原理は解明できなさそうである(今までのところ、そうである)。単に、「意識・意識器」には「意識し味わう働きがある」と言えるだけである。それ以上のことは今までのところわからない。で、同じく、心器が理活などの知性をもつのは、この宇宙・世界の要請による。なぜなら、そういった「心器」がないと、意識はこの世界のさまざまを意識し味わうことができないからである。――ただし、心器がなくても、意識・意識器は「ほんの少し」はこの世界にある情報を意識し味わえる可能性はあるが、それでは寂しすぎる。豊穣で精妙なこの世界の存在のほとんどが無駄になる。そんな無意味で無駄なことをこの世界がするわけがない。よって、「心器が理活などの知性をもつのは、この宇宙・世界の要請による」と、そう言える――。で、その「心器」の仕組みと働きの基本原理は、意識器と同じく、解明できなさそうである(今までのところ、そうである)。単に、「心器」には「理活などをなす知性がある」と言えるだけである。それ以上のことは今までのところわからない。・・・このフニャ論セクションの立つ立場は・・・「この宇宙・大自然は、実際もの凄い世界を創り上げている。それは明白な事実である(と我々は認識する)。そんなもの凄い存在が無意味でムダなことをするはずがない。――ただし、質の対生成と質のもつれ、質時間回帰則には、この宇宙・大自然・世界といえども逆らえない――そういう観点から言うと無意味・ムダはあるにはある――。ともあれ、この宇宙・大自然・世界は、途轍もない実態にあるので、上述「そんなもの凄い存在が無意味でムダなことをするはずがない」と言える。しかも、このこの宇宙・大自然・世界は、「意識・意識器」の仕組みと働きの基本原理は解明できない、「心器」の仕組みと働きの基本原理は、意識器と同じく、解明できない、そういうふうにできている、のだろう。なぜなら、それらの解明ができるとなると、人間のような意識をもった存在は、より一層大きな不自由を得ることになるし、人間社会に、より一層大きな混乱をもたらすことになるからである――解明できないばあいに比して――、くわえて、人間のような意識ある存在にとって、この世界がより一層つまらない存在になるからである。(・・・・・・とは言え、そうでなくても――それらが解明できなくても――、この世界は非常に混乱しているが・・・・・・)(加筆)(上略)(・・・以上の数学的新しい理論――ゼロと無限大関連の数学についての新しいアイディアにもとづく――は、ほかのところでさらに詳しく述べてある・・・)――数学の進め方~構築というのは、そういうものである。ただし、それが現実の世界に対応しているか否かは別の問題である。――そこらについては既に詳細に記してある――。さて、以上の数学を宇宙の空間と時間について適用していいのかどうかという問いも当然ある(――現実に対応しているかどうか、という問題――)。そういう問題は蹴っ飛ばしてほったらかしておいて・・・もの凄く美味しい世界に突入してみよう・・・つまり・・・以上の数学を宇宙の空間と時間について適用してみよう、ということ・・・空間について言えば・・・「こっちの方(ある方向)にどこまでもずっと行くと、反対側からでてくる」となる。時間について言えば・・・「永遠の未来は永遠の過去につながっている。永遠の過去は永遠の未来につながっている」となる。さらに、「宇宙は、永遠の未来に到達すると、新しい周期の宇宙に入る」となる。(――それらが現実を記述しているかどうかは、別な問題である――)・・・さてここにもうひとつおもしろい論を加えよう・・・・・・宇宙の永遠性や、意識~生物の永遠性などについて、適用できるかもしれない内容を含んでいる可能性があるので、やってみよう・・・その上記の数学理論を適用すると、以下のように、そういった難問もだいたい理解納得できる・・・まず・・・自然数を無限に足し上げていくと、どうなるか? という問いについて考えてみよう・・・「ある時点で、自然数に『自然に』マイナスの性質(符号)が入り、前に加算してきた数をつぎつぎとすべて打ち消してしまい、ゼロに収束する」、という信じられない結論を得ることができる。つまり、自然数にマイナスを付した数も、自然数の仲間なのだと、いうことになる。・・・ただし、初めに、マイナスの概念を持ち込んでいるところにはひっかかるが。・・・ただし、「無限に足し上げる」のである。「無限」の中に「マイナス」の要素が含まれている、と解釈できる。無限だと、プラスも反転してマイナスがでてくるのだろう――先に述べたが、「(実数の)二次元座標を考えて・・・X軸のゼロあたりを見ると、マイナスゼロ、ゼロ、プラスゼロが隣り合って並んでいると結論できる――。で、ここで、それをもとに、もっとも基本的な無限大について考えて見ると・・・(まず一次元座標で、ついで二次元座標で考えて)・・・1/-0=-∞、1/0=∞、1/+0=+∞、が並んでいるように見える。」を参照されたい――。「無限」は「曲者」、「無限」は「魔術師」、「無限」は「魔物」、といったところだろう。つまり・・・ゼロと無限大は、プラスとマイナスという性質をもっておらず、そこに至り通過するとプラスとマイナスが反転する、ということなんだろう。(・・・注・・・この理論によれば・・・ゼロの絶対値はゼロで、マイナスゼロとプラスゼロのそれぞれの絶対値はゼロでなく「状態量・無限小」である。マイナス∞とプラス∞の絶対値はそれぞれ、「状態量・無限大」である。そう記述できる。で、単なる「∞」の絶対値については後述する(この項はあとから記した)・・・)・・・確かに、自然界にはプラスがあればマイナスもある。それも質の対生成で説明がつく・・・たとえば、数が発生するにあたっても、なにもないところ・空、から生じるので、1とマイナス1、2とマイナス2が対になって生じる、足し合わせるとゼロになるように発生する、といったことである。ベクトルで説明しても同じようなことになる。なにもないところ・空、から、ベクトルが生じるとすれば、あるベクトルと、その反のベクトルが対なって生じる、といったことである・・・。さらに、そこには質時間回帰の要素も入っている――このばあい、あとに詳しく記すが、自然数を無限に足し合わせると、ゼロあたりに収束する、という実態に質時間回帰の要素がある、ということである――・・・。(――おまけに、そこの計算にゼータ関数を用いるばあいは、奇妙な数学的操作をしたうえに、複素数を用いるのである――自然数を扱っているのに、マイナスの数、虚数、まで使うのである。・・・それが正しいとして・・・「無限」には虚数まで入っている、と解釈するしかない――)。直近上述ひとつのカッコ、と、その直前の一項の前に戻って・・・そこまでは、「トンデモ」である。(以下「 」内は最初に手抜きして書いたもの――「いくつかの無限級数において、無限に足し上げたその結果が、「ほぼゼロ(ゼロとマイナス1の間あたり)」に収束するという結論が、いくつかのやり方で打ちだされている(――そのひとつは、超弦理論にも適用されている――)。その結果を自分(人)に納得させるには、上記の理論と、直近の「トンデモ」な結論から、だいたい納得できるのではないだろうか? (――そこを精密には検討していないが――)・・・・・・」)以下、直近上述「 」内に加筆・・・ここらは(も)かなり前研究していたのだが、怠けて(――筆者の得意技・・・筆者は極上のめんどくさがりであるし、書くべき内容があまりにも多いので当然そうなるのはあたり前田君である・・・それに筆者はそういった研究にやり甲斐・生き甲斐を全身全霊で感じているので、研究をやっており、それをネット上に載せているだけだし・・・と弁解しておこう――)手短に書いたので、それに加筆しよう・・・・・・しかし加筆する前に・・・それに関連して心脳研究として、ついでに・・・筆者は本論やそのほかについてのアイディアsをさまざまよく思いつく。それらを用紙に書き留めてある。そこでの思いつき~発想は、前から心に引っかかっていたもの、時々考えていた対象についてのもの、ひらめき、関係ない本を読んでいて思いつくもの(本の内容~読んでいるところとは関係ない)、などがある。さらに、書き留めていると新たなアイディアがでてくることも多い。で、それらをPCに打ち込もうと思ってはいるのだが、たくさんありすぎて、かなりの数のアイディアはまだPCには書き込んでない(あまりにめんどうだからである)。それから、用紙に書いたりPCに打ち込んでいると、新たな発想がでてくることも多い。用紙の書きつけやPCで読み返していても、新しいアイディアがよくでてきてさらに書き込む。用紙に書くにせよPCに書くにせよ、同時多発的にアイディアがでてくるばあいは、記すのに苦労する。・・・以上、心脳研究の一端として・・・・・・さてその加筆だが・・・加筆しようとして、さらに加筆を入れたので、わかりにくくなったが・・・その「さらなる加筆」の前に戻って・・・ところが・・・いくつかの無限級数において、無限に足し上げたその結果が――見た目は無限大に発散するはずなのに――「ほぼゼロ(ゼロとマイナス1の間あたり《だったと記憶する》に収束するようだ。・・・それ以外でも0あたり《わずかにプラスの値》に収束する結果になる無限級数もあったようだが? )」に収束するという結論が、いくつかのやり方で打ちだされている。たとえば、その中のひとつ・・・オイラー、リーマン、ラマヌジャンが、「1+2+3+4+・・・=-1/12」という式を導き出している。(――この数式をここでの論の基本に据えることにしよう。その根拠として・・・自然数を無限に足し上げるというところに基本性を感じるし、それは超弦理論にも適用されているし、ということがある・・・まあ、その根拠としての決め手は今のところその程度であって、決定的ではないわけだが――)それは、先に述べた結論「ゼロ」とは少し差があるが、それら3人が導きだした結果を、自分(人)に納得させるには・・・いくらか離れた上記の理論と、その下上述の「トンデモ」な結論から、だいたい納得できるのではないだろうか? で、その「差」はどこからくるのだろう? ・・・それはプランク定数関連~量子論をも思い起こさせるが・・・・・・そこにおいて思いつくアイディアを挙げてみよう・・・*数の世界でも質時間回帰的な性質が働く*数といえども揺らいでいる*概念上の数といえども、「自然界または人間の心器と意識器(既述しているように、心器にとってすべては心的内容であり、意識にとって、すべては意識内容である)」に存在するのであって、実際は揺らいでいる*この世界に揺らいでいない存在はない*繰り込み理論との共通性*揺らぎによって「ゼロ」ではなく「-1/12」に収束するから宇宙・この世界の存在がある。なにもないところから宇宙が対生成で生まれたと仮定すると、その収束が「ゼロ」であれば、かなり短い期間内に物質と反物質の完璧な対消滅が起こるが、「ゼロ」ではなく「-1/12」に収束するから、宇宙は存続できる。それは南部さんが考えた「自発的対称性の破れ」に対応している実態なのかもしれない。同じく、数といえども、足し合わせれば(ほぼ)ゼロになっているところから展開されてでてくるのであって、すべてを足し合わせると(ほぼ)ゼロに収束する。それがゼロではなく、「-1/12」であった。それは、直近上述と同じ理屈内にある。以上さまざま述べてきたが、その「-1/12」の値については、未だその根拠が不明である。*ここでそれについて、いいかげんな思いつきを書くと・・・円を等分割すると、12に分割するのが最も美しいし、実用的である。アナログ時計の文字盤を見れば一目瞭然である。一年の月も、同じく(偶然にも? ) 12である(――たぶん、時計の文字盤と同じような発想でなされたのだろう――)。それらは「1/12」の世界である。つまり「1/12」は美しい上に実用的な世界なのである。で、なぜそれにマイナスがつくのかと言うと・・・これもまたいいかげんな思いつきだが・・・この世界はプラスが勝ると、ろくなことがない・笑・・・・・・易経で言えば・・・陰があってこそすべてはうまく行く。陽が勝ると、破滅が近くなる。陽の強い突っ張りあった男たちだけがこの世界にいるとすると、世界のすべてはすぐにでもぶっ壊されてしまうだろう・笑。――ここに、一応・・・陰=マイナス、陽=プラスである――。「1/12」にマイナスがついた「-1/12」であると、直近上述の論理・原理でなんとかうまくいく。・・・とまあ、いいかげん、で、てきとうな思いつきを書いてみた(これも、ふにゃ論である)・・・(――「いいかげん」が「良い加減(ぴったり合う適切な加減――元もとの意味はこうだった)」で、「てきとう」が「適当(適切。適ってぴったり合っている・当たっている――元もとの意味はこれだった)」であることを祈りもうそう(それが妄想でないことをも祈りもうそう)・笑――)さらに、そこらあたりの別な考察などなど・・・を以下に記そう・・・で、「ゼロ」に収束することと「-1/12」に収束ことについて、少し分析してみよう・・・「-1/12」に収束するということは、ゼロ+「-1/12」、つまり、いったんゼロに収束するに充分で、そこに「-1/12」が加わったと解釈できる・・・つまり、マイナスが「1/12」だけ優勢であると解釈できる・・・と、まずは考えてみよう・・・? ・・・それとも・・・「1/12」の分だけマイナスが足りなかったという解釈もでてきそうである・・・・・・で、「マイナスが足りない」ということは「プラス」だということだ? ・・・ということは、プラスが「1/12」だけ優勢だということか? ・・・それとも、ほかに考えられることがあるだろうか? ・・・・・・(・・・難話休題で脱線閑話にはいって・・・ここらは「で」という接続詞がつづくが・・・・・・「で」といいうのは「それで」や「そこで」の略だろう。エイゴで言えばたぶん、アンド、だろう。――「そこにおいて」という意味もあるだろうが(筆者はこのばあいは、「そこにおいて」と書く)。で、「それで」などという接続詞は使わない方がいい、とかなんとかいう文章を読んだような覚えがウロ覚えであるんだが、それは他人の意見であって、筆者は今のところ採用しない。それを書いた人物も一時期は「それで」を普通に多く用いていて、ある時読み返してみて、それに嫌気がさしたのではないだろうか。文章において、近い個所で、それを多用すると幼稚な感じになるのは確かであるから、それは避けようと思う(どんな単語でもそうであるが)。・・・以上、脱線閑話・・・)・・・で(笑)、・・・マイナスが「1/12」だけ優勢と、プラスが「1/12」だけ優勢、そのどっちなんだろう? ・・・・・・マイナスが「1/12」だけ優勢でプラスに勝ったプラスが「1/12」だけ優勢でマイナスを押し返した・・・これは間違っている感じがするが・・・そのどっちなんだろう?それら2つはイコールになるのか? ふーむ・・・・・・マイナスが「1/12」だけ多かった、というところだろうか? ふーむ・・・・・・上述の論理「易経で言えば」でいけば、「マイナスが「1/12」だけ多かった」となるだろうが・・・・・・・・・ここでも悩みは尽きない・・・普通、こういうのを悩みとは言わないかもしれないが・・・それなら煩悶は尽きないと言おう・・・煩悶もぴったりではなさそうかな・・・それは頭を悩ませる、と言っておこう・・・さらにこう言おう・・・頭を掻き毟りすぎて素敵なハゲになることがないようにしないと・・・冗談はともかく・・・なにか考え間違いをしているような気もするが・・・・・・あ、そうだ・・・マイナスの座標にあって、ゼロに向かう実態は、プラスの実態だろう。つまり、マイナス1からゼロに至ることは、「プラス1を実行する」、ということだろう。で(笑)、さらに考えてみると・・・プラスの座標にあって、「∞」を目指し、「∞」を越え、さらに「ゼロ」に向かう実態も、「プラスを実行する」、ということになる。「プラス1」というばあい、座標軸上の一個所を指す。しかし、「プラス1を実行する」というばあい、それは、「状態子」、「実行子」、「実態子」、「操作子」、とでも呼ぶべき意味内容実態をもつ。で(笑)、いくらか長い上述について言えば(ハゲジョークの前まで)、マイナス1からプラス「11/12」を実行して、マイナス「1/12」に至る、ということだろう。そこにおいては、プラスが「1/12」足りない、ということだろう。それは、マイナスが「1/12」勝さった・まさった、ということに(と)同値だ。うん、これですっきりした。ここはつまり上述の、「・・・上述の論理「易経で言えば」でいけば、「マイナスが『1/12』だけ多かった」となるだろうが・・・」、と同じことだ・同値だ。(・・・再掲をまじえた参考を・・・「プラス1」というばあい、座標軸上の一個所を指す。しかし、プラスの座標にあって、「∞」を目指す実態と、「∞」を越え、さらに「ゼロ」に向かう実態は、ともに「プラスを実行する」、ということだろう。「プラス1」と、「プラス1を実行する」は区別される・この小さな領域の数学においては・・・以上、参考・・・)さて、ここで遊んでみよう・・・宇宙遊びなんだが(・・・ここで連想・・・こどもの頃遊ぶ砂場も小さな「宇宙」なのはたしかだから、それも「宇宙遊び」と言える・笑・・・)・・・上述の結論「マイナスが『1/12』だけ多かった」を使って、オモティロイ試論を立ててみよう・・・ビッグバン説が正しいとした上で、そこで生じた物質的要素sは、マイナスが「1/12」だけ多かった、と考えてみる――これはこじつけだが・しかしそこ「マイナス1/12」にこの宇宙の本質がなんらかに現われている・表われている、のかもしれない――。よって、この宇宙ができ上がることができた、と。「正の物質要素(物質要素)」sと「負の物質要素(反物質要素)」sが同じ量だけ生じたのならば、それらすべては対消滅して、エネルギーになって物質要素sは正も反も消えてしまう。ところが、マイナスの物質要素sがそれだけ多かったので、この宇宙ができ上がることができた、と。そこにおいて、気になることがある・・・この宇宙がマイナスの物質要素でできているなどとは、おかしいではないか、といったことだ・・・ところが、マイナスの物質要素とプラスの物質要素における「マイナス」と「プラス」は人間が勝手に名づけたものである。つまり、「負の物質要素s(反物質)」を、現在の世界の物質要素s「物質」としているわけである、と、考えることができる。――これにはちょっとひっかかるところがあるので、ここらについては、もっと考えていこう――。それからこうも言えるだろう・・・先の論で、「1増えること」を「プラス1を実行すること」、「マイナスが1/12勝って・まさってうんぬん」、としているわけであるが、ネーミングにおいて、それと(に)「物質」、「反物質」を関係づける必要はない。――これにもちょっとひっかかるところもあるが、これからもっとよく考えていこう――。たとえ、実際にこの宇宙が反物質でできていようとも(これにもちょっとひっかかるが)、物質と反物質は対等だから、反物質の世界にいようが、物質の世界にいようが同じことである、とも考えることができる。――これにもちょっとひっかかるところもあるが、これからもっとよく考えていこう(同じ文言が並ぶ)――。それから・・・その「マイナス1/2」は、対称性の破れの一種である、という見方もできる。それであるからこそこの宇宙が存在できるのである、と考えることもできる。少し前に戻って、さらに、たとえば・・・、ベンジャミン・フランクリンが、静電気を発生させる2種類の方法で、静電気の元になる(静電気である)プラスとマイナスを決めた。その結果、電子(あとになって見つけられた)はマイナス、核子の陽子(これもあとになって発見された)はプラス、それぞれそういう電荷をもつ、と決められてしまった。後続の科学者たちはそれをそのまま用いた――初めにやった人がなした結果や定義などを尊重するはずだ――。フランクリンは、その「プラスとマイナス」の名づけの決定において、反対に名づけることもできたわけである。(この記述でいいかな)――これを書くと誤解を招くかもしれないが、ついでに記しておこう・・・フランクリンのその名づけによって、「電流の流れる方向」と「電子の動く方向」が反対になってしまったわけである。反対に名づけておけば、そこが一致していたわけなんだが――「水にせよ何にせよ、高い方から低い方へ流れる」というのが一般的考え方(通念)であるから、そういうことになるわけだ。(この記述でいいかな)――ついでに面白い話を・・・導体を流れる電流の速さ(それを、電界の到達する速さ、と言っていいはずだ)は、真空中の光の速さに近いが、そこにおける電子の動きはカタツムリより遅い・笑・・・カタツムリはけっこう俊足なんだ・笑(たしかそう言えるはずだ。電子の動く速さは、コンマ以下0がいくつかついて数ミリメートル毎秒、だったと思う・例によってウロ覚えであるが)(ここはあとで確認しよう)――――もうひとつ行ってみよう・・・カミナリについてなんだが・・・ここでは、雲から地面に落ちるイナズマについて述べよう・・・(ここで脱線・・・電気関連で、イナズマから「eナマズ」デンキナマズを連想)・・・激しい上昇気流や激しい空気の流れなどによって、雲の下部がマイナスに帯電して――つまり電子が溜まって(そこの原理はまだ解明されていないようだ。そこに知性体が関わっているケースもあるのではないか? ・もちろん気象条件が整った上でのことだが)、地面の表面あたりはそれに伴ってプラスに帯電する(物質の分極による? 陽イオンの移動による? その両方? あとで調べてみよう)。そしてその電位差が限度を越えると(雲の高さ、大気の状態、なども関係するだろう)、雲の下部に溜まった電子sが地面のプラスに引かれ地面に向かって放り出され走る(これは筆者の推測である。そう書かれた文献を見たことがない)。それが、ここで言う「イナズマ」である(雲間放電なども原理は同じだろう)。(・・・そういったカミナリ雲は、先述のジョークを適用して、「デンキナマズ雲」とシャレ込むのも、あり、だ・・・)。で、そうなると、その雲はプラスに帯電したままとなる――雲の下部にはそれでも電子がたくさんあるだろうが、その雲全体としてはプラスに帯電、となる。そのあと、どうやってその雲に電子が供給されるのだろう。その帯電は水成分に起こると仮定して論を進めよう(ナイヤガラの滝などの空気には、マイナスイオンが多い。それもたぶん、水成分に電子がくっついているから、だと思われる・推測)。1・その雲が雨となって地面・水面などに落ちて、その水に地球から電子sが供給される2・その雲が水蒸気に戻って、どこかに電子sのくっついた水蒸気があって、引き合って一部~全部中和される3・そのほかなどが考えられる。(・・・カミナリの発生には多くのばあい、特定の範囲にある自然条件が揃うことが必要のようだが、カミナリの発生や落雷に、「知性体」がかかわっているケースもありそうだ。それにその「自然条件」が満たされなくても、発生~落雷するケースもあるようだ・・・そこでは、「知性体」が活動している可能性が非常に高いだろう・・・)(雲がないのにイナズマが走る、というケースもある)ちなみに・・・、カミナリの落ちた田んぼなどでは、豊作になるという・・・・・・電子と生命エネルギーとの間に関係がありそうだ。生命エネルギーが田んぼに溜まってそういうことになる、と。――そういえば、陰イオン発生器というものがある・・・筆者も使っているが・・・あれは、空気、たぶん水蒸気? に電子を送り込む装置だ(酸素や窒素などの気体にも電子が乗っかるだろうか? あとで調べてみよう)。それが身体によいとされているわけだ。それも電子と生命エネルギーとの関係を示唆していそうだ。連想つひでに・・・ビタミンCは、対象要素に電子を与える働きをもつ。その働きは、抗酸化栄養素・還元剤として働く、ということである(ほかの働きもする。たとえば、コラーゲン生成に必要、カゼの防止や治療に有効(これは、その還元性によるものだろう? )、など)。・・・電子についてもっと研究してみたくなる・・・。ついでにもうひとつ・・・これは電荷のプラスとマイナスに似た話しなんだが・・・磁石のNとSのこと・・・NとSを、「1・プラスとマイナス」、あるいは、「2・マイナスとプラス」、と決めてもよかったわけなんだが、NとSとしている(一応、Nがプラスで、Sがマイナス、とされている)。――ただし、これはコイルにおける電流の流れと関係するので、そこから決めると、1か2のどちらかにした方がよさそうだが。しかし、たぶん・・・電子や電流についての知見が成立する以前に、方位磁石のNとSは決められたのではないか? とすれば、その時点で、NとSでなく、というか、NとSのほかに、プラスとマイナスを磁石のどちらかに当てていたとしてもおかしくはない――。さて、Nはnorthで北、Sはsouthで南、の頭文字である――エイゴはまあよくもでしゃばってるな・笑――日本語だと、KとMでいい――。で、方位磁石・羅針盤の磁針が北をさす方を磁針のN、南をむく方を磁針のSとしたのだそうだ。ということは、磁石としての地球の北極あたりはS、南極あたりはN、ということである(ただし、地球の磁極は反転していたことがある。その時代はNとSが逆だ・笑。常識もひっくり蛙ことがあるという話し。今でも地球の磁極は動いているという話しもある)。・・・以上、ちょっと長い範囲にわたって、連想ゲームの一種による話題といったような余談である(上に大幅に加筆したのでこの文言は、マヌケな感じになってしまっている)・・・――ここらは、連想などによる雑談・余談だが、本論の既述の内容に関連している――で、雑談から脱けでて・・・結局、現在の物質世界はそういうこと(離れた上述)で、できあがったのではないか、というファンタジー物語を展開してきたことになる。・・・以上もまだまだ今後の研究課題に(で)ある・・・で、その「1+2+3+4+・・・=-1/12」は、超弦理論にも適用されている――次元数を求める計算において。(加筆)「加筆用(どこかに挿入)」の場所に書いていたものを、やっとここに移動させた・・・ここは超略で記すんだが・・・以前に論じた「マイナス0、0、プラス0」「マイナス∞、∞、プラス∞」の理論、そこから、「1+2+3+4+・・・・・・・・・・・・」なる無限級数の和はゼロになる(いくらか誤差がでるようだが・・・-1/12などと)、と論じたが、「∞(と0)」が結局残ってしまう、ということに気づいた。そこで、さらに今いろいろ考え中学生になっている・・・・・・こういうのはすぐにナマケ中学生に変身してしまうんだが・・・・・・(以上、170712記)(以下、170713記)(以下の書き方・書きようは発想の順になっている。読みやすくするには書き改めるのがいいんだが・・・)しかし、その後の研究の結果、結局は、最初の結論にもどった。「『∞(と0)』が結局残ってしまう」のは、そのとおりなんだが、「『∞=プラス∞’+マイナス∞’』であって、その絶対値・それはその値と同じになる――このばあい『プラス∞’、と、マイナス∞’』をそれぞれ状態量と呼びたい(ここでの専用用語)――それ『∞=プラス∞’+マイナス∞’』の絶対値――はなんと0」なのだ・この数学においては(――符号も(+)+(-)=0(符号ゼロ)、となり消える――)。――それは、タンジェントカーブ、またはy=1/xなどのグラフの分析からでてくる――(それらにおいて、「そう見える」、のである)――つまり、その数学においては、「1+2+3+4+・・・・・・・・・・・・」なる無限級数の総和はやはりゼロになるのである(いくらか誤差がでるようだが・・・-1/12などと)。そこらの解説をなしていこう・・・・・・しかも、心脳の現実を理解する参考にもなるような叙述で・・・筆者はときどきなんかんやイメージを巡らせたり、自由にいろいろ考えたりするんだが、上述は、昨日(170712)いろいろ思い返していたら、その論を思いだし、その数学による論でも「∞(と0)」が残る、という頭の中での映像による結論に至ったのだった。そこでさらに、そこの追究をなしていった・・・その過程で、用紙にさまざまを書きつけた。その中の一部を記すと・・・その数学で「1」を無数(全部「1」)無限に足し上げていくと、「0」になる、という結論に至った(――それは、既述の内容と同じく非常識な結論だが、その既述の内容から類推でわかると思う。――この加筆項は、そこにおいて、さらに気づいたところの追究をなしているところである――)。まずそれは、結局、整数を刻んだ無限の数直線のレールの上を走っていくことと同値である、ということに思い至った。その無限の数直線のレールは、別なところで記しているように、その数学においては、円になっている。その円の上に、0、1、2、3、4、・・・・・・そしてプラス∞・∞・マイナス∞(・・・ここで注を・・・この3つ「プラス∞」、「∞」、「マイナス∞」、の状態、――それを「状態量と呼びたい――それは値でもないし、しかも符号を含んでいる――『∞』は符号を消し反転させる働きをもつ・《『0』も同じく符号を消し反転させる働きをもつ》――」――が隣り合って並んでいる。それは、既述しているように、二次元座標における「0」と「∞」についての分析からでてくる。そこでは、「マイナス0、0、プラス0」、「プラス∞、∞、マイナス∞」という状態――状態量と呼びたい・上述――がでてくる)(――そこにおいて、「プラス∞+マイナス∞=0」である――)、・・・・・・マイナス4、マイナス3、マイナス2、マイナス1、0、と並んでいる。・・・上述ここには、カッコで注を長々とつけたのでわかりにくいから(――注は別添えにするといいんだが、書くとこういう順になるという、筆者の心脳活動の実態があるのでそれをそのまま残しておこう・・・といっても、筆者の書いた文章において、そういうところをあとで整理したりすること・整理したこと、もあるが・・・。――この項もまたまたわかりにくくなったようだ――)、もう一度、論旨の骨格を記すと・・・その円の上に、0、1、2、3、4、・・・・・・そしてプラス∞・∞・マイナス∞・・・・・・マイナス4、マイナス3、マイナス2、マイナス1、0、と、「刻み――数(すう)」が並んでいる。「1という数(すう)」を無限に足し上げていくということは、その円状のレールの上をその順に走っていくと、円状であるからゼロに戻る、そのことに(と)同値である(いくらか誤差がでるようだが・・・-1/2などと)。それ「1の無限足し上げ(全部1)」がそう「0」なら、そこにでてくる「∞」の状態量は「0」のはずである。その確認をも含めて・・・強調のために先に述べた内容をより詳しく記すと・・・「しかし、その後の研究の結果、結局は、最初の結論にもどった。『∞(と0)』が結局残ってしまう、のは、そのとおりなんだが、『∞』というのは、実質的に『∞=プラス∞’+マイナス∞’』であり、『∞』の絶対値と『プラス∞’+マイナス∞’』の絶対値は同じになる・(――このばあい『∞=プラス∞’+マイナス∞’』を状態量と呼びたい――)つまり『∞』の絶対値と『プラス∞’+マイナス∞’』の絶対値はなんと、0、なのだ・その数学においては。しかも、プラスとマイナスの符号と機能も消える。――それらは、タンジェントカーブ、またはy=1/xのグラフの分析からでてくる――そういうことでつまり、その数学においては、『1+2+3+4+・・・・・・・・・・・・』なる無限級数の総和はやはりゼロになるのである(いくらか誤差がでるようだが・・・-1/12などと)」、という結論に至るのである。・・・付記・・・その数学においては・・・「∞=プラス∞’+マイナス∞’」は状態量であり、演算子でもある。「0」も同じく状態量であり、演算子でもある。(――ここでの「状態量」とはここで定義するとおり――)その「演算子」の意味は・・・マイナスとプラスという符号の機能の実質を消去する働きと反転させる働きをもつ、ということである。その「状態量」の意味は・・・数(すう)ではなく、それぞれ演算子としての働きをもち(∞と0について上述)、そういう数(すう)的な状態をもち、それらの絶対値をとれば、数(すう)に値する数値がでてくるところの「量」を言う。・・・以上、付記・・・・・・注・・・以上、この理論によれば・・・ゼロの絶対値はゼロで、「マイナスゼロ」と「プラスゼロ」のそれぞれの絶対値はゼロでなく「状態量・無限小」である。「マイナス∞」と「プラス∞」の絶対値はそれぞれ、「状態量・無限大」、である。で、単なる「∞」の絶対値はゼロである、と記述される・・・。(以上について、用紙にはほかにもたくさん書いているんだが、めんどうなのでここでは省略)(加筆)さて、かなり前に戻って・・・ただし・・・既に詳述している(ある)ように・・・意識のそと・宇宙の本体(大宇宙の本源)には時間がない、という理論をも筆者は展開している。それは、「時間は意識器~意識~意識体においてのみ生じる」、という理論である。その根拠は、心脳での情報構造と情報処理にある。・・・そこらも既に詳細に記している(ある)。(――上に加筆が多く入ったので、上記と以下のつながりがわるい・・・直近上述とタイミングよくつながっていることはいるが・・・)・・・さて、そもそも、「大宇宙の本源(本体)――その定義は以下と本論全体にある――」には時間がない――その可能性がある――。それについては既に詳述しているが、以下にその要点を手短に記して、そのあと、その立場に立って、ここらでの話題についてのさまざまを考察してみよう・・・「外界・物質世界――肉体をも含めて――つまり意識の外(そと)――にはなにがあるかわからない」とすでに何度も、その根拠sを示しながら記している。そしてそこには実時間がない可能性があるとも、その根拠sを挙げながら述べている。それはつまり・・・「大宇宙の本源」の意味内容――ディジタルなスペクトル系の情報というかデータだろうと推測できる。それを心器と脳が扱う。それ「ディジタルなスペクトル系の情報」を心器で扱いまとめ上げ、まとめ上げたそれを意識器に入れて時間展開したh(t)に実時間がはいってくる――それは「意識」が意識し味わう時である――のであって、「大宇宙の本源」には実時間がないのである。そう解釈・理解することができる。――もちろんこれは仮説である・・・。・・・さらにそれに関連してミニ解説をなしてみよう・・・既に記しているように、いくつもの根拠sをもってそう推測することができる。――おまけに、それによって量子力学~量子論やEPR問題などにおける不思議な謎sの解明ができ不可思議な謎sが解ける(はるか前やうしろ、あちこちに記述)。・・・であるので「大宇宙の本源」には実時間がない、などということは戯言~妄想~虚妄~荒唐無稽であるとは断定できない。・・・ただ、実時間はないが、なんらかの振動~周期のようなさまざまで無数の時間要素sはある(を含んでいる)。そういう推測が成りたつ――・・・。・・・ミニ解説から戻って・・・そこで、「(実)時間がないのであるから消えることはない」という論法が成立する。そういう意味実態~実体・実態にあるので大宇宙は、「初め・始まり」もなく「終わり」もなく、永劫の過去から永遠の未来まで存在するのである――意識にとって――と言える。・・・言葉をかえれば、時間について言えば、時刻は常に今であり、よって、今は永遠につづく――意識にとって――矛盾のある表現だが――そうも言えるだろう。・・・時は永遠に今である、今は永遠である、今は永遠に今である、とも言える――意識にとって――矛盾のある記述だが――・・・。・・・そういう論法による推測~仮説を筆者はひとつの在り方として立てたことがあり、今でもそれを保持している・・・。・・・仮に大宇宙の本源(本体)に時間があるとしても、それまで存在していたすべてが突然すべて消えてなくなるなどということはないだろう・・・どう考えてもそうである・・・物質・エネルギーやそれらが形を変えた何かsが不滅である法則は頑として厳としてあるだろう・・・。・・・たとえば・・・「無」から宇宙が誕生した――真空の量子論的揺らぎとトンネル効果によって――何もない真空にはエネルギー存在する(それを「無」と表現しているのだろうが)――といった仮説も提起されているが、それも、宇宙が誕生する可能性を「宇宙の元」――「宇宙の本源」――が持っていればの話しである。「あらゆるすべてのさまざま」は、質の対生成によって生じる、それら「あらゆるすべてのさまざま」を足し合わせると「空」に隠れる――質の法則である――。・・・よって、そのばあい、「無」ではなく「空」と表現する方が適切であり安定する。そもそもこの世界~大宇宙に「何もない」ということはありえないのではないか――これは哲学的主張だが――。現実に既に宇宙はあることを我われは認識し意識し味わっている。そこで、そういうふうに存在する宇宙が消えてなくなる――無になる――ことがあるのか、という謎と設問にここでは行き着く。それ「その謎と設問」は・・・先に述べた「『あらゆるすべてのさまざま』は、質の対生成によって生じる、それら『あらゆるすべてのさまざま』を足し合わせると『空』に隠れる」という命題というか法則というか原理というか、その中にある、というのがその解答になるだろう。・・・で、そこで問題になることは、エントロピー増大則などであるが、そんなもんも、そこでは吹っ飛ぶ、関係ないだろう。わかりやすくいえば、エントロピー増大も、一時的であり、エントロピーは元に戻る時期があるだろう、と筆者は推測する、ということである。・・・その考え方は、たとえば数例sとして・・・宇宙がビッグクランチを起こしたとしても(以前そうではないかと言われていた)、そこにはそれまでのすべての物質・エネルギーやそれらが形を変えた何かはすべて残っているわけであり、たとえばそれが複数衝突して大爆発を起こす、あるいはひとつのビッグクランチの内圧が高くなり限度を越え爆発する、などと推測でき(ブラックホールだとそうはいかないが。しかし、ブラックホールは次第に蒸発していくという論があるので、そこからも新しい宇宙の萌芽を見ることができるのではないか)、その結果宇宙の初期に戻る、あるいは、物質的な存在はなんらかの在り方で空に帰し宇宙の始まりの条件が整う、などとと考えられる。さらに(上のカッコ内で触れたが)、ブラックホールも次第に蒸発していくという説から言うと、宇宙がブラックホールsだけになったとしても、そこからも新しい宇宙の萌芽状態がやってきて、その結果宇宙がまた始まる、ということも考えられる。・・・――以上、てきとうに考えてみただけである――・・・・・・ここで遊びコーナー・・・・・・ここで遊び問題を・・・質量が極めて大きいブラックホール、少なくとも2つが、途轍もないスピードでぶつかったら、どうなるのだろう? ・・・それについて、いいかげんで、てきとうに考えてみると・・・1・それらが合体したブラックホールができるだけ2・それらの質量とぶつかり合うスピードによっては、ひとつのブラックホールにならない、あるいはそれらは飛び散る、あるいは、それらは通常の物質に戻る、あるいは、時空が破れて、どこかにそれらのエネルギーと物質が噴き出す(ホワイトホール説に似ている)、などなど・・・――以上、てきとうに考えているだけだが――・・・(――・・・注・・・以下、ここからの宇宙の膨張加速については、勉強不足だ。よって、間違いがあるだろう。そのうちもっと勉強して手を入れよう。ただし、宇宙は永遠につづいていくだろう、という線にもっていくためにここも書いている・笑。・・・こういう論述は非科学的にして独善的であるが、筆者の論全体を見れば悪くないやり方だと思う。・・・ついでに、「宇宙は永遠につづいていくだろう(そうでないとおかしい)」という文言の内容は、筆者の、感じ、信念、信仰、である・笑・・・・・・以上、注・・・――)・・・注から出て・・・あるいは、宇宙がビッグクランチを起こさず、拡散・発散していくとすると――現在では、この説が有力なようである――それは謎の力(ダークエネルギー説が主流)によって、宇宙の膨張が加速しているのでそうなる「拡散・発散していく」、と言われている、ということであるが(これはわかりにくい構成の文だ。しかし順序としてはこうなる)、それは、より遠方の天体sからやってくる光の赤方偏移が理論値より大きくなっていることが観測され(――赤方偏移について言えば、宇宙の加速膨張が観測される以前も観測されていたが、赤方偏移の度合いが以前の論の理論値と異なっていることが、より進歩した観測機器によって観測された、ということ――)、それによって、宇宙の膨張が加速されていると結論されている、ということである。超新星sや銀河sの新しい観測結果sとさまざまな条件sを照らし合わせて考えると(グラフも描く)、そういう結論になる、ということである。(この記述でいいかな?)(――以上、この文章は、注釈が多すぎて、わかりにくい・・・そこで以上を超かんたんに要約すると、「現在の説によると、宇宙は拡散・発散しそうだが、それは天体sからの光が赤方偏移を起こすことが観測されていることから、そういわれているのである」、ということである・・・――)・・・以上について、繰り返しを含めて、わかり易くするために述べると、つまり・・・、それ以前にもそういった赤方偏移は観測されていたのだが、当時(かなり以前)は、不確定ながら宇宙は収縮に転じそうだ、と言われていた? ――一般相対性理論と当時の観測結果から――。しかし、それ以降、より遠くの天体s(超新星sと銀河s)をより精度よく観測できるようになった上に、ある時点において、さまざまなデータsも蓄積されてきていたので、そういう結論「宇宙の膨張が加速されている」という結論に至ったのであった(それが現在も最有力とされている)。(――それには、謎の力が働いている、と考えるしかない。その主流の説がダークエネルギー説である――)(以上、この記述でいいかな? 不完全だ。そのうちもっと勉強して手を入れよう)そのばあいの宇宙の先行きは、天体sの拡散、天体sのブラックホール化、ブラックホールsの蒸発、そしてそのあとは、素粒子sの対生成と対消滅が繰り返されるだけ、そういった寂漠にして巨大すぎる宇宙、とされているようだ(――ただし、これもひとつの説である――)。しかし・・・、そのばあい、物質的な存在は、長い時間のうちに崩壊し空に帰り(返り、還り)、エネルギーも空に帰り、宇宙の始まりの条件が整う――などということも考えられる(一部既述している)・・・。時間の経過によって、宇宙で「なくなる何か」としては、「エントロピーの低さだけ」であって(エントロピーは増大する)、それ以外の「さまざまモロモロのすべて」は決してなくなることはないだろう(――対消滅して空に隠れることをも含める――空に隠れても、何度でも対生成されるだろう――)。さて、そのエントロピーだが・・・、宇宙が永遠につづいていくために、そのエントロピーも元に戻るだろう(希望・笑)。さまざまな根拠と理由から、そうでないとおかしい(――それについて本論全体で種々さまざまに論じている――)。そうでないと、宇宙はバカだ、ということになる(笑)。宇宙がバカであっては困る(マジメに言って)。宇宙は今までのところ一応優秀ではないか(――もちろん、宇宙・世界において、不合理なこととか、世界は、でき損なっている、と思えるところも非常に多い――これについては、優秀の反対である――。――しかし、曲がりなりにも、宇宙・世界は在り、大自然もでき上がっており(これから変化したり壊れていったりするだろうが)、さまざまな生物も存在しており、人間も存在していて、人間はさまざまを創りだしてきている――そういう意味で、一応優秀、と言っているのである――それに、質の対生成と質のもつれ、質時間回帰、によって、そう在るしかないのである――)。で、永遠に宇宙は一応優秀でいるはずだ。――ここの後ろの方は上段ジョーダンに構えたジョーダンだが、そういったこと「宇宙は永遠につづいていくだろうということ」をも本論全体で、手を変え品を変え種々さまざまに論じている(よってそのエントロピーも元に戻るはずだと)――902分ここから加筆あと、宇宙空間の問題がある。宇宙空間が永遠に広がっていく、ということは、いったいどういうことなんだろう。一般相対性理論では、空間(時空)の性質は、物質・エネルギーの存在によって決まる、となっている。広がりすぎた宇宙空間に、物質・エネルギーがなくなったら、その空間は、どうなるのだろうか。1・その空間はそのまま残る2・空間もなくなる3・空間もなくなるが空間発生の可能性は常にある――そこでにおいて時間がどうなっているかわからないが、「常」と表現しておこう――(――観測者「意識」がなければ、そこらでは実時間はないだろう――これについては既述している――)一般相対性理論においても、「そういった空間」についてはよくわからない、と言うより、まったくわからない、と言えるのではないか。で、ビッグバン説では、なにも無かった一点から宇宙が始まった、となっているが、そのばあい空間をどう考えればいいのだろう。筆者の独善と希望的推測によると(笑)・・・、「素空間――物質・エネルギーの存在とは無関係な空間」とでも呼ぶべき空間がある、その「素空間は」変わらずに永遠に存在する(どこかに既述している)、ということになる・笑。その「素空間」の大きさは? 無限か有限か・・・・・・ここで、誰もが考える設問――有限のばあい、その外側はどうなっている? 無限のばあい、無限の空間とはいったいどんなものだ? という謎と設問が登場することになる。・・・うーん、なんか落とし穴に落ちた気分になるが・・・それについては答えをださなくてもよい、その答えはこの宇宙のどこにもない・笑――これはジョーダンだが――、その答えはださなくてもよい、なぜならそれは宇宙が永遠につづいていくかどうかには関係がないからである・・・とマヌケに締めておこう・・・・・・でも、それではマヌケすぎるので、もう少し思索遊びを進めてみよう・・・(下略)☆☆☆西山浩一(世界人・春楽天)