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*脳と意識*その280*知性,論理,思考,意味,イメージ,本質,質,味わい,価値,心,意識,生物,社会,国家,自然,世界,宇宙,などの研究* (手を入れる) 心・意識は脳の機能でしょうか? 心・意識は、脳の機能のようにみえます。 任意の人の脳がなくなれば(脳が機能を停止すれば。任意の人が昇天すれば)、その人はまったく反応も自発活動もしなくなるから、そう思えるわけである。 その見方は、心・意識は、脳の機能である、という立場にたつことである。 心・意識は脳の機能である。 たしかに、人間において、肉体はさまざまな機能をもっている。 呼吸、循環、消化、などである。 それら機能たちは、図解すれば理解できる。 ところが、心・意識、だけは、図で解説することができない。 どう図示しても根本的に納得のいく説明ができない。 その点が、ほかの機能たちとはまったく異なっている。 ただし、心・意識が、脳に対応しているのはまちがいない(と思われる)。 意識について考える 心と意識とは異なるので、ここでは、まず、意識をとりあげましょう。 意識は物質そのものではない。 物質(の組織)そのものでないなら、いったい何なのだろうか。 可能性として、エネルギーに伴われる(伴う)波動パターン(変化していく波動パターン)が意識内容であり、それが発生する器(それを発生させる器)が意識の器と名付けられるべき存在である、という答えしかないのではないか。 注)ここにおいて、意識の器と意識内容が区別されている。 意識の主体も区別される。意識の主体とは「意識の器、または、自分という意識、あるいは、意識の器と自分という意識の複合」という感じである。 単に「意識」というのは、意識し感じ味わう性質(機能、働き)である。 クオリアというのは、意識内容に伴われる質、あるいは意識内容そのもの、である(と私は解釈しています)。 それらの区別は重要である(詳しくは、春楽天のブログにあります。ただし、構成・編集・推敲してないので、読みにくいですが)。 意識(の主体)は一体性・全体性を形作っている。 よって、意識の器というのは、波動性において一体性・全体性を形作っているところの、物質的な組織か、極度に軽い物質的な組織か、素粒子的なものたちの組織か、エネルギー的なものの組織か、ひとまとまりになったエネルギーか、単独のエネルギーか、その他か、それらのどれかだろう。 脳は、物質の組織としては、一体性・全体性を形作っている(ようにみえる)。 しかし、脳は、波動性においては一体性・全体性を形作ることはできない。 脳の中で波動性の高い、電子、中間子、素粒子、などを考慮しても、そういう結論に至る。 ということは、意識(の器)が、脳という物質の組織の全体か一部に存在する、ということは否定される、ということになるのではないでしょうか。 ただし、意識(の器)が、脳という物質の組織の全体か一部に対応はしている(ようにみえる)。 さてここで次の注目点に移ってみましょう。 物質について考えてみます。 物質は、物質性(個体・粒子性)と波動性(波の性質)をもつ。 昔は、物質は小さな小さな粒子のようなものから成っている、と思われていた。 ところが、量子力学の誕生の前後に、光も電子も粒子性と波動性をもっていることが明らかにされ、物質も波動性をもっていることがわかってきた。 質量が小さいほど、その波動性が顕著に現れてくる。 そこから考えると、意識の器は、質量が極めて小さい量子から成っているのではないか、と推測される。 構成要素の波動性が十分に高くて、その全部が十分な範囲に広がれ、全部が重なって、一体性・全体性を形成できる、しかも、それら構成要素をまとめておく力もある、そういった成り立ちの意識の器という存在、それが仮説として、まず導きだされてくる(ほかの仮説たちもあります)。 次に、物質における、物質性(個体・粒子性)と波動性(波の性質)から、次のような観点も提供されます。 そこから推量すると、次に挙げる対になった概念たちも、両者とも実在に対応しているのではないだろうか、という立場は成り立つでしょう。 (物質性と波動性) 肉体と精神 物質文明と精神文明 唯物論と唯心論 唯脳論と唯心論 注)唯脳論については、心は脳の構造からでてくる機能である、人間のあらゆる営みとその結果は脳からでてきている、ということが主張されている、ということしか私は知らない。唯脳論という本を私は読んでいないので。 その主張は、なるほど! と思わせる説得力がある。 そこにおいて、その脳と、その脳のソフトウェアはどこからきたのか・何者がつくったのか、という課題を設定すると、春楽天ブログ「数学の存在からこの世界を読み解く」での論理展開と同じやり方で、それと同じ結論がでてくるだろう。 つまり、唯物論も唯心論もどちらも正しい、ということではないだろうか、ということになる。 今までの論法からいくと、ここでは、意識(心については後述します)は、物質のもつ波動性から現れる、ということになる。 しかし、意識については、物質の組織としての脳のもつ波動性からは発現しない、という結論がひとまずでている。 そこで、既に述べたような結論に至るのです。 心と意識の違い 意識については、定義をはじめ、その性質(機能・働き)をさまざま述べてきたけれど(春楽天ブログで)、心についてはまだほとんど述べていません。 「心」というのは、脳をコンピュータに例えた上で、その中に例えられる部分があるとすると、「中央演算処理装置(CPU)+ランダムアクセスメモリ(RAM)(RAMにプログラムやデータを呼び出して一時的に仕事台・仕事場とする)+あと何か」といったところでしょう。 それに対して、「意識の器」というのは、モニタにあたる。 「意識」は、モニタの表示面のもつ性質、と例えるしかないでしょう。 そのように、心と意識とはまったく異なった存在なのです。 少なくとも、質の科学(春楽天ブログに載せてあります)においては、それらの定義は別ものです。 (時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません) (さらに詳しくは、私の楽天ブログ「考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・霊魂研究/世界は大激動し始めた(春楽天による研究)」 (http://plaza.rakuten.co.jp/lakuten/)に載せてあります。 その、フリーページにも、ブログのあちこちにも記しています。 ただし、まだ、それらの構成や推敲をなしてないので読みにくいですが) このブログの文章・内容・アイディアのすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。 このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。 それらの無断利用を禁じます。 宇宙人がでました(?) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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