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筆者がネット上に書いてゐる(載せてゐる)記事sの多くは、主要な言語sにおいては、翻訳されておるようじゃす。
その翻訳は大変そうじゃす――さらに加筆形式になると翻訳も読むことも大変じゃろうす――しかるにできるだけ早くアップロードした方がよいでせふと筆者は考へておるのじゃす――。 特定の専用ソフトを用いれば、そこらの困難は大きく減じられることは周知じゃろうす。 で、一応仕上げたら(とゐってもさらに加筆していくじゃろうすが)告知しませふ(これは過去にも書きもうした)。 (――筆者が書いている記事sは、書きなぐりのようなものであって、どれもが不完全であり、これからも加筆と訂正をつづけていきもうす―― ――それと・・・学校で学んだ内容以外については、本スレッドの論などを研究するのに必要な程度(かそれ以上)の習得しかしていないのじゃす。なにもかも知っているなどということは全くありもうさん)。 ・・・筆者の研究とウェブへのアップロードも極めて大変じゃす。 しかるに、筆者は苦しひながら、やり甲斐・生き甲斐を感ずるのでさういふことを続けておるのじゃす(――本スレッドなどの記述量は膨大なので、読み返すことも大変であり、重複や間違い、いいかげんなところ、加筆修正すべき個所sも多いでせふが、そこらについてはご了解あれかし――)。 ・・・ともあれ、筆者が英訳せずとも済み、ありがたひことじゃす。よき時代になりもうした。 それらをぜひ有効・有意義に活用してくだされ。 ・・・過去に、心脳科学(仮説)の概要を、英訳していたのだが、主要な言語sにおいて、翻訳されていた・いるとなれば(ありがたいことに「ブロックチェーン的になる」)、翻訳の必要がなくなったので、その英訳を途中までで打ちきっているのじゃすた・・・ 本スレッドには、心脳科学(仮説)本体の一部、質の科学(仮説)、世界哲学などと、それらに関連した内容を載せておりもうす。 本スレにある設問シリーズは千差万別じゃす。 「運命のノートシリーズ」も書いてありもうす。 「チャプター加筆形式」の記事シリーズでは、これがチャプター#3じゃす。 「チャプター加筆形式」の記事シリーズとしては、#1~#2~#3のほかにも、膨大な文章を書いている(3月25日・今加筆中の#3は、#882である) 筆者は、このシリーズをいつ書かなくなるかわからないので――人間はいつ死ぬかわからない、という意味をも含めて――すべての人間が、なんにおいてもそうじゃす――、メモのような書きつけをも載せておきもうそう。 ☆ 毎日あちこちに加筆しているのじゃすが・・・ さて、今回は・・・ 1月13日の分が膨大じゃったので、読んでいる・翻訳している方々が消化不良を起こさなひように、少し載せることにしませふ・・・といっても大量に載せることもありもうすが・・・ ☆ グチを一言・・・ 読み返さず新しい内容を書くことはかなり気楽にいけるんだが、本文を読み返して加筆やら推敲をなすことは、意欲と調子がでてノリノリの状態にならないときわめてむずかしいケースがかなり多い。 筆者の得意技の寝ぼけたような心脳の状態では、そういったことは大変だ。そういうばあいはうんざりすることもけっこう多い。自分で好きでやっているにもかかわらず「これを読み返して手を入れるのか。いったいなんの罰ゲームだ! 」といったところである(笑)。 ・・・つひでに・・・ 筆者は、ウェブ上に載せる文章も、だいたい一発殴り書き、がほとんどで、読み返して加筆訂正することはまずはないままに、載せている、という実態にありもうす。 加筆訂正推敲はそのうちやろう、ということなんじゃらす。 それでなければ、筆者の身体も頭も、もたない、といったところなので、ご了承あれ。 何も書かないよりはマシだと思し召しあれかし。 (・・・ここでコフィーカフェブレイクを・・・ ――「オボシメシ」とは、新種のウメボシと白ご飯を併せた、ウメボシおにぎり(おむすび・地域によっては)のことではないのじゃらすが、そうオボシメシしてウメボシおにぎりを食べるのも一興でせふ――; ・・・ついでに・・・ 「おにぎり」、というのは、手でおにぎりを作る様子からの具体的なネーミングで、 「おむすび」というのは、ご飯粒をくっつけてひとまとめにする(結ぶ)、といった感じで、ちょっと抽象的なネーミングになっている、と思う。 「おむすび」も、手でそうやってご飯粒をくっつけて「ひとまとめにしている様子」からきている、と解すれば、「おにぎり」と似てくるが――) ☆☆☆ 加筆用(どこかに挿入): 脳において、「情報物質の発受信が起こる=情報量子(s)のやりとりが起こる」ケースs・考えられるその可能性を検討しよう・・・ ――ここでは、情報量子(s)を「J」と記す―― 1・脳に心器からJがやってきた時 2・脳に、心器以外の知性体からJがやってきた時 3・なんらかの量子(たとえばなんらかの電磁波。たとえばなんらかの宇宙線)が外部から脳にやってきた時 ――「1」「2」「3」では、情報発受信物質がそれを受信する――「3」においては、それ以外の反応・事象が起こるかもしれない―― 4・神経線維を電位パルス(活動電位)が走る時 5-1・シナプス前終末部が脱分極する時(シナプス:ニューロンとニューロンとの間の接合部位とその構造体・構造を言う、と、ここでは表現しておこう・筆者流に・文献sを見てもすっきりした表現を見いだせなかったので) 5-2・「5-1」の直後、シナプス前終末部が伝達物質sを放出する時 5-3・伝達物質がシナプス間隙を移動する時 6ー1・シナプス後膜上に伝達物質が達する時 6-2・シナプス後膜上の受容体に伝達物質が結合する時 6-3・「シナプス後膜上の受容体・興奮性」が反応する時 6-4・「シナプス後膜上の受容体・抑制性」が反応する時 ――「6-」はもっと複雑である。 「シナプス前抑制」という仕組み・事象もあるし、それらの仕組みが絡み合っていて、それらの事象が単数であったり複数であったり、そこに「加重」が起こるような頻繁さがあったりするのであるが、 結局、 A・前シナプス機能部位(と呼ぼう)、後シナプス機能部位(と呼ぼう)、(シナプス機能部位は前と後ろのひとセットとそれらの間隙で成っている)、が反応すること、と、 そこにおいて、 B・伝達物質が、放出されること、と、受容されること、 C・そこで起こる変化、 D・それらの総計の結果、シナプス後ニューロンが、次の「7」の事象を起こすに至る、 という事象sがここでの要点である。 以上は化学シナプスにおける仕組みと、そこで起こる事象である。 ほかに、電気シナプスという仕組みと、そこで起こる事象がある。電気シナプスは、人間の生体や脳(脳も生体の一部だが、確認のためにこう記す)にも存在する。 電気シナプスにおいては、イオンが流れる・通る――イオン電流が流れると言える――。 そこでも、シナプス前膜とシナプス後膜の反応時に「J」が発信される可能性がある。さらに、電気シナプスの間隙をイオンが流れる時にもそういう事象が起こる可能性はある(これは極めて低い低周波になりそうだが? )。 脳細胞以外の体細胞についての考察も、ここでは必要なのかもしれない―― 7・「6-」の総計の結果、シナプス後ニューロンが「電位パルスを発射」(発火)する時 (まるで、否決権のある多数決のようだ) 8・ニューロン(の膜)にある、さまざまなイオンチャネルの反応と、そこでイオン通過、が起こる時 (その膜においては、イオンの通過だけでなく、さまざまな物質の通過も起こる) 9・ニューロンと、それ以外の体細胞においてさまざまな反応と事象が起こる時 (「8」をも含めて。さらに、体細胞で起こる「8」的な実態をも含めて) 10・「1」「2」「3」以外で、脳にある情報発受信物質が情報量子を受けた時 11・以上以外で、なんらかの反応・事象が起こる時 (加筆) (上略) ・・・以上、この長いセクションを重複を含めて言葉を換えてまとめると・・・ 哲学的世界観~超弦理論(仮説)~心脳科学(仮説)、それらの絡みあった抽象的観念的世界描写は現実に対応しているように見える・・・しかもその前に論じたとおり(離れた上述で)、科学的と思われる立場で検討しても、同じことが言える、という結論に至っている。 ・・・ということは、 ☆「超弦理論に必須である「巻き上げられコンパクト化された微細な空間6次元は、心的内容~意識内容の世界でもあるだろう」☆、 ということになるだろう。 ・・・わくわくしてくる・・・惑惑する方もおられるだろうけれども・・・ ・・・ただ、超弦理論において、心器を記述することについては困難は少なさそうに見えるが、意識器をDブレインで構築できるとして、経時変化するh(t)をどう記述できるのか、心器についてより、より難しい検討課題となるだろう? ・・・。 ・・・その上で、「超弦理論――仮説だが――」で、「宇宙・世界のさまざま」と「心脳の世界」まで記述できるとしても、そこにはそれでは記述できない領域が大きく広がってあるだろうし、自由意思・意志は存在する(だろう)・・・。 ・・・物理数学で記述できない領域は大きく深いだろう(既述)・・・ ・・・さて、超弦理論ではなく、場の量子論によって、心脳活動の特定のレベルにおける物理的にして自然工学的説明が可能だろうか? ・・・ ・・・それを論じる前に、まず以下を述べておこう・・・ 場の量子論ではなく、その出発点にある量子力学での、心脳活動の特定のレベルにおける物理的で自然工学的説明は、 「心器と脳において情報量子sがやりとりされる」、 「心器が形成生成した基本的単位時間分の『心的内容情報つまり心的内容情報スペクトル』をもつ情報量子sの一団(つながり・関連ある一群。クラスター)を意識器に入れる」、 「意識器でそれが経時変化波動モード意識内容というエネルギー実体・実態となって発現する」、 と記述できるわけである。 量子力学によっては、今までのところ、赤外線が「心的内容情報量子」の第一候補である。 そのほかの光子(電磁波)も候補に挙げられる。 そのほか、素粒子物理学におけるさまざまな粒子sも検討対象にできる(超弦理論から予言できるところの、なんらかの高次元振動をもった弦sもその候補に挙げられる・今現在の物理学で扱っている粒子s以外で)。 で、「心器というフィールド」と「意識器というフィールド」の記述のモデルとしては、過去にさまざま述べている。 それらふたつのフィールドを量子力学で記述できるだろうか? ・・・できないこともなさそうである。 心器のフィールド(場)と意識器のフィールド(場)――心器と意識器においてはフィールドと表記しよう――、 「心器のフィールド」は「情報量子s」を扱い「理活能力」をもち、 「意識器のフィールド」では経時変化波動モード意識内容――そこでは励起状態が低く?量子化(粒子化)までは至らずにフィールドが超絶複雑にゆらぐ? のだろうか? ――もしくは、情報量子sが波として発現するフィールド、――そういうフィールドsが存在する可能性もあるだろう。 さらに、今までにまだ予言も仮定もされていない粒子(s)――なんらかの場(s)が励起されて生じる量子(s)――しかも心的内容情報量子として活用できる量子(s)――つまり脳内にある物質が発受信できる、あるいは、虚数的な空間で、それらが発生する、――そういった新量子(s)が存在する可能性は否定されてはいない(これは、上述「(超弦理論から予言できるところの、なんらかの高次元振動をもった弦sもその候補に挙げられる・今現在の物理学で扱っている粒子s以外で)」をも含めて述べている)。 で、以下、繰り返しの要素があるが・・・、 以上の量子力学による記述に対応するところの、超弦理論での記述、における強みとして、今までに発見されていない情報量子(s)を容易に想定できる? ことがある。 そこにおいて、意識器のモデルはどうなるか・・・Dブレインで可能だろう・・・、という点については他のところに述べている。 ・・・それらについてのほかの可能性や難点についても既述している。 さて、いくらか遡って・・・ 「場の量子論によって、心脳活動の特定のレベルにおける物理的にして自然工学的な説明が可能だろうか」という設問に進もう。 場の量子論での仮説の立て方について言うと・・・ 「心器のフィールド」と「意識器のフィールド」が存在し、しかも、それぞれが個別であり、それぞれが特定の有限な範囲にあり、それぞれが一体性を形成している、しかも、そういう二種類のフィールドsが、それぞれそうとうな数存在すること (しかし人間の総数よりは少ない――ここでの「人間の総数」の定義は、非常に~無限に長い時間の間に生まれてくる「意識と知性をもった生物の総数」ということである。「素子的なものsの可能な組み合わせからでてくる総数」という実態も考えられるが、それらの中で、実際に生まれでてくる「意識と知性をもった生物の総数」といった意味での定義であるともいえる)、 そして、そういうフィールドsが可能であること、が要請される。 「心器のフィ-ルド」においては、情報粒子――情報量子が粒子として現われた実体――が現われ扱われること(と、扱われ消滅する――そのフィールドに没し、単なるエネルギーとなるか、対消滅しエネルギーとなるか、という事象実態(が予想される))が要請される。 「意識器のフィールド」では、波動――量子が波として現われた実体・実態――が現われ、それらさまざまな波sが「重ね合わせの原理」で重ね合わさって、超絶に複雑で玄妙な波動実体・実態を発現することが要請される(重ね合わせの原理によってではなく、それ以外の原理による事象実態もあるかもしれない・どこかに軽く既述している)。 ・・・以上は、どの物理学(量子力学、超弦理論など)で記述するにしても、共通である。 (・・・以下、このカッコ内の記述は、上に加筆したために迷子になってしまった・・・過去にもそういったことはある程度多い・・・しかし参考としてここにそのまま置いておこう・・・ 場の量子論による、以上に対応する記述においては、まず、それらふたつのフィールド――「心器」と「意識器」なるそれら――の記述がやりやすそうだ、といえる。 「情報量子」については、量子力学の項で述べた内容と同じことがいえる。 その上で、「情報量子」においては、「量子のもつ情報――心的内容情報と、心的内容以外の領域における、量子のもつ情報――それらは非物質の世界にある――」を対象とする。・・・参考) (加筆) (・・・以上の検討・追究について、完全に確信があるわけではない・・・それらは当然今のところ推測~仮説にすぎない・・・それらの検証が期待される・・・) (・・・付記・・・上にも記したが、「意識による直接意識体験」という例外がある可能性についても過去に述べている) (加筆) (つづく) ・・・以上、そこらにもまだいくつもの研究課題がある。 ・・・ではここで、コフィーブレイクのひとときを・・・ ・・・ではまたここで、飲み物で一服タイムを・・・ さて、 ここに脳科学・脳神経科学における興味深い事象・事例sの説明――心脳科学・仮説による――を載せよう・・・ 対象情報が不完全になる事例s、たとえば「盲視など」、を心脳科学(仮説)で説明できる: (1)脳~心器における情報は、スペクトル要素型であり、対象情報を基本的成分要素(要素成分)(ここでは集合名詞・単数扱い)に分解した形態で扱われる。 (2)脳に欠けたところが生じると、対象情報における情報について、それら基本的成分要素 (要素成分)s(ここではより具体的に扱う)に足りない部分sが生じる。 そこにおいて、それら基本的成分要素 (要素成分)sを統合するのは心器である。心器がそれらを心的内容情報スペクトルつまり心的内容のひとコマ分にまとめ上げる。 よって、そういう条件下では、欠けたところのない一般的な対象情報の状態・内容、に比して「奇異に思える不思議な実態」をもつ情報が生じる(盲視のケースでは、対象が見えないのに、それが「在る」とわかる、など)。 注:単位時間ごとの「心的内容のひとコマ分s」が、次々に継続して「意識器」に送り込まれ、重ね合わせの原理で、エネルギー経時変化波動モード意識内容h(t)となって、意識器が意識し味わう(・・・繰り返しになるが・・・重ね合わせの原理によってではなく、それ以外の原理による事象実態もあるかもしれない・どこかに軽く既述してある)。:以上、注・・・ 参考:そういう「奇異に思える不思議な事象実態(心的内容、意識内容において)」をもつ人物が、それを「認識・自覚すること」と「意識し味わうこと」は異なる別な事象である。 ここは複雑である。 まず、見ることにおいて、など、基本的な情報処理において、「奇異に思える不思議な情報実態」についての情報処理は脳で行われる。「心器」がその情報に着目していたとすれば「心器」もいくらかその情報処理にかかわる(創造などにおいては、心器が主導する)。 その情報処理――単位時間ごとに継続していく――が単位時間ごとに終わると、それら「心的内容情報の一団s(クラスターs。関連ある一群s)」はつぎつぎと「意識器」に送りこまれ、意識し味わわれる(「心器」がそれに着目していたばあい)。 その意識し味わわれる一瞬手前の時点で、「心器」がその情報が「なにか変だ」と認識するかどうか、という問いが立てられる。 その情報に着目していて、それを監視する一段上の知性が「心器」または心器の近辺(知性体などが宿っている、など)にあれば認識できる可能性はある (――コンピュータではそれに対応するプログラムはある。しかしそのばあい一段上ではなく同列であるが。といっても、作動序列は異なるので、一段上といってもいいだろう。そこでは、「一段上」の意味が異なる――)。 そしてそれから、対象情報が「意識器」で意識し味わわれる。 その情報を「意識器」で意識し味わった時点でも、「意識器」自体は「なにか変だ」という情報処理・認識はできない。 単に意識し味わうだけである。 「意識器」自体は意識し味わうだけの働きをもち、心的な情報処理にはかかわらない、というか、心的な情報処理はできない。 そこにおいて、「意識器」からなんらかの情報のフィードバックが「心器」にあるか否か。 あるいは、それを監視する知性が心器にあるか否か、その仕組みはどうなっているか。 ・・・そこらの問いも興味深い。 筆者の「感じ」としては――こういったレベルにおける判断は「感じ」「洞察」というしかない――、「心器」は「意識器」をモニタしているのではないか、ということになるが・・・・・・。 どうやってモニタする? なんらかの量子sによって? ・・・以上、それらに関連した重要な参考をここに・・・ コンピュータのばあいは、モニタ画面とその表示内容をモニタする(意識し味わう)のは、人間である――これは意識のたとえであるが――。 「意識し味わう」という意味においてではなく、コンピュータの演算部とソフトウェアが対象情報を「モニタ(これは検算と呼んだ方がいい)」することはできる(――それは意識のたとえとはならない――)・・・ ここでは、心器における「モニタ(検算)」と、心脳をコンピュータにたとえるばあいにおいて、コンピュータにおける「モニタ画面」の「モニタ」は意味が異なる、ということをはっきりさせておこう:以上、関連する参考・・・ で、ここで、次の観点から「意識器からなんらかの情報のフィードバックが心器にあるか否か」という問題を考えてみよう。 筆者の視覚においては、左右の目による映像の色調がいくらかわずかに違っている。 ごくたまにそれを認識する――筆者は、心脳の消費エネルギーを減らすために、片目をつぶって(つむって)作業などを行うことがあるから気づくのだが――右目の方が暖色性がいくらか強い。 ――ついでに、片目だと意識エネルギーの消費が減る、と実感する。活動時間が延びるのである・・・ここにも心脳における研究課題がある。 「意識エネルギー」とは何か。それは単に脳の生理的エネルギーだけとは思えないと実感する(ほかのところで論じている)――。 ・・・元に戻って・・・それは、デジタルカメラにおける、メーカーの間での色調の違いのような感じの差異でありそれと似たようなものだ(そこまでは大きくなく、筆者の両目の各々のばあいは、ごくわずかな差異なんだが)。 そこでの検討課題はこうである。 その色調の違いに気づくのは、心器である。どういう機序でそれに気づくのか? 1・心器で情報処理している段階で気づくのか? それとも、 2・意識器からそれに関するなんらかのフィードバック情報があって、それによって心器が気づくのか? そういう謎と設問、それが検討課題である。 両目を開けているときはそれには気づかない。片目での映像を比較してはじめて、それに気づく。 もし、「1・」であれば、両目で見ているときにも気づけるはずだとまずは考える。 それを確認するには、左右の視野において、それぞれ及ばない領域の映像の視覚像で比較しなくてはならない。 今、筆者の好みの電球色LED照明と昼光色蛍光灯スタンドの元でこれを書いていて、外は薄暗く、という状況で、その比較をやろうと試みているが、比較する外界にある対象の壁などを揃えることができないので、今いる場所ではそれは不可能だ。・・・残念・・・場所をほかに移して、そのうちにやってみようと思う。筆者は超めんどくさがりなので、・・・とはいえ、そこでの工夫を考えついたので、それでやってみたら、やはり、色調が違うようだ。外視野の極限的な部分での比較になるので、ぼんやりとしかわからないんだが、そういう結論に至った。 何人かの人にもそれについて訊いてみよう ・・・ということは、・・・? ・・・しかし、なんの解決にもならない・・・はじめの設問にまた戻るだけだ。 で、「2」であるとすれば、意識器から心器(~脳)へのフィードバックがある、ということじなるだろう。 ――これについては、何回か既述している―― (加筆) (上述「何人かの人にもそれについて訊いてみよう」について言えば・・・ほったらかしである・・・ ・・・ここですべって転んで転調して・・・ほったらかし・・・ ・・・彫ったら菓子・JK・・・ 彫ったら菓子というのは、物語・ヘンゼルとグレーテルだったか・・・、 お菓子の家などのことを言うわけである・(そんなことはない)JK・・・ お菓子で家をつくって、さらにそのお菓子を彫って彫刻的な感じのいい建物にするのである・JK・・・ で、その彫ったら菓子を食べ過ぎると太るのは言うまでもない・JK・・・ つまり彫ったら菓子は別名メタボ菓子とも言う・JK・・・ ・・・ここでさらに滑って転んで転調して・・・ 彫ったら菓子を食べ過ぎてメタボになった人を「デブチンスキー」と言う・JK・・・なにやらロシア人のような名前であるが、デブチンスキーの多い国は、端的に言うと、養豚所である。ガメリ○とか養豚場になっている国はいろいろある・・・ ・・・さてそこで・・・デブチンスキーの多い国は、そのあまりの重さで沈没していくのである。 つまり快楽をむさぼる人間の多い国は破滅に向かうということである。それは「質時間回帰」の一種である・・・ ・・・ということで、今回のクオリア追究のギャグジョーク超短編は「質時間回帰」で締めることができて、ほったらかしではなくて『ほっとしたぁ』・・・(It's a)『hot shit ah』・・・JK・・・・・・) ・・・上にかなり加筆したので、以下、これは迷子になってしまったが、そのまま残しておこう: 「以上、そこらのところは一般化して考えて、可能性sを並べあげることしか今のところはできていない。 そういう研究課題もある。」:以上・参考・・・ 離れた上述、その線上でもうひとつ・・・ 「意識の同一性」と「人格の同一性」は異なる・・・心脳科学(仮説)に基づいたその説明: 「人格の同一性」は「心器」が保つ。それに「脳の傾向性」もいくらか参加・関与する。 で、「意識の同一性」について述べる前に、いくらか解説をなしておこう・・・ 心脳科学(仮説)において、 「心器~心」と「意識器~意識」 について、何度も詳細に解説した。それら定義sをなすべき必然性・必須性についても詳しく述べてある。 さて、以下、こういうことはほとんど書いてきていないんだが、ここに記しておこう・ (それに関連して・・・筆者が書く研究内容・内容・文章・叙述は、すべて筆者の独創による。・・・ただし当然ながら、慣用的なもの、既知の知見、断りなしに用いていいもの、は除いてのことである)・・・ そういう仮説sは、筆者が「心脳科学(仮説)」として世界初でうち出したのであって、今の世界・この分野でのすべての研究sにおいて唯一であり他には皆無である・ (――質の科学・仮説も同じくそうである。世界哲学も同じくそうである――) (――心的内容情報スペクトル要素~スペクトル、起源スペクトル(起源情報スペクトル。固有情報スペクトル)、そこにおける(正あるいは逆)フーリエ変換的変換《心脳におけるその推測実態内容については詳細に既述》、エネルギー経時変化波動モード意識内容、なども同じくそうである――)。 一般的には、「意識」、「心」、「この分野でのその他s」、についての考え方と概念・定義が統一されておらず、この分野は混乱し混沌としている。 そこから、「意識の同一性」と「人格の同一性」は同じ概念・内容である、といったような主張がでてくるのである・ ・・・他にもそういった事例sは多い・ たとえば、 「言葉が意識である」、 「認識が意識である」、 「思考力は意識である――そこにはもちろん定義の問題もあるが――」、 「意図することは意識である――これは定義の問題にもなるが――)」、 などである。 ・・・心脳科学・仮説においては、必須である「意識」の精密なる定義に従って、それらの主張はとらない・・・。 さて、「意識の同一性」は、「人格の同一性」とはまったく異なる。 「意識の同一性」は、「意識器」が持っており保つ――「自分が自分であるところの意識、他人sと自分の意識はいつでも異なり、自分は常に自分だという意味での意識・・・『自分という純粋意識』、と言えばわかりやすいだろうか」――それは、「意識器(意識の器。繰り返しになるけれども、これも定義の問題であるが、意識という言葉があるので、それを用いるのが最適であり、そう用いている・・・過去に詳述している」が持っており保っている・ (――ここで表現記述すべくほかの表現を考えてみたが、たとえば「担保している」という単語はぬるい。「固有・本来的に持っており保っている」、ということである――)。 そこにおいて「心器(心の器。これも定義の問題であるが、心という言葉があるので、それを用いるのが最適であり、そう用いている・・・過去に詳述している」は関係ない。 ただし、「意識内容」に人格についての情報――意識内容の一部として――は入る。 ・・・以上それらに関連して万人が興味をもつであろう内容を述べると・・・まあ、以下これは「SF」だとみなしてもらってけっこうだが・・・(筆者は「SF」をいろんな意味に使うが)・・・ しかしこういうのをおもしろいと思う人びと・ワクワクする人たちがほとんどでせふ? ・・・中には惑惑したり恐がる人たちもおられるやもしれませぬが・・・ (・・・一時中断して・・・ ・・・「これは質時間回帰則の言だが:『(上述のように)惑惑したり恐がる人たちもいるでせふが、結局は薬局ではなくて・JK・質時間回帰内にそういった人たちもいるのじゃすから、将来は反転するのじゃす。それも質時間回帰なんじゃらす』」・・・・・・ ・・・多くの人たちは「質時間回帰」の意味内容を理解したいと思うでせふ・・・いや思わないでせふ・・・どうせ筆者をも含めて人間は○○であるから・・・それを含めてどこをどうとっても、なにもかにもが質時間回帰内にあるでせふ・・・一時的には質時間回帰に「逆らう」ことはできるものの(逆らっても総計すると元の木阿弥になる)、それはかなり短期的であり、中長期的には結局質時間回帰に向かう――総計して、完璧に質時間回帰する(質時間回帰則には、質時間を「総計する」働きもある)――・・・それについても既に詳述している・・・ ・・・以上、中断小話・・・) さて、で、ほとんどの人はこう思ってゐるでせふ 「自分が自分であるのは、自分の『肉体、姿かたち容姿、境遇、人種・民族、家族~家系、人々(身近~遠い)との関係、自分の属している団体・組織~国家、現在に至るまでのあらゆるさまざまな体験・経験・言動と現在までのあらゆるさまざまな記憶や身についたもの、才能・能力、身分、地位、立場、性別、心・精神・意識(この意識は普通に使う意識。心脳科学・仮説で定義している「意識」を除く。勘違いを招くので、ここでは、意識と言わず「自覚」「自覚する精神作用」などと言った方がいいが)、などなどのすべて』による。それらが自分にほかならない」――。 で、ほとんどの人はそこからさらにこう感じているでせふ 「だから、自分が死んだ後、それらがまったく同じ人間であるところの自分がまた生まれてくるなどということは絶対にありえない、絶対にない。よって、転生なんかあるはずがない、転生はない」――。 ほとんどの人はそう考えそう感じているでせふ――漠然と、にせよ――。 だがしかしところがどっこいどっこいしょ、 心脳科学(仮説)と質の科学(仮説)を適用して考えると、それらはすべて間違いである、という結論にいたる。 心脳科学(仮説)において定義される「意識・意識のフィールド・意識の主体」――それは上述の普通一般に用いる「意識」とは異なる。 心脳科学(仮説)での「意識」は上述の普通一般に使う「意識」に含まれているにはいるが、その上述の「意識」にはさまざまな意味がごっちゃに混ざっているので、それらを正確に分離して、それぞれを正確に定義して用語をあてて用いないと科学的に扱えない。 しかも、普通一般には「意識」を、心脳科学(仮説)のいう「意識」の意味には用いていない。 ――それらについては既に詳細に記している――。 さてそこで、心脳科学(仮説)において定義される「意識~意識のフィールド~意識の主体」 ――「意識の主体」を「自分という純粋意識」と呼べばわかりやすいかもしれない―― において、 「意識のフィールド」と「純粋意識」は異なる。 「意識のフィールド」は「意識の器=意識器」であり物理的な存在であり、そこにある働き~機能~性質である「意識」が「意識の主体」=「(自分という)純粋意識」である・ ――それが自分と同じ人が自分の死後生まれたら、それは自分の転生(自分という純粋意識なる主体の転生)なのである。 ・・・参考――「自分という純粋意識」とは、何もかも忘れて、なにかに没頭していても、やはり自分は自分であると感じる・・・そこにあると言ってもいいだろう――・・・:以上、参考・・・ さて、参考の前に戻って・・・ そこをいくつかのやり方で概算~概念計算~推測・思考すると、「自分の死後、自分――自分という純粋意識――は必ず生まれでてくる」、という結論におちつく。それ以外の結論はでてこない。 ・・・その考え方や計算とは・・・ 1・「一人の人間の、肉体を構成する要素素子s、と、その意識の主体を構成する要素素子s、のそれぞれの総数sからでてくる可能なあるいは現実にありうる組み合わせの総数sの比をとるという手法」 付記・直近上述「1・」においては、 意識器が脳の一部位(一部分)であるケース(可能性としての)「1-1」 と、 意識器が霊魂的なフィールドであるケース(可能性としての)「1-2」 を考えることができる。 そのどちらであっても、結論は同じになり、「【意識】はずっと続いていく」というところに至る(詳細に既述している)。 「1-2」のケース(可能性としての)においては、「1・」のやり方「1-2-1」のほかに、「意識器が霊魂的なフィールド」であれば、そのフィールドは消えることはない、という証明法をとることもできる「1-2-2」。 そこにおいて一番かんたんなやりかたは、エネルギー不滅則、量子情報にかかわる法則、などを適用することだろう(既述)。 2・「物理学においてはさまざまな対称性がある。同じく多数存在する個別的な意識sはどれもが対称であるはずである。そのばあいは、時間を組み込んだ対称性になるしかない。 時間を組み込んだ対称性とは、質時間回帰という性質である。よって、質時間回帰則は実際に働くだろう。よって、個々の意識という存在は消滅することなくずっと続いていくだろう、という論(仮に意識が消滅することがあっても、そのうちにまた――何度でも――生まれてくる)」(既に詳細に記している) 3・「多数存在する個別的な意識sのそれぞれの意識における質時間回帰は絶対になされなくてはならない、という哲学的原理を設定するやり方」(詳しく既述している) 4・「宇宙に意識がないと宇宙はないに等しい~~・・・。そこからの論」(既に詳細に論じている) 5・「【4・】に似た要素があるが・・・ 宇宙・世界は劇場であり、その観客として意識が必須である~~・・・。そこからの論述」(詳しく既述している) 6・その他・・・ (以上は、筆者のネット上の記述s――多数ある――の中に既に詳細に明確化してある) などがある・・・。 いくらか前にもどって・・・ つまり自分とは「意識し味わう主体」である自分の「意識(自分という純粋意識)」であり、それ以外のすべては、痴漢可能ではなく置換可能であってどうにでもかわりうる――変わりうる、替わりうる、換わりうる、代わりうる――のである。 8・12分ここから加筆 おまけに、「心~心器」も変化する上に置き換えることができるし置き換えられる(――心脳科学(仮説)における定義の「心~心器」には意識し味わう働きがない――)。 しかも、それら置換可能な要素sは、転生していくと、正反対のそれらに置き換わっていく。 正反対のそれらだけではなく、どの要素sにも置き換わっていく・ ――それぞれの要素の存在・現実・事象実態確率(――一種の頻度である――)~存在・現実・事象実態期待値(――質時間の総量である。それは質時間回帰に至る・をもたらす――)に応じて――。 「自分という意識」以外は、そうやって、置き換わっていく。 先に述べた要素s『肉体、姿かたち容姿、境遇、人種・民族、家族~家系、人々(身近~遠い)との関係、自分の属している団体・組織~国家、現在に至るまでのあらゆるさまざまな体験・経験・言動と現在までのあらゆるさまざまな記憶や身についたもの、才能・能力、身分、地位、立場、性別、心・精神・意識(心脳科学・仮説で定義している「意識」を除く)、などなどのすべて』がそうやって、置き換わる、あるいは変化する、そういうことになる。 それが質時間回帰である。 端的にいうと、それらすべての要素sは、「体験」「経験」「記憶」「才能・能力」という範疇にはいる――肉体的要素その他すべてもそこにはいる――。 さらに端的にいうとそれらすべての要素sは「経験」という範疇にまとめていれることができる (・・・もっというと、その「経験」は「心的情報~心的内容→意識内容――結局は『意識内容』」――それらをまとめて「(心・)意識における情報」といえるのであるが、そう記すとかん違いされる可能性があるので、そこまでは書かないでおこう・・・)。 つまり、多数存在する個別的な意識sのそれぞれの意識における「質時間回帰」というのは、 「どの意識も(すべての意識が)あらゆるすべてのさまざまな経験をまんべんなく経験していくことである――経験におけるそれぞれの要素の存在確率~存在期待値に応じて――そこには、ある体験をしたら将来必ずその正反対の体験を同じ量体験する、今の自分とは正反対に将来必ずなる、という法則も含まれてしまう――」 ということである。 とにかくすべてが質時間回帰する(――ここにはある意味というか確実にというか恐ろしい内容が含まれているが、明文化しない――)。 ・・・そこのところをわかり易く述べてみよう・・・ 既にひと昔前、ブログなどにも記しているが・・・ こういうシステムを考えてみよう:「すばらしき完璧な映画館――世界劇場――」である。 それがどういうものであるかというと・・・ その映画館で映画を観る態勢にはいると、特殊な装置によって、まず、自分の記憶すべてを、映画を観ているあいだ完全に忘れてしまうのである。自分の年齢・性別や肉体などについての記憶まで忘れてしまう。 つまり、自分が何者なのか完璧にわからなくなってしまうのである。思考力までなくなってしまう。そこにあるのは自分の「純粋意識・意識の主体」――自分という純粋意識――だけである。 で、映画が始まると、特殊な装置によって、自分が完璧にその映画の主人公(あるいは登場人物)になってしまう。記憶から思考力までその主人公(あるいは登場人物)になってしまう。そういうシステムの「すばらしき完璧な映画館」である。 で、その映画は、主人公(あるいは登場人物)の一生を描いたものだとする。 その映画を観ている間は、自分はその主人公なのである。 そして、その映画が終わって、次の別な映画に移ると――転生にあたる――、今度はその映画の主人公に自分がなってしまうのである。・・・そうやって自分の経験がずっとつづいていく。 ・・・まあ、いつも主人公になるわけではなく、脇役になることの方が多いわけではあるが ――つまりこれは、劇的に素晴らしい人生をおくることになるのは稀である、という意味である―― それが、上述「――それぞれの要素の存在・現実・事象実態確率~存在・現実・事象実態期待値に応じて――」の意味である(意味実態の中にある・そのシンボルになる)―― で、そういう意味ではそうであるが、常に自分が主人公(先の「主人公」とは意味範疇がことなる)である、というのも事実~確かである――。・・・ ・・・転生という事象実態は、そう説明できる。 ・・・心脳科学(仮説)(と質の科学・仮説)を基にすると、そういう結論に至るのである。・・・・・・ (――注:表題にある「すばらしき完璧な映画館――世界劇場――」といっても、そのシステムが完璧である、といっているのである。 すべての人s【意識の主体s】において、それぞれの一回一回の人生は完璧ではまったくなく、不合理・理不尽なさまざまなできごとsが起こる。――それは質の対生成と質時間回帰による――) (――参考のために加筆・・・心器には自由意志・意思がある――) ・・・・・・ところで、「すばらしき完璧な映画館――世界劇場――」での上映内容を創るのは何者だろう・・・ それは、知性であり心器であり、質の対生成則・質の対消滅則・質のもつれ・質時間回帰則、である。 「質の対生成則・質の対消滅則・質のもつれ・質時間回帰則」のもとに、知性と心器が加わって、そういった上映内容が創られる。 ・・・参考・・・ 質時間回帰則の許す範囲内で質時間回帰則に反するように見えるさまざまな事象・実態・事実が生じるが、結局は質時間回帰する。 (「質の対生成則・質の対消滅則・質のもつれ」もその中に納まる)。 つまり、質時間回帰則は厳密に働くが、そこにはアソビがあって、キッカリと一直線には進行せずに、行ったり戻ったりしながら質時間回帰していく、ということである――それでも厳密に質時間回帰する――。 ・・・それについては、ワウフラッターその他をたとえとして、既に詳述している――そのリンクを貼りたい・張りたいが、めんど草草なので、まずはめんど草取りをしてから・・・つまり、めんど草かり、をして、めんど草がり・メンドクサガリ、を克服してからリンクをはろう・・・、というつまらないジョークに落とし込んで締めておこう・・・日本語のクオリアは豊穣なり・・・ ・・・以上に関連する参考(抜粋・再掲)・・・ ・・・いくらか前にもどって・・・つまり自分とは「意識し味わう主体」である自分の「意識」であり、それ以外のすべては、痴漢可能ではなく置換可能であってどうにでもかわりうる――変わりうる、替わりうる、換わりうる、代わりうる――のである。おまけに、「心~心器」も変化する上に置き換えることができるし置き換えられる(――心脳科学(仮説)における定義の「心~心器」には意識し味わう働きがない――)。 しかも、それら置換可能な要素sは、転生していくと、正反対のそれらに置き換わっていく。正反対のそれらだけではなく、どの要素sにも置き換わっていく ――それぞれの要素の存在・現実・事象実態確率(――一種の頻度である――)~存在・現実・事象実態期待値(――質時間の総量である。それは質時間回帰に至る・をもたらす――)に応じて――。 「自分という意識」以外は、そうやって、置き換わっていく。 先に述べた要素s『肉体、姿かたち容姿、境遇、人種・民族、家族~家系、人々(身近~遠い)との関係、自分の属している団体・組織~国家、現在に至るまでのあらゆるさまざまな体験・経験・言動と現在までのあらゆるさまざまな記憶や身についたもの、才能・能力、身分、地位、立場、性別、心・精神・意識(心脳科学・仮説で定義している「意識」を除く)、などなどのすべて』がそうやって、置き換わる、あるいは変化する、そういうことになる。それが質時間回帰である。 端的にいうと、それらすべての要素sは、「体験」「経験」「記憶」「才能・能力」という範疇にはいる――肉体的要素その他すべてもそこにはいる――。 さらに端的にいうとそれらすべての要素sは「経験」という範疇にまとめていれることができる (もっというと、その「経験」は「心的情報~心的内容→意識内容――結局は『意識内容』」――それらをまとめて「(心・)意識における情報」といえるのであるが、そう記すとかん違いされる可能性があるので、そこまでは書かないでおこう)。 つまり、多数存在する個別的な意識sのそれぞれの意識における「質時間回帰」というのは、 「どの意識も(すべての意識が)あらゆるすべてのさまざまな経験をまんべんなく経験していくことである ――経験におけるそれぞれの要素の存在確率~存在期待値に応じて―― そこには、ある体験をしたら将来必ずその正反対の体験を同じ量体験する、今の自分とは正反対に将来必ずなる、という法則も含まれてしまう――」 ということである。 とにかくすべてが質時間回帰する(――ここにはある意味というか確実にというか恐ろしい内容が含まれているが、明文化しない――)。 さらにいくらか前に戻って・・・ さてそこで、宇宙が永遠に続いていき、人間のような「意識」をもつ生物が生まれ続いていくとすると――途絶えることはあっても――「自分という意識の主体の転生」と「質時間回帰」は永遠に続いていくのである。 ・・・で、 「宇宙は永遠につづいていくはずだ」、 という論も既に記している――「哲学的手法で、あるいはそれにくわえて質時間回帰の絶対性を前提として」、 さらには、「マイナスゼロ、ゼロ、プラスゼロ、、マイナス無限大、無限大、プラス無限大、の並びかたの理論から ――そこでは、マイナスゼロ、ゼロ、プラスゼロを区別するのがポイントである。 さらに、(マイナス無限大もだが)、無限大、プラス無限大、をも区別するのがポイントである(略記)」、 などなどから、宇宙は永遠につづいていくはずだ、という論sが成り立つ(既述している) ・・・その検証は難しいだろうが、既に何か所かで検証用を含めたいくつかの論sを展開している。・・・ ・・・そこをいくらか譲歩して、永遠ではなく、人間のような「意識」をもつ生物が生まれなくなるまで――以後まったく生まれなくなるまで――「自分の転生(自分という意識の主体の転生)」と「質時間回帰」は続いていくのである、と言い換えてもいいが・・・。 ・・・参考・・・どこかに書いたが・・・筆者の高校生時代、親父が筆者に「宇宙をこっちの方にどこまでもずっと行くと、反対側からでてくる。それから、タンジェントカーブにおいては、線が無限大に至るとマイナス無限大からでてくる」といったようなことを話してくれたことがあった。それが頭にこびりついてしまったのだった。 で、そのタンジェントカーブだが・・・ひとつの周期において、カーブの始点がゼロから始まって無限大に至り、そうなると次の周期に入りカーブはマイナス無限大からでてくる。――そう解釈できる――。 で、そこを詳しく見てみると・・・ (実数の)二次元座標を考えて・・・ X軸のゼロあたりを見ると、マイナスゼロ、ゼロ、プラスゼロが隣り合って並んでいると結論できる。 で、ここで、それをもとに、もっとも基本的な無限大について考えて見ると・・・ 1/-0=-∞、1/0=∞、1/+0=+∞、が隣り合って並んでいるように見える。 ――無限大は設定のし方によってその性質が相対的に異なってくる・・・たとえば、1/0と2/0は異なり、その比は2(後者が2倍)である、といったような具合だ。 代数~数学では、なんらかの値をゼロで割ることは禁じられているようだが、無限という概念のもとではそういったことになる。 無限という実態は、1/0や2/0などという実態にある、と言える。 (・・・物理学において、無限大~発散がでてくるのは、基本的に、ゼロ分のなんとかがでてくるからだろう)――。 そこにおいて特徴的なことは・・・ゼロは符号をもたない、ということである。ゼロはすべてをご破算にし符号「+プラス、-マイナス」をも反転させるのだ――そう見える――。 ・・・と考えると、タンジェントカーブの説明がつく。以上の内容で、感覚的にわかる。 以上について別な表現をすると・・・ 1次元座標において、プラス方向にもマイナス方向にも、無限につづく真っすぐな座標を考えてみる。 すると、真っすぐであるはずの座標が、円になり、プラス無限大と無限大とマイナス無限大が隣り合ってつながってしまう、とも言えるだろう(そうであるように見える)。 ――数学の進め方~構築というのは、そういうものである。ただし、それが現実の世界に対応しているか否かは別の問題である。――そこらについては既に詳細に記してある――。 さて、 以上の数学を宇宙の空間と時間について適用していいのかどうかという問いも当然ある(――現実に対応しているかどうか、という問題――)。 そういう問題は蹴っ飛ばしてほったらかしておいて・・・もの凄く美味しい世界に突入してみよう・・・つまり・・・以上の数学を宇宙の空間と時間について適用してみよう、ということ・・・ 空間について言えば・・・「こっちの方にどこまでもずっと行くと、反対側からでてくる」となる。 時間について言えば・・・「永遠の未来は永遠の過去につながっている。永遠の過去は永遠の未来につながっている」となる。 さらに、「宇宙は、永遠の未来に到達すると、新しい周期の宇宙に入る」となる。 (――それらが現実を記述しているかどうかは、別な問題である――) ・・・さてここにもうひとつおもしろい論を加えよう・・・・・・宇宙の永遠性や、意識~生物の永遠性などについて、適用できるかもしれない内容を含んでいる可能性があるので、やってみよう・・・ その上記の数学理論を適用すると、以下のように、そういった難問もだいたい理解納得できる・・・ まず・・・自然数を無限に足し上げていくと、どうなるか? 「ある時点で、自然数に『自然に』マイナスの性質(符号)が入り、前に加算してきた数をつぎつぎとすべて打ち消してしまい、ゼロに収束する」、という信じられない結論を得ることができる。 つまり、自然数にマイナスを付した数も、自然数の仲間なのだと、いうことになる。 ・・・ただし、初めに、マイナスの概念を持ち込んでいるところにはひっかかるが。 ・・・ただし、「無限に足し上げる」のである。「無限」の中に「マイナス」の要素が含まれている、と解釈できる。 無限だと、プラスも反転してマイナスがでてくるのだろう――先に述べたが、 「(実数の)二次元座標を考えて・・・X軸のゼロあたりを見ると、マイナスゼロ、ゼロ、プラスゼロが隣り合って並んでいると結論できる――。 で、ここで、それをもとに、もっとも基本的な無限大について考えて見ると・・・(まず一次元座標で、ついで二次元座標で考えて)・・・ 1/-0=-∞、1/0=∞、1/+0=+∞、が並んでいるように見える。 」 を参照――。 「無限」は「曲者」、「無限」は「魔術師」、「無限」は「魔物」、といったところだろう。 つまり・・・ゼロと無限大は、プラスとマイナスという性質をもっておらず、そこに至り通過するとプラスとマイナスが反転する、ということなんだろう。 (・・・確かに、自然界にはプラスがあればマイナスもある。それも質の対生成で説明がつく・・・たとえば、数が発生するにあたっても、なにもないところ・空、から生じるので、1とマイナス1、2とマイナス2が対になって生じる、足し合わせるとゼロになるように発生する、といったことである・・・さらに、質時間回帰の要素も入っている・・・)。 (――おまけに、そこの計算にゼータ関数を用いるばあいは、奇妙な数学的操作をしたうえに、複素数を用いるのである――自然数を扱っているのに、マイナスの数、虚数、まで使うのである。・・・それが正しいとして・・・「無限」には虚数まで入っている、と解釈するしかない――)。 ふたつのカッコの前に戻って・・・そこまでは、「トンデモ」である。 (以下「 」内は最初に手抜きして書いたもの―― 「いくつかの無限級数において、無限に足し上げたその結果が、「ほぼゼロ(ゼロとマイナス1の間あたり)」に収束するという結論が、いくつものやり方で打ちだされている(――そのひとつは、超弦理論にも適用されている――)。 その結果を自分(人)に納得させるには、上記の理論と、直近の「トンデモ」な結論から、だいたい納得できるのではないだろうか? (――そこを精密には検討していないが――)・・・・・・」) 以下、直近上述「 」内に加筆・・・ここらは(も)かなり前研究していたのだが、怠けて(――筆者の得意技・・・筆者は極上のめんどくさがりであるし、書くべき内容があまりにも多いので当然そうなるのはあたり前田君である・・・それに筆者はそういった研究にやり甲斐生き甲斐を全身全霊で感じているので、研究をやっており、それをネット上に載せているだけだし・・・と弁解しておこう――)手短に書いたので、それに加筆・・・それに関連して心脳研究として、ついでに・・・筆者は本論やそのほかについてのアイディアsをさまざまよく思いつく。それらを用紙に書き留めてある。そこでの思いつき~発想は、前から心に引っかかっていたもの、時々考えていた対象についてのもの、ひらめき、関 係ない本を読んでいて思いつくもの(本の内容~読んでいるところとは関係ない)、などがある。 さらに、書き留めていると新たなアイディアがでてくることも多い。 で、それらをPCに打ち込もうと思ってはいるのだが、たくさんありすぎて、かなりの数のアイディアはまだPCには書き込んでない(あまりにめんどうだからである)。 それから、用紙に書いたりPCに打ち込んでいると、新たな発想がでてくることも多い。用紙の書きつけやPCで読み返していても、新しいアイディアがよくでてきてさらに書き込む。 用紙に書くにせよPCに書くにせよ、同時多発的にアイディアがでてくるばあいは、記すのに苦労する。 ・・・以上、心脳研究の一端として・・・ ・・・さてその加筆だが・・・加筆しようとして、さらに加筆を入れたので、わかりにくくなったが・・・その「さらなる加筆」の前に戻って・・・ (下略) ☆☆☆ 西山浩一(世界人・春楽天) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.08.05 09:32:43
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