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ウィーン 日記

2004年11月18日
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今日は、ウィーン国立歌劇場でヴェルディ「スティッフェリオ」Stiffelioを見た。国立歌劇場で昨年の12月のアンドレア・シェニエに続く、José CuraとRenato Brusonの競演である。(来月12月にもアンドレア・シェニエがあるが、José Curaだけの出演となる)


 この作品はヴェルディの作品の中で「不当に低い評価をされている」という評もあるが、私はこの作品を初めて見たのだが、実際のところ、作品の筋といい、音楽といい同時期に作られた「リゴレット」などに比べると数段落ちる。

 このオペラは1850年11月16日にトリエステのテアトロ・グランデで初演されているが、その時はいわゆる3月革命(1848年)の余韻が醒めやらぬ時期なので、検閲も非常に厳しかった。当時北イタリアはオーストリアに支配されていたが、検閲官のPater Guiseppe De Kugananiは、特にこの作品の持つ宗教性(反カトリック的な要素)を厳しく取り締まったため、初演直前になってもなおヴェルディは作品に手を入れなければならなかった。例えば検閲によって、舞台での聖書の朗読は禁止され、第三幕での彼の妻による懺悔の部分は省かれた。またスティッフェリオは、説教壇に立つことが許されず、また最後の教会の場ではゴシュックの教会内部を舞台にすることが禁じられ、台本の2ページほどがそのまま削除された。その結果、初演では第三幕を上演することができず、別のヴェルディのオペラの一幕と差し替えられるという信じられない事態に至った。そのようなこともあり初演は当然失敗に終わる。

 当時の検閲制度というのは、時々忘れられているが、19世紀の芸術作品を考える場合当然のことながら前提となっている。例えばオーストリアで依然として大変人気の高い喜劇作家ヨハン・ネストロイの創作活動は検閲制度との戦いであったともいえるほどであった。当時の演劇は事前検閲をパスしなければ上演できなかったのだが、上演許可後も反体制的な要素が見つければ即座に公演中止となった。公演中止は、当然劇場に金銭的な多大な損害をもたらすために、極力避けられることが劇作家に求められていた。しかし単に検閲に迎合するような無害なものでは観客は喜ばない。そのため、ネストロイの文体は、検閲をかいくぐるために、一見無害なものを装いつつ、実際に上演されると非常に政治批判な要素を含んでいたことがわかるという、非常に刺激的なものであった。彼は検閲制度によってその文体を洗練させていったのである。もちろん検閲制度など無いに越したことはないが、しかし有ったからといって必ずしも弊害ばかりではないことは念頭に置いておく必要はある。
 この作品は、検閲対策の側面もあり、1857年に牧師を十字軍兵士に置き換えて、「アロルド」として改作され初演された。しかしその改作もあまり本質的なものではなかったが、恐らくヴェルディは、このオペラにこれ以上力を注ぐ意欲がなかったというのが、実際のところであろう。

 筋に関していえば欠点はいろいろ挙げられる。まず不倫の張本人であるスティッフェリオの妻リナであるが、彼女の苦悩というのがまったく平板にしか描かれていない。自分が悪いと嘆きつつも、その苦悩がまったく観る者の心を打たないのである。それは不倫の相手のラファエッレにも原因があるかもしれない。このラファエッレは結局スタンカーに殺されるが、人妻を誘惑してそれが明るみになっても、平然とスタンカーの城にとどまり、リナと駆け落ちを考えるだけで、自らの責任に関してなんの良心の呵責も感じていない。例えば、ドン・ファンのような確信犯的な誘惑者という人物造形であればそれなりに魅力的なのであるが、そこまでの造形もほどこされていない。まるでメルヘンの登場人物のように、筋の進行に必要な人物として登場するだけである。そのようなリナとラファエッレが相手では、さすがのスタンカーの苦悩もまた説得力が感じられないのは仕方がない。(今日のRenato Brusonの歌はそれでも聞かせたが)スタンカーがラファエッレを殺す場面でも、必然性が欠落しているために、その悲劇性に感情移入することはとてもできない。登場人物の誰もが、ここで進行している劇に関して、距離を置いているように思えるほど何か違和感を感じるのである。
 最後の場面は、スティッフェリオが信徒の前で説教壇に立ち、聖書を引用しながら自分の妻を許すのであるが、その前の場でのラファエッレに自分の妻を託そうとする心理といい、この場で妻を許す心理といい、スティッフェリオの気持ちの揺れというものが、前後関係無く唐突に示されるので、観る方としては一方的に受け入れざるを得ないところが釈然としない。
 結局このオペラのテーマは、先日見たレッシングの「賢者ナータン」と同じ宗教的な「寛容・寛大さ」ということになるのだが、その寛容・寛大さに至る前提条件となる苦悩の描写に成功していないために、寛容・寛大という属性が、真に人間の品位を問い、自己の全存在を賭しての勇気を伴う決断でもあることが理解されえなかったことが、残念である。




指揮    Marco Armiliato
Stiffelio,  José Cura
Lina,    Hui He
Stankar,   Renato Bruson

 ヴェルディ自身はこのオペラの完成度を上げることを放棄してしまったようであるが、音楽的にもどうも精彩に欠けるものばかりである。
 Hui Heは今日が国立歌劇場デビューだったようである。上海で音楽教育を受けた後、最近急にヨーロッパでも活躍し始めたようで、すでにフィレンツェ、ローマ、パルマ、ナポリなどで歌っており、今年ウィーンのフォルクスオパーの「蝶々夫人」を歌った。恐らくそのときの歌が認められて、今回Lina役に抜擢されたのであろう。細かい表現は別として、歌の水準としては合格点であろう。今回彼女が難しかった(あるいは救われたのかもしれないが・・)Lina役があまり繊細な内面描写を必要としない役柄だったことであろう。前回フォルクスオパーの「蝶々夫人」を見たが、まあ日本人として見るせいもあるが、
やや大味なところがあった。

 Renato Brusonであるが、いつ聞いても安定した歌を聴かせてくれる。特に第三幕の冒頭でスタンカーが自分の苦悩を歌うアリアは聞く価値はあるだろう。今日一番の拍手をもらっていたところである。特にウィーンでは彼の人気は高く、日刊紙「プレッセ」の文芸評論家のお気に入りのようである。

 José Curaも悪くはないのだが、やや調子を落としていたからか、またこの役柄の曖昧さからか、どうも精彩が今ひとつ欠けていた。第2幕では自分の妻の不貞を確信し、絶望の余り舞台右に配置されている十字架がかかっている壁によろめくのであるが、隣にいた客などは苦笑していた。私はそれほど演技は悪くはないと思うのであるが、やや型にはまったところが、評価されないのかもしれない。

 オケの演奏であるが、冒頭の序曲でいきなり木管の合奏がバラバラに出てきたので、どうなることかと思ったら、いつものように徐々に調子を上げてきた。ただいきなりぶっつけ本番のような演奏で、どうもまとまりに欠けていた印象である。第2幕だったか、トランペットがひどい音を鳴らしていたのは、興ざめであった。それに後ろの客の時計のムーブメントが(安物だからだろうが・・・)やたらにチクタク聞こえたのも、なかなか辛かったな。 
 あとオペラのパンフレットの日本語訳がまた誤訳が多かった。(意訳したつもりなのかもしれないが・・・)
 例えば、Raffaele habe ihre Einsamkeit und ihre Schwaeche ausgenuetzt,als Stiffelio selbst fern war. (彼女の懺悔の内容なので接続法1式が使われているのだが)これを「孤独に悩んでいる時に、ラファエーレから誘惑された」と訳しているのであるが、Linaが自己を正当化するこの文脈では、ausgenuetzenという動詞はもっとネガティブな意味で使っているのである。例えば「彼女の孤独と弱みにつけ込んだ」ぐらいに訳さなければならないであろう。またその他にも訳し飛ばしているところや難しいところは訳していない、なども目立った。ただ一応筋は理解できる日本語であった。




 









最終更新日  2004年11月19日 04時50分42秒
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