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カテゴリ:家族
68年前の昨日は広島に原爆が落とされた日。
今日は豊川海軍工廠に大空襲があった日。 小学校の頃は、体育祭ではこの海軍工廠の空爆をイメージした 組み体操を毎年やっていたが、その意味を深く考えることは あまりなかったように思う。 毎年恒例だったから、当たり前に知っていた。 ただ、大きくなって、父に聞いたおじいちゃんの話。 祖父母はもともと呉に住んでいた。 あの戦争で豊川に海軍工廠が作られたとき、 海軍で設計士をしていたおじいちゃんは、部下とともに豊川に来た。 そして、大空襲にあった。 後に聞いたのは、26分も続き、2700名も亡くなったあの惨禍の中、 爆弾が落ちたところ、落ちたところへと必死で移動し、生き残ったという。 二度同じ場所に爆弾は落ちないと判断したそうだ。 同じ頃、おばあちゃんは防空壕に逃げられず、 家の押し入れに子どもとともに身を潜めていた。 たまたま、その防空壕に爆弾が落ち、避難した人たちは亡くなったそうだ。 これは父が産まれる5年前の話。 二人が生き残ってくれたから、今私はここにいる。 身体の弱かったおじいちゃんは、私が小学校にあがる頃、亡くなった。 気も身体も強かったおばあちゃんは、8年ほど前、93才で大往生をした。 そのとき、聞いたのは、 おじいちゃんは、戦争が終わっても、呉に帰ろうとしなかった。 「わしはたくさんの部下を豊川で亡くした。 彼らが帰れないのに、自分だけ帰るわけにいかない。 ここで命を全うする。」と。 おばあちゃんもそれに付き添った。 それを聞いて、思い出したのは、父の言葉。 私が、島根大学に行くと行ったとき、 「一人くらい西に返してもいいかな」と言った。 母は広島出身。 原爆の影響のなかった山間の町が出身だけど、 自分の命のルーツに不思議な縁を感じている。 あの戦争を経て、今がある。 私たちは、命をつないでくれた先祖に感謝し、 これからの子どもたちのことを考えて社会を作っていかないと 懸命に命をつないでくれた方々に申し訳ないと思う。 あの戦争のことはやっぱり忘れてはいけないし、 私はこの祖父母の話は絶対に忘れない。 あの時代を生き抜いた人たちがいたということ、 そして、今の時代を作ってきてくれたということ。 それぞれの思いを想像することだけは、忘れないでいたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年08月07日 08時17分26秒
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