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2005年03月08日
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テーマ:海外生活(7779)
カテゴリ:カテゴリ未分類
お世話になっていた人が、近々日本へ本帰国する事が決まった。彼女は旦那さんの仕事の都合でアメリカに10年滞在し、13歳の息子がいる。息子は3歳からこちらで暮らし、一人っ子だった事もありアメリカ人の友達が多く、日本人の家庭で育ったにも関わらず日本語力が弱い。

同じように、今年はやたらと日本へ本帰国する知り合いが多い。それもこちらに5年以上住んでいた人達ばかり。先日、私の教える補習校で「学校文集」が発行され、その中に「本気国が決まったが、日本に帰りたくない」という内容の作文を書いていた生徒がたくさんいた。私はそんな作文を読んで、自分が小学校6年生の時、それまで住んでいたカナダを後に日本へ帰国した時の事を思い出した。

私は父の仕事の都合で小学校2年から6年までカナダで暮らした。6年生になる頃には日本で暮らした思い出はほとんど無かった。そして6年の終わりに日本への帰国が決まったのだ。しかし、「帰国」とは言うものの、日本は私にとって「外国」だった。

小学6年生の3学期だけ通った日本の小学校では、体育の時間に胡坐(あぐら)をかいて座っただけで「態度がでかい」と言われた。跳び箱は飛べないし、逆上がりもできない。お気に入りのネックレスを付けて学校へ行った日には先生にこぴどく叱られ、敬語が話せないことも叱られた。クラスの女の子達とはうまく行かず、学校という場所がつまらなくなった。

中学校はもっとひどかった。校則の厳しくて有名な学校で、髪型やゴムの色、靴下まで指定で、私にはそれが何故なのか到底理解できなかった。入学式の日、校則を知らずに緑色のゴムで髪の毛を縛っていったら、それが先輩たちの目に留まり「生意気な一年生」になった。英語の授業では、発音の良い私を先生は絶対に指してくれなかった。「大きい」を日本語で書けというテストの問題で「big」ではなく「large」と書いたことで(まだ習っていない単語だから)点を落とされた。相変わらず周りとはうまく行かず、「カナダ人!カナダへ帰れ!!」と言われたこともあった。朝教室に来たら自分の机が無くなっている事もあった。そして、私は「保健室に登校する生徒」になり、ずる休みも頻繁になって、登校拒否をするようになった。

そんなある日、腹痛を理由に学校を休んだ私を母が病院へ連れて行った。そして、実は盲腸を患っていた事が判明し、私は一週間入院する事になった。入院中は毎朝理由を考えなくても学校を休めるのでうれしかった。手術が終わってしばらくすると、担任の先生がお見舞いに来た。でも、私は担任には全く心を開いていなかったし、むしろ、自分がいじめにあっていることを気づいているだろうに何も行動を起こさないこの男に腹をたてていた。

そんなある日、ベッドの上で漫画を読んでいると、ノックの音が聞こえ、中に入ってきたのはクラスメイトの女の子達だった。私の事を、他のクラスメイトたちと一緒になって無視していた女の子二人が、お花をかかえてそこに立っていたのだ。そして、その子達は「ずっと無視していてごめんね。私達も、ずっと心がもやもやしていたんだけど、○○さん(クラスのリーダーっぽい女の子)に逆らえなくて…早く元気になって戻ってきてね」と、私に言った。

クラスのみんなに無視され、友達なんて誰もいない。私は一人ぼっちなんだ。と思い込んでいた私には、彼女たちがお見舞いに来てくれたこと、そして本音を語ってくれた事が心からうれしかった。

退院してから、私は登校拒否を辞めた。私が登校してきた初日は、クラスのみんなは「ぎょっ」とした表情をして、またコソコソ話をしていた。お見舞いに来てくれた二人も相変わらず私に話しかけようとはしなかったが、私は二人と目が合ったときにニコッと笑いかけた。いじめはそれからしばらくは続いたものの、私に飽きて、今度は私のいじめを仕切っていたリーダー格の女の子がターゲットになった。私は仕返ししてやりたい気持ちはいっぱいあったけど、いじめられる事の辛さは誰よりも理解していたつもりだったので、いじめには荷担しないようにした。

そんな私にも中学2年になった辺りから、やっと友達ができ始める。私が海外生活を体験した事に興味を持った子達がどんどん集まり、カナダで生活していた頃の写真を見せたり、英語の発音を教えたり、外国の映画を一緒に見たりした。類は友を呼ぶというが、その当時仲良くなった子のうち、4人は今こちらに留学している。

「帰国して何が一番大変だったか」というと、勉強や言葉ではなく、「人間関係」だった。日本では自分の意見をはっきり主張しすぎてはいけない。社会に入ればどうなのか分からないが、少なくとも小学校高学年や、中学生にとって、自分の意見をはっきり言ってしまう子はただの「わがまま」になってしまう。いじめられている事に対し、抵抗したり嫌がったりすると、余計にいじめられる。そして、規則だの決まりだのに従わないと、出るくいは打たれるのごとく、後ろ指を指されてしまう。一見、「個性」を尊重するように見せかけ、その反面で人と違う事をしたり、違う発想を持っていると「はみ出し物」になってしまう。今でこそ、それを十分に理解しているので、会社などで目上の日本人と接する時は「日本人の私」のふりをする事はできる。日本のつまらないしきたりに反対していても、それが日本の文化・風習であり、それを尊重する心得は持っているから。でも、小学生や中学生だった頃の私にはそれが理解できず、私は散々苦労をした。今でも、帰国直後の自分の写真を見るのが大嫌いだ。

「日本へ帰りたくない」と言っている生徒たちの作文を読むと、あの頃の私が鮮明によみがえる。人それぞれ、苦労する事は違うであろう。人間関係では全く苦労しなくても、勉強で苦労する生徒もいるだろう。何もかも上手くいく子供だっているだろう。ただ、海外で長く暮らしていると、多かれ少なかれカルチャーショックを目の当たりにするのは間違いないと思う。ここで私が教えてきた生徒たちが、日本ですんなりと溶け込んでいけるのかどうかが心配だ。

日本へ行くと、友達や親戚に「さすが帰国子女。すっかりアメリカンだね~。」と言われ、アメリカにいると、「You are Japanese」の私。私にとって一番困る質問は「どこの出身ですか?」という質問である。今年で、アメリカに来て7年が経ち、カナダでの滞在期間も合わせると、人生の丁度半分を日本と海外で暮らした事になった。その中でも一番長く住んでいるのが今住んでいるオハイオである。しかし、私はオハイオ出身ではない。その前に住んでいた宇都宮だってたかが5年で「故郷」とは呼べない。

「Where are you from?」の質問に、私は「Everywhere!」と答えるようにしている。日本人なのかアメリカンなのか、そんな事にはこだわらず、インターナショナルという事にしておこう。

帰国子女である私は、今まで色んな事を考えたし、辛い思いもたくさんしてきた。でも、こんな体験をできた事を心から感謝しているし、今までの自分の人生、とても楽しかったと思う。一度きりの人生で、こんなユニークな経験ができたのも父のおかげだ。感謝感謝!!





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最終更新日  2005年03月09日 01時25分22秒
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