オフコースメンバー紹介 鈴木康博
オフコース当初からの創立メンバー小田和正とは中学からの同級生である。知り合ったのは、中学受験のための進学塾。やがて高校時代、フォークソング・ブームのなかで2人を中心としてフォークソングを歌うようになり、これがオフコースの原点となる。高校の文化祭のヒーロ。で、その道に入るパターンはおおいね。音楽をこよなく愛していたのは、小田さんよりも鈴木さんであったようにおもうんだ。大学時代は、仙台の東北大学に在学していた小田が楽器を抱えて、横浜で鈴木たちと練習をしていた。ライブも主に横浜で行っていた。東京工業大学で、電気制御工学を専攻。四年のときには、安川電機に内定までもらっていた。そのライブも、高校時代の同級生がいろいろ、仕切ってくれて、みんなが、応援していた、チケットを女子高、女子大にまで売るのがたのしみだったんだろうな。鈴木の父は電鉄会社の重役。彼もまた、おぼっちゃまであった。しかし、彼の方がいち早く音楽で生きることを選び、ヤマハでバイトしながらアレンジの仕事をしたり、ギターの腕をあげるべく日夜暮らしていたとおもう。鈴木さんは、ヤスと今呼ばれ、ヤっさんともいわれていた。横山ではない。小田さんが大学を出て、音楽の道を迷う。鈴木さんも迷う。互いに、学生でいることで、音楽ができるということで、大学院を受けた、が、小田さんは早稲田に合格し、鈴木さんは落ちた。鈴木さんは、ヤマハでバイトしながら、編曲、作曲の勉強をする。父に大反対されて、勘当までされて、音楽の道を選ぶ。小田さんの家は、好きにされてくれたが、猛反対。音楽のプロも道は、ひどい環境で、演歌が中心で音楽は、不良のすること、コンサートも、やくざが仕切ったり地方では、チケットの売上全部持ち逃げされたり、ひどい、駅前の宿屋で、練習もできなかったり、あの、時代は、フォーク、といって作られた部分がおおく、オフコースも最初、コピーでならしたので、ヤマハのポプコンはオリジナルが主であるが、当初は技術的なあらそいで、コピーをして、なんぼ、であった。小田さんが、ちびで、ヤスが、長身、小田さんが押さえられないギターのコードもヤスのでかい手は、楽勝でおさえて、小田さんは、間違えずにおさえようとするばかり、うつむいて演奏してしまう、しかも、ロングヘアーみんな、ヤスの目が行き、一目ぼれしてしまうのであった、小田さんは人気が出たのは、はやばやと、モデルと結婚して、ヤスが・・キーボードに座ったころからではないだろうか。バンドとしての、ポテンシャルを高めていったのだが、亀裂は生じだ。解散の真相は、本、ギブアップにのっているらしい。でも、僕は読まない。その本を、その本の作者はもう、病没したそうだが。僕の中では、ある言葉を感じている。鈴木は、卒業したかったのだ。オフコースにいるよりも個人で試したかったのだと思う。彼はおそらく、平和的な脱退をしている。で、懇願している。「ぼくがいなくなっても、オフコースは続けてくれ・・・たのむ。」苦しい胸のうち。小田も、鈴木も。苦しんだ。小田は、ぼうぜんとし、解散をきめていたところもある。たぶん、ヤスの脳裏には「安川電機の内定を断りにゆく」その 光景。「音楽の道をゆくといったときに、父に罵倒されたこと」その、光景。ぼくは、オフコースにいなくてもいい、一人でいろんなことをやってみたい。オフコースの歌が、売れ出したのは、小田さんの別れの歌。しかし、バンドとして、「さよなら」のクライマックスは、ヤスの、鳴くギターである。ヤスのコーラスは、ファンがおおく、ヤスはあえてソロでは披露しなかった。その声は高く、澄んで、きれい、ぶれない。小田さんにあわすため、その声をだすようになった。小田さんの声が前に出てゆくのは、オフコースのメンバーがコーラスで支えていたからだ。郷ひろみにて提供した歌。素敵にシンデレラコンプレックス が1983年に大ヒット。作詞は秋元康トヨタカローラのCMにも使われた。鈴木康博のコーラスワーク、ギターは高い技術をもち。オフコースが、スターダムにのしあがったのは、鈴木の音楽技術の高さを評価していいと、思う。コカコーラの歌もCMで担当。僕は思う。彼らがその塾で,あうことがなかったら、鈴木が小田を音楽の世界にひきずりこまなけらば、音楽シーンはなかったろう。売れることと、評価されることと、それが実は重要ではないようなきがしてくる。最近、ぼくは。音楽を楽しんでいるのが、実は小田さんよりも鈴木さんなのだとおもう。全国のフォーク系のライブハウスを回ることこそ、音楽の原点であり、音楽の道を選ぶことの結果であったとおもう。好きだからやっていること、それが一番、