〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズムと公共性
国民的歴史学運動の後に、今度は「第一の戦後」当時の教育現場が書かれていて、日教組の活動を中心に書きながら、日本語としての共通語、標準語の確立を民族語愛護論と言語道具説との絡みで書いている。それと、その当時の教育者が、
公職追放される者も少なく、戦前、戦中から引き続き現場を担当したので、端的な例として、「皇国日本」が「主権在民の国」に変わっても、行動様式は戦前と変わらない、教えられるものが「アメリカの愛国歌」に変わり、「兵隊さんありがとう」と書く相手がアメリカ兵に変わっただけで、行動様式は変わらなかった。「聖戦完遂」が「民主主義」に変わっても、愛国心や「民族」が強調されるという事態もまた、変わっていないともいえた、(P380参照)としている。この奇妙な連続性を持続しながらも、「国民教育」の具体的な方向性を見出すことができず、「アメリカ式」の経験学習がその間続き、そうこうするうちにそうした「無国籍人教育」はある意味定着してしまうことになる。その当時の保守にしても革新にしても、「まず経済復興」を第一手順としていたこともあり、というのは教育も大事だがその児童の経済的貧しさを兎に角なんとかしなければ、というのが先決問題でもあったからなのだ。そしてこの「第一の戦後」における教育現場の諸問題がのちのち60年安保で戦後民主主義として批判の矢面にたたされることとなる、とのことである。
そして10章で、
竹内好について、一元的な「ナショナリスト」としての捉え方ではなくて、戦前、戦後を通して肉迫することとなる。これは、まだ途中までしか読んでいないのだけれど、
丸山眞男とかは特別に章立てられているわけではないけれども広範にこの本には登場してくるのだけれど、多分、丸山の周辺を対照させることで戦後民主主義とは何かを詳細に分析していく方法だと、ちょっと見えてきた。まあ、だけどやっと半分きたか(*´д`)=з まだまだゴールは遠い(*´д`)=з