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 るい丸@ コメント代わり *.yournet.ne.jp 2007.10.28 05:03頃お越…

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2009.05.03
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カテゴリ:法の下の正義
先回、抜書きで使わせて頂いた嗤う日本の「ナショナリズム」 についてもう少し騙ることにする。ということで今回も<民主>と<愛国>はお休みである。

総括という反省システムが暴走することによって起きた連合赤軍事件。そこを端緒として、70年代、80年代、90年代をそれぞれ反省の形式に基づいて分析するアイロニーの30年史。死体の蘇りであるゾンビを生きるしかない現代。この表現自体がすでにアイロニカル、シニカルである。感性優越主義(センス・エリィーティズム)としてのメタのベタ化であるパロディの類型化。反省システムに寄り添うフォルマリズム(形式主義)化において、現在はロマン主義的シニシズムということだ。2ちゃんねる上で展開される(ここでは電車男をネタにしている)エクリチュールは、ただ他者からの審級の連続性によって「繋がること」を目的としているため、敢えて言えば空疎なものである。記号自体には意味をもたらさなくても、その記号によって「繋がる」こと自体に目的があるとする(運動の自己目的化)。そこで共有されるアイロニカルなエクリチュールには意味がないのだ。だから、サイコのブログは2ちゃん的ではあるが、サイコ自身は2ちゃんに参加したことはない。孤高の啓蒙主義者なのかもしれない。この本でも、香山リカに対する浅羽通明の「プチナショ」批判を浅羽寄りに肯定していて、「ナショナリズムの風化の証」を抜書きしている。そして、市民運動から転向した「自虐史観」批判者小林よしのりを現代のロマン主義者としている。次なるはそのロマン主義からの離脱を計らねばならないだろう。まぁ、「HIV訴訟を支える会」なるある意味共産主義的な運動の後には、長い宿酔になることは必然であるのだから、今ロマン的なのもいた仕方ないところか。

そして、今日は憲法記念日でもある。2年ほど前に読んだのだが、関連性からして少し騙ってみる。

憲法九条を世界遺産に

タイトルだけからすると、なんともふざけた感じの内容に思えてしまうのだが、ここで爆笑問題太田光が語っている感性は単なる芸人の域を超えたものとなっている。がしかし、多分に現代を生きる日本人の誰しもが少なからず抱いているであろう不平の代弁者としてのそれでもある。平和ボケ憲法を意識するか否かを問わず、この憲法が常にすでに、日本人たるを基幹せしめ、この機能によって経済的発展を遂げてきたことに異論はない。戦前と戦後を繋ぐキーパーソンとして宮沢賢治を例にして、非常にまとまりある対談となっている。太平洋戦争になだれ込んでいく状況と現代のもの申すことがはばかられる状況の類似点をあげつつ、体現的な立場での太田のもの言いが、それこそ昔の落語家のような話芸の現代版となっている。太田自身はストレートなもの言いは自分に芸がないことをしきりに言うのだが、中沢新一がホローするところの、江戸時代の噺家が体制を揶揄しているのにもかかわらず、その面白さが故に体制に庇護されてきた歴史をこれに重ねている。
どうしても批判的ではなくて否定的なことを書くが、それは太田が名前ほどの光る芸人でもなければ、芸能人でなければそこらのニートと変わらないほどの没人間なのに、それこそ今、与えられた立場で何かを発することに、病的に反応しているだけのように感じることだ。確かに知識はあるが、言ってしまえば無駄な知識かもしれない。ただ、芸人にとって仮の必要性のある知識、感性であって、芸人の生みの苦悩とでもいうか、難しいところだ。
生みの苦悩であるはずの「日本国憲法」を、日米合作による突然変異として語るところは、浮薄な愛着を偲ばせているようにも思え、ようは何か憲法そのものと太田自身が一体となって重なってしまう太田の思い込み、思い入れも多少あるに違いない。それと芸とは、また違うところにあるような気もするのだが。
憲法愛国主義のところでも騙ったように、現行の日本国憲法は日米の合作などでは全くない。勝者によって与えられた「平和」憲法である。たまたまこの60年余りの歳月の中で、日本人的な本性(スノビズム)によって機能したに過ぎない。ただ、ここにきて国際貢献という意味で劣化しているのであるが、今日的状況を読めなかった当時のアメリカ首脳部の底の浅さなのである。しかし、それを未だもって嗤うしかないのではないか。純粋テレビからの発言者たる太田総理は、そのネタを如何に笑わせるかに純化せよ、と言いたい。寄るところは、ネタが世論(電話投票)に迎合され得ない、という否定神学的な要素からの自虐性に基づいている危うさで、「市民主義者」を笑いに取り込む戦略を取っている方法論である。と、すると双方向的な戦略を取り入れている「巻き込み型」のあのテレビ番組は、純粋じゃなくて不純なのではないか。まぁ、これについては別に騙ることとしようか。

 グゥーーーーグッド 







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Last updated  2009.05.03 11:39:59
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