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本当に純粋になり、本来の自分に還っていくことは、神の分身である魂に還ること、創造の源の存在の神に還っていくのと同じです。出家をしなくとも、すべてを持ったまま誰でもがそのためにできる方法もあります。自分の持っているものは、心も体も神からいただいたものです。それを通してつくられるものも神のおかげです。愛と信頼を通して、社会生活をしながら、神からの恵みによって生かされ、働くことができると自覚し、その物質的恵みと精神的恵みを欲として抱え込むのではなく捧げるのです。それは神のような生き方になるのです。皆を助け、捧げる生き方、それが真理の生き方なのです。
インドにおいて、バクティヨガ、つまり信仰のヨガで行われるディボーションという献身の修行がありますが、ほとんどのインド人はこの修行をしています。最も自然に一般的に行われているものです。偽善者ぶって行っているというのではありません。その献身によってまだ満たされない人に流れていく自然の助け合いが構成されています。ボランティアは一見素晴らしいものですが、人間同士の横の関係における「やってあげた」という自己満足、エゴに結びつきやすく、「やっていただいた」という卑屈な関係になってしまいがちです。スピリチュアルな奉仕の精神は、ギブ&テイクの関係ではなく、捧げ感謝するという最も美しい愛あふれる心身をつくる修行です。行為を愛からすすめることで神の存在に近づき、献身を通して神と一体になっていくのです。 その思いは拡大し、出会う人は神であり、さまざまな出会いや出来事も神の贈り物として、感謝して愛をもって受け取ります。そうした修行をすすめることで、いつしか欲の心、エゴが落とされ、慈愛が育まれ、心の浄化と進化につながるのです。そして、自然に心が美しく輝き、透明になり、楽になっていきます。 日本においても、昔の人は神を供養するために自分の持っているものを捧げてきました。自分が一生懸命育てた野菜や米などを捧げたわけです。インドの人々も同じです。自分の大切にしているものを捧げています。 人は捧げるという行為によって、自分の古いエゴを取って、ピュアになっていくことができます。ところが、ヒーリングやアーサナや信仰で、体は健康になったとしても、心の気づきもなく、心が変わらないままだとしたら、深い心の浄化と気づきの機会が失われてしまい、競争心や思い込みからの自分のパワーや美しさを誇示するエゴの増大につながってしまうのです。ヨガは心を浄め、真理を知り、本当に幸福になるという高い目標のためにあり、それを知らないと真の美しさと真の健康への恩恵を逃がしてしまうのです。 ヨグマタ著書「シッダーマスターが示す 悟りへの道」より お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014年04月16日 23時50分59秒
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