カテゴリ:映画
以前から観たいと思っていた映画【ノクターナル・アニマルズ】を、ようやく鑑賞。
感想を書こうと思ったのだが、それにはどうしても詳細や結末に触れる必要があり、更に作品の解釈も観る人によって様々であろう事を考慮して、今回は最初から解説を書く事にした。 ところが…、 7~8割ほど書き進んだ所で、不意にタイトルとラストシーンに隠された監督の意図に気付き、ほとんどを削除して新たに書き直す羽目になった。 その結果、物語の解説ではなくなったものの、逆により深く作品の本質に迫る内容となったのではないかと思う。 因みに、物語に対する個人的な解釈については、書いたら監督の思う壺になりそうで癪なので、永遠にこの胸の内にしまっておく(笑)。 【ノクターナル・アニマルズ】…満足度★★★★ ![]() アートギャラリーのオーナーを務め、夫と共に経済的には恵まれながらも、心は満たされない生活を送るスーザン。 ある週末、20年前に離婚した元夫のエドワードから、彼が書いた小説『ノクターナル・アニマルズ(夜の獣達)』が届く。 それは、まだ残る彼女への愛なのか、それとも復讐なのか…。 まるでアート作品を鑑賞するように、何処をどう切り取るか、何処にどう焦点を当てるか、観る側の感性や価値観によって様々に解釈できる、複雑さと耽美さとを兼ね備えたミステリー作品。 しかし、何より評価すべきは、『ノクターナル・アニマルズ』という題名を通して「映画を観ている人達」を「小説を読むスーザン」と同じ目線に誘い込む、その巧みな手法だろう。 本作は、どの場面も敢えて明言を避けるように撮られ、全てが観る側の解釈に委ねられている。 というか、そうせざるを得ないように仕組まれている。 恐らく、それがトム・フォード監督の狙いなのだろう。 物語の主人公が飽くまでもスーザンである事に鑑みても、この作品の主題は「エドワードのした事が愛か復讐か?」ではなく、「彼の小説からスーザンが何を感じたか?」そして「彼の行為をスーザンがどう受け止めたか?」にある。 (その証拠に、現在のエドワードは一度も画面に登場しない) しかし、小説を読むスーザンの心情が劇中で語られる事はほとんど無いため、観客は必ず「こうに違いない」「こうあって欲しい」と、自分の性格や価値観、願望などをスーザンに投影しながら作品を観る(読む)事になる。 だから、観客が「これは復讐だ」と感じればスーザンは彼の行為を復讐だと受け止めるし、観客が「これは愛だ」と解釈すれば彼女はそこに愛を見出す。 つまり、『ノクターナル・アニマルズ』を読むスーザンとは『ノクターナル・アニマルズ』を観ている観客一人ひとりの映し鏡であり、観客は知らぬ間に彼女と同じ目線に置かれているのだ。 と同時に、この目線は、芸術における「クリエイター(表現者)」と「鑑賞者(批評家)」との関係性をも示唆している。 観客と同じく、スーザンが作品を批評する側の職業にいるのはそのためだ。 そうして作品を鑑賞し、批評する時に心の奥底で蠢く感情こそ、その人の「ノクターナル・アニマルズ(=本性・本質)」に他ならない。 作品について語る事は、自分の内面、人間性を多かれ少なかれ人前に晒す行為である。 それでも語らずにおれないのが、人間の心理というものだろう。 この映画に答えを求めようとする観客の心理は、エドワードとの再会に期待するスーザンの心理と重なるように描かれている。 それを前提に改めて映画を読み解くと、ラストシーンの意味合いはまるで違ったものになる。 レストランで待つスーザンが観客(=あなた)自身だとしたら、小説を書いたエドワードは果たして誰に当たるのか。 それに気付ければ、その人物が最後に残したメッセージも自ずと見えて来るだろう。 「あなたが深淵を覗く時、深淵もまたあなたを覗いているのだ」(ニーチェ) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.06.25 22:31:30
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